カテゴリー「詰将棋」の73件の記事

2017年7月11日 (火)

象戯

 江戸時代の文芸書で、「象戯」や「象棋」と書いてあるものに今のところ出合わない。「將棊」もしくは「將棋」であり、「將棊」の例が多い。「江戸文芸に見る『将棋』」に示した通りである。
 最近は原文通りの漢字ではなく通行字体に書き直して「将棊」「将棋」となっている翻刻が多いが、原文は「將棊」「將棋」なのだろうと思う。この点、『定本西鶴全集』は凡例に「活字印刷の技術の可能な範圍に於て、原本を忠実に翻刻する」とあり、これが望ましい態度であるのは言うまでもない。
 こういうことを書き始めたのは、田代達生の次の一文が心に留まっていたためである。
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題簽の「将棊詰方指南」の将棊の文字についても若干考えさせられる。江戸時代の前半にあたるこの頃までの棋書では、例外は皆無ではないが、殆ど象戯の文字が使用されている。従ってこの本は、宝永の版をそのまま使用し、題名には読者のためにわかり易い「将棊詰方指南」と付け直した後世(おそらく江戸末期)の出版ではないかと考えられるのである。
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(「詰棋めいと」第3号 1985年8月「
宝永三年版『象戯洗濯作物集の研究」より)

 ここで「将棊」とあるのは題簽通りで「將棊」ではない。『大漢和辞典』によれば「将」は「將」の略字であって、俗字ではない。以下、正字、俗字等の区別は同辞典に基づく。
 「例外は皆無ではない」というのは『將棊記』(1653年)や『新刊將棊經鈔』(1654年)などが念頭にあったのだろう。『新刊將棊經鈔』は二代宗古の図式集だが、献上本の書名は『象戯作物』である。献上本に「將棊」「將棋」は一例もない。
要するに「象戯」はハレで、「將棊」「將棋」はケなのだ。
 「棊」と「棋」の関係は、棋は「棊に同じ」とある。同字ということになる。
 一般的には棋書の「象戯」が例外で、「將棊」「將棋」と書くのが普通だったのではないかと思われる。
 棋書以外で「象戯」と書いた例は林鷲峰『國史館日録』1668年10月23日付けの「伊藤宗看來、是當時象戯無雙」及び1669年2月16日付け、「伊藤宗看來、其子宗桂同至、宗看是當時象戯無雙上手也」にある。これは鷲峰の息子、春常(鳳岡)に、初代宗看が息子五代宗桂の『象戯作物』(象戯手鑑)の序文を乞うた話なので「象戯」である方が自然である。
 他には
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御晩年にいだ(ママ)りて。閑暇の御遊戯には。常に象棋をなされけり。その業の者にては伊藤宗印宗鑑。大橋印壽をめして對手とせらる。…後には詰ものといふ書をさへあらはし給へり。…其書なりて。名をば成島忠八郎和鼎に命ぜられしかば。象棋攷格として奉れり。
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「浚明院殿御實紀」附録巻三(『
新訂増補國史大系』第四十七卷「德川實紀」第十篇 1999年6月 新装版第一刷 吉川弘文館)
 「伊藤宗印宗鑑。大橋印壽」は五代宗印(七段)、六代宗看(名人)、九代宗桂(名人)。
 「德川實紀」は、言うまでもなく江戸幕府の公式記録である。「浚明院殿御
紀」は、そのうちの十代将軍徳川家治の治績について記したもの。よく見ると「象棋」の象は
Photo_16 である。この字は象の俗字である。
 また「戯」は「
」が正字で戯は俗字である。天理図書館にある『象戲手段草』の題簽は正字の「戲」になっている。
 戲でも戯でもPhoto_17 (これも俗字)でもない妙な字があって、PCでは漢字変換できない。
Photo_12  これは土佐山内文庫の『象戯圖式』(将棋舞玉)の題簽の字。序文には
「象戯」の文字は4箇所ある。この字が2、下の題簽と同じ戯が2。混在している。

 伊達文庫の『象戯作物』(将棋勇略)の題簽はこうである。
Photo_10 (hiroさん提供)

 勇略の序文に「象戯」の文字は7箇所あるが「象戯圖式序」という内題序だけが「戯」で、あとは上記題簽と同じ文字である。

2017年6月 4日 (日)

洗濯と大矢数

 洗濯というと、坂本龍馬の姉宛書簡(1863年6月)にある「日本を今一度せんたくいたし申候」を思い浮かべる向きもあると思うが、ここでの主題はもちろん詰将棋である。

 『象戯洗濯作物集』(1706年 周詠編 風月荘左衛門刊)という詰将棋撰集があるが、いかにも奇妙な書名である。清水孝晏は「近代将棋」1970年5月号の「知られざる詰将棋」に本書を採りあげ、「題名が変っているだけでなく、内容も従来の詰将棋書とは異っている。(……)発行人が風月荘左衛門といういかにも人を喰った名前で、今日でいう海賊版ではなかろうか」と書いているが、風月堂は京師書林の老舗なのである。京都観光案内である『京羽二重』(1685年)にも「書物屋」10軒の中に名前がある。名古屋にも出店があったようで、芭蕉『笈の小文』途次の、「書林風月と聞きしその名もやさしく覚えて、しばし立ち寄りて休らふほどに、雪の降り出でければ いざ出でむ雪見にころぶ所まで 丁卯臘月(
1687年12月)初、夕道何某に贈る」という真蹟懐紙が現存する。夕道は京都の風月堂で修業した長谷川孫助の俳号。
 「詰棋めいと」第3号(1985年8月)に掲載された田代達生の論考によると、氏は『将棊詰方指南』と書名を変えた再版本(1854年以降・河内屋新次郎刊)を所持していた由。野田市立図書館電子資料室の
『象戯洗濯作物集』と「詰棋めいと」の『将棊詰方指南』は同じ板木のように見える。彫り直したのではなく、求板である。後の板元が書名を変えたのは、「洗濯」の語は似つかわしくないと思ったからなのだろう。
 ところで、「日本古典籍総合目録データベース」で検索したところ、江戸時代に「洗濯」を書名に含む本が、これに先立って一件だけあった。『俳諧洗濯作物』という俳諧の6巻本で寛文六年(1666年)の序文があるが、実際に刊行されたのは寛文十年以降にまで下るらしい。各地に零本があるが、6巻すべて所持していたのは正岡子規で、法政大の子規文庫にある。題簽の剥落もないらしい。編者は椋梨一雪という京出身の貞門派の俳諧師である。当時そこそこの実力者であったらしく、あちこちの撰集に入集している。序文を書いたのは加藤磐斎。貞門派は中世文学の知識の要求が厳しく、一派からは源氏物語や
枕草子の注釈書を著した北村季吟が出ているが、磐斎も実作より伊勢物語や方丈記の注釈書で知られている。初めて刊行された将棋の実戦集である『仲古將棊記』(1653年 久須見九左衛門刊)の序文を書いた加藤盤斎と同一人物であろう(盤はおそらく誤り)。

 さて、いかなる理由で「洗濯」と称したのか。
 その前に、今さら聞くまでもないと思われるかもしれないが「洗濯」の語義を明らかにしておこう。
 大漢和辞典に、「洗ひすすぐ。衣服に限らず、汚穢を去ること」として『後漢書』礼儀志上「是月上巳、官民皆潔於東流水上、曰洗濯祓除」を例示してある。是月は三月を指していて、「三月上巳の日、官民こぞって東へ流れる川のほとりで禊をするが、これを洗濯祓除という」ほどの意味だろう。三月上巳の日は後に三月三日に固定され、桃の節句となる。
 『俳諧洗濯作物』の跋文に一雪がいう。
 「釘の頭の出過ぎたるに、きぬの袖のかゝりかましく、もめん布このえり垢深くよこれたる心をすゝかましく、やがて洗濯物すなる盥の底の浅く敷、ミつから灰汁(あく)桶のたれたれの句数年月ため置しかと」云々。灰汁は文字通り灰を溶かした水の上澄みで、当時の洗剤である。
 また、磐斎が序文にいう。
 「洗濯物ハ、人びとの手をへてひねり出せる、思ひの糸のすゝけぬるにて、手織にしける言葉の花の錦のきれぎれをあらひすすぎて、色よきをえらびあつめてはたバりひろき一まきとつゞりたる、針手のきゝたるしわざなるべし」。「はたバり」は端張りで、幅を広くすること。灰汁は藁灰が良いとされるが、
斎はわざわざ「いかなる水にてあらへるや。わらの灰汁に非ず。……是ハこれ雪げの水なり」と雪解けの水として一雪に掛け、編者としての手腕を持ち上げている。
(引用は『俳諧洗濯物 洗濯碪』1995年「古典文庫」581より)

 一方
『象戯洗濯作物集』の序文は次のようにいう。
 「有る人が問ひて云く、此の作物象戯洗濯と名付くること、家の撰集其の外素人の作の粗誤を見出して抄に顕はせり。剰(あまつさ)へ先図を借るのみにあらず、我が侭に洗ひ濯ぐと云ふ事は、其の家の衆にさも似たり。如何と。答ふらく。分浄水を以て之を洗ふが故に洗濯と号す。譬へば並家の衣を洗ふが如し。後者も極清水を以て余が垢穢を濯ぎたまへと」
(田代氏読み下し文のまま)
 『俳諧洗濯作物』の書名、序跋文が
『象戯洗濯作物集』に何らかの影響を与えたかどうかは分からない。余談だが、「洗濯」は当時「せんだく」と読んでいたと思われる。1603年刊の『日葡辞書』にXendacuとあり、Qirumonouo xendacu suru.(着る物を洗濯する)と例文がある。『俳諧洗濯作物』については『誹家大系図』(1838年 生川春明)の一雪の項に著書として「せんだくもの」と記す。

 
『象戯洗濯作物集』は、福岡瀬平という人が古今の作品集についての評価や誤りを記して所持していたものを周詠が抜き書きして紹介するという体裁を取っている。瀬平は、蒐集した好作を記した本も持っていたと序文にあるが、こちらは「是記すに及ばず」とそっけない。『象戯洗濯作物集』は福岡瀬平が欠陥のある作品を指摘した問題作集という側面と周詠が集めた好作集という面を合わせ持った撰集なのである。
 福岡瀬平も周詠も他の文献に名を見ることが出来ない謎の人物であるが、序文中に「上方咄」について触れた部分があることから、周詠は京・大坂に関わりがある人物かもしれない。その「上方咄」だが、芭蕉の曲水宛1692年9月の書簡に「昨夜五つ前上方咄」とあり、そこでは膳所の珍碩が午後8時前に深川の芭蕉庵に着き、上方の俳人仲間の土産話をしたという意味に取れるので、
『象戯洗濯作物集』の序文の「上方咄」が上方落語に限定されることはないと思われる。

 田代は詰パラ1980年11月号の「無住仙良と宥鏡」のなかで、「洗濯作物集も亦、同一人物によるものではないかと推定している」と書いている。無住仙良=宥鏡=周詠という説であるが、正鵠を射ていると思う。
 宥鏡『象戯大矢數』(1697年)の「大矢數」も俳諧の書名から来たのかもしれない。大矢数は、京都の三十三間堂で日暮れから翌日の日暮れまで24時間に何本の矢を射通すことができるかという競争で、記録を破るため次々に挑戦者が現れ、世間の耳目を集めたらしい。『遠碧軒記』(1675年 黒川道祐)には最初の記録51から当時の記録8000まで、記録の変遷が細かく記されている。最終的に1686年の8133本が記録となった。これをめざとく誹諧の興行にしたのが井原西鶴で、一昼夜に1600句を吐き
1677年西鶴俳諧大句數」と題して出版した。初めて「大矢数」の題簽を持った「誹諧大矢数 千八百韵」(1678年 中村七兵衛刊)を著し西鶴の記録を塗り替えたのは月松軒紀子である。もっとも、証人不在で極めて疑わしいと西鶴は難じている。西鶴は1684年に宝井其角を後見として23500句という気の遠くなるような記録を打ちたて、競争にピリオドを打った。
 『象戯大矢數』は言うまでもなく「番外」の391手詰を大矢数に見立てたのだろうが、正編でなく番外作を念頭に書名としたのは不思議ではある。

170001

72馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、
55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、
73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、
45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、
63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、
46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、
64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、
36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、
54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、
同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、
55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、
73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、
45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、
63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、
46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、
64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、
36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、
54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、
同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、
55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、
73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、
45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、
63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、
46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、
64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、
36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、
54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、
同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、
55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、
73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、
45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、
63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、
46馬、81玉、36馬、91玉、37馬、81玉、27馬、91玉、37馬、81玉、
36馬、91玉、46馬、81玉、45馬、91玉、55馬、81玉、54馬、91玉、
64馬、81玉、63馬、91玉、73馬、81玉、72銀生、92玉、84桂打、同龍、
同桂、同金、91飛、同龍、同馬、同玉、71飛、82玉、81飛成、73玉、
75香、64玉、61龍、55玉、46金、同玉、66龍、45玉、46歩、54玉、
57龍、55角、53成香、64玉、63成香、75玉、55龍、86玉、66龍、97玉、
96龍、88玉、77銀、同玉、33角、78玉、98龍、79玉、88龍、69玉、
68龍
まで391手詰


 歩が17枚余る。『象戯大矢數』の番外頭書に「凡四百度」とあり、これが作意なのだろうが、ここまで駒が余るのは解せない。72歩合を省略すれば駒の余らない85手詰となる。当時の長手数記録は67手(『近來 象戯記大全』
(1695年)第3番  田代市左衛門作)なので、85手でも新記録である。
※神無七郎氏より、377手詰が成立することを教えていただきました。コメント欄を参照して下さい。

 「洗濯」、「大矢数」という書名が、ともに俳書に由来するというのは私の推察なのだが、宥鏡=周詠であればおかしくはない。『諸國象戯作物集』(1700年 宥鏡編 永田調兵衛刊)には俳句が四句紹介されている。このうち二句は芭蕉作とされていて、京作から招来されたものと書かれている。京作は『諸國象戯作物集』に詰将棋が二局採録されている人物である。「京作は盤上の工夫のみならず風雅の心さしもうとからぬにや」と評しているが、
宥鏡=周詠も風雅に疎からぬ人であったのだろう。蕉門では風雅は俳諧を指す言葉だった。

やま櫻將棊の盤も片荷かな
夏の夜や下手の將棊の一二番

 引用された芭蕉作とされる句は田代が「詰棋めいと」に書いた通り岩波文庫の『芭蕉俳句集』
(1970年)では存疑扱いになっているが、その後出版された『芭蕉句集』(1982年 新潮日本古典集成)では「やま櫻」の句は存疑に残り「夏の夜や」は消えている。「やま櫻」は宝暦年間に成立したと言われる『俳諧百歌仙』(小栗旨原編)にも若干字句を変えて収録されていることが物を言ったのだろう。さらに『芭蕉全句集』(2010年 角川ソフィア文庫)には存疑の部がなく、二句とも見られない。
 『諸國象戯作物集』に「是ノ百有余條ハ京江戸大坂備後長崎美濃尾張伊勢三河加賀越中信濃奥州其外在在所所ヨリ集作物」とある。「百有余條」は正確には102局である。ここに掲げられた地名におおむね共通するのは俳諧が盛んだったことである。
宥鏡=周詠は各地の俳人と文通しながら、その地の詰将棋作品も蒐集していたのではないかと想像するのである。

2017年3月20日 (月)

「詰将棋パラダイス」1955年10月号
覆面作家


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34香、32銀合、同香成、同玉、43銀、同玉、41龍、42香合、53と、同玉、
51龍、52角合、64と左、43玉、
54と上、33玉、34歩、同角、31龍、32飛合、
34と、同玉、32龍、33桂合、12角、23歩合、同角成、同桂、35歩、24玉、
25飛、同桂、34龍、13玉、25桂、22玉、14桂、21玉、23龍、31玉、

22龍、41玉、53桂、52玉、43と、同玉、33桂成、44玉、24龍、45玉、
34龍、55玉、54龍、66玉、75銀、同銀、65龍、57玉、67龍、48玉、
58龍、37玉、59馬、48歩合、同龍、26玉、18龍、35玉、15龍、25金合、
34金、45玉、25龍、35歩合、44金、同香、34龍、55玉、67桂、64玉、
44龍、54銀合、74金、同玉、54龍、64金合、65金、73玉、64金、同銀、
76香、74香合、同香、82玉、83金、同玉、75桂、93玉、94歩、同玉、
83銀、85玉、87香、75玉、86金、66玉、48馬、57歩合、64龍、56玉、
65銀、45玉、54龍
まで113手詰


54と寄、33玉、31龍、32飛合、34歩、同角、同と、同玉、32龍、33桂合、44と、同香、52角、24玉、33龍、同玉、43飛、22玉、34桂以下。

22桂成、41玉、32成桂、51玉、42成桂、61玉、52成桂、同玉、63と右、61玉、53桂、71玉、21龍、82玉、73と寄、93玉、91龍以下。

 本局は「愛を求めて」と題された七種合作品である。「愛」は「合」に掛けていたのである。
 完全なら七種合第一号局だったが、余詰があった。
 
 今回は合駒について講釈を述べる。

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あいごま【合駒・間駒】
将棋で飛車、角行、香車による王手を防ぐため、そのきき筋の途中に駒を打つこと。また、その駒。間遮(あいしゃ)。合馬(あいま)。間(あい)。
『日本国語大辞典』
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あいごま【閒駒】
將棋二、敵ノ駒ノ利(キキ)ノ、我ガ駒ニ向キタル時、其駒ト駒トノ閒ニ、歩ナドヲ置キテ防グコト。アヒマ。
『新編 大言海』
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 『新編 大言海』は「間」(新字体)ではなく、「
」であることに注意。
 「間駒」は良く分かるが、「合駒」は誤用なのだろうか。少なくとも合駒は駒と駒が出「合う」意味ではないし、辞書では「合う」に間の意味は(明示的には)ない。
 しかし「あい」にこの意味があった。
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あい【間・合】
(一)人、物、事柄などについて、二つのものの間をいう。
(9)「あいごま(合駒)」の略。
『日本国語大辞典』
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 加藤文卓は一貫して「間」を用いていた。酒井桂史も『琇玉篇』では一箇所を除いて「間」と書いている。
 「間駒」「56角間」の方が気分が出ていて良いかもしれない。

2017年3月19日 (日)

 将棋の駒は次のように分けることができる。

桂、香、歩
飛、角、銀
玉、金

 1は必ず成らなければならないグループ。
 2は成ることも成らないこともできるグループ。
 3は成ることができないグループである。
 桂香歩にとって相手方の一段目(桂は二段目も)は特殊な意味を持っている。ここに着目し分類したのである。

 1は前方にしか利きがないので、利きがない駒は認められないのである。利きがないということは行き所がないことと同義である。
 ここでの仕分けの基準は「成」である。
なるは動作だが、なりは動作の名詞化である。33角成と言う場合、「成」は「なる」であって「なり」ではない。
 以前せきやど図書館にある八代宗桂『将棋大綱』の手書き解答本である『圖式誥書下書』を紹介したが、その記述はカタカナの「ナル」「ヨル」である。漢字一字で書かれている「取」は、当然「トル」と読むのだろう。

 ところで「成る」の辞書的語義について調べてみた。
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なる【成・為・生】
(一)なかったものが、新たに形をとって現われ出る。
(7)将棋で、王将、金将以外の駒が敵陣の三段目以内にはいったり、そこで動いたりしてその性能が変わる。飛車は龍王に、角行は龍馬に、小駒は金将と同等の性能になり、駒を裏返すことによって表わす。
『日本国語大辞典』
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なる【化】
(二)變化(カハ)ル。將棊ニ、我ガ駒ノ進ミテ、敵ノ陣地中ニ入レルモノハ、何レノ駒モ裏返シテ金將ノハタラキト變ズ。
『新編 大言海』
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 『新編 大言海』が飛角を念頭に置いていないのはともかく、「なる」に「化」を当てているのは面白い。これも以前紹介したが、京都府総合資料館に松浦大六寄贈本『
將棊新選圖式』(武田傳右衛門版)があり、解答の部の作品番号の下に「桂不化」「角不化」などとある。また今田政一は月報1942年3月号「十代將軍詰手考」で「不化詰」と書いているので、「化」は十分根拠があると言えよう。
 その「ならず」であるが、「不成」も「不化」も「なる」の否定表現である。「成」が自然であるのに対して「不成」が不自然であり非日常であるのは、指将棋を前提にしているからに外ならない。ところが詰将棋では「不成」は日常なのである。

 「不成」と同様の事態を表すのに「生」を使う。これを「なま」と名詞のように読むのはおかしいので、やはり「ならず」と読むべきだろう。詰パラだけでなく「近代将棋」も「王将」、「詰棋界」も「生」を使っていた。月報は当初「不成」だったが終わりの方で「生」に変わる。正確にいつ変わったのかは調べていないが、1942年12月8日発行の有馬康晴編著『詰將棋吹き寄せ』(將棋月報社刊)は「生」になっている。

2017年2月26日 (日)

「短篇詰将棋」の成立 再考

:このあいだの「『短篇詰将棋』の成立」 には納得いかないんですが。
:そうでしょうね。私も同意見です。
:反論しないんですか? ブログが3行で終わってしまいますけど。
:そりゃいかん。では、何が納得いかへんねん! ボケ!
  これでよろしゅうございますか?
:いや、ことばを荒げて欲しいなんて言ってませんので。
  昭和初期の段階でようやく短篇詰将棋が成立したというのは相当な暴論ではないかと思うのです。
:暴論はたいてい相当ですからね。謙虚な暴論とかは普通ないわけでして。
  いいですか。私が主張しているのは短篇詰将棋が1927年頃に初めて現れたということではないのです。
  草創期から存在していたと書いたでしょう。しかし、短篇という分野が定立されたのはその頃なのだと言っているのです。
  「知られていることは知られているからといって認識されていることにはならない」。
:聞いたようなセリフだなあ。
:つまりこういうことです。認識の三項図式で説明しましょう。認識は意識対象、意識内容、意識作用で成立する、ここまではいいですか?
:カビの生えそうな図式ですね。
:そう言いなさんな。分かりやすいのでね。この場合、意識対象は実在する図面(作品集、手順...)、意識内容は知覚として捉えられた像である図面(作品集、手順...)です。意識作用はそこへ意味を付与する心的な働きです。詰将棋であるとか、これはくだらない作品だなとか、余詰があるやんとか。
:手数が長い、短いという意味は付与されないんですか?
:長い短いは当然把握されるでしょう。しかし、明治・大正までは、短篇という概念がないからそれを短篇であるという認識が持てないのです。一人二人の先行する認識はあったかも知れませんが、その認識は共有されていないというわけです。つまり意味付与には極私的な部分(これはこの前発表に先立って見せてもらったなという感想とか…)もありますが、その背後にその時代の歴史的・社会的な了解事項が聳えているのです。
:短篇ということばがまだないので、短篇という概念もないと?
:そうではありません。大作とか小品とかの呼び名はあったと思います。少し時代は下りますが、杉本兼秋は大作品、小作品と呼んでいます。
:私が不満に思うのは、明治・大正のわずか十数例で、この時期は未だ短篇成立せずと言い切るのは検証不十分だという点です。
:まさに私が「同意見」だと言ったのはその点です。明治・大正時代の新聞雑誌にどのような懸賞問題が出題されていたのか、もう少し材料が欲しいのですがね。
:詰パラに「明治詰物考」という連載があったのではありませんか?
:もちろん承知しています。1973年です。明治後半に各新聞で活躍した小松三香という人がいますが、紹介された7題を見ると9、13、9、27、27、25、25手でした。こんにちでいう短篇からははみ出ています。
:現代的な短篇の手数になっていないというだけで、それは既に短篇という認識なのではありませんか?
:なるほどそうかも知れません。こんにちの短篇の手数区分に捕らわれていました。杉本兼秋の「私の古名作鑑賞」を見ると、勇略の69番(25手)、72番(19手)を短篇、図巧74番(21手)を小作品と言い、無双34番(33手)、67番(33手)、91番(31手)、図巧46番(43手)を中篇、玉図62番(61手)を大作と言っています。
さらに、1943年6月号に「名局に觀る」という記事を書いていますが、副題は「圖巧短篇作品鑑賞」。そこで掲げられた作品は21、27、17、23、23、21、21、25、15、13手です。前回の「成立」にもチラッと書きましたが、30手位までは短篇という認識ですね。
:杉本だけでは不十分ですので、例えば加藤文卓や山村兎月はどうですか?
:加藤は駒数の少ない作品にはよく言及していますが、短手数には特に触れていないようです。もっとも、第一部と第二部に分かれる以前の懸賞詰将棋は中長篇主体ですから短い作品はほとんどなく、分離後まもなく解説を降りましたのでね。「圖巧解説」で手数に触れているのは第36番の13手詰に「手數少なき」とあるだけです。山村は『将棋勇略』解説で「僅少なる」15手詰、27手詰、第一部の解説では「僅僅参拾餘手詰」と書いていますので、短篇の範囲はやはり広いです。
また、里見義周ですが、1941年1月号の「新任の辯」の中で、「一部は長篇、二部は中篇、三部に於ては短篇作品を夫々扱ふ」と明確に書いていますが、里見選者時代の三部の最長手数は29手です。これは杉本の「短篇」とほとんど同じです。
:その頃の新聞詰将棋はどうですか?
:戦前の名古屋新聞の詰将棋ならデータがあります。1936年5月から1940年1月に至る出題作を田代邦夫氏が詰パラ誌上で1971年から72年にかけて紹介しています。手数は7手から53手です。全188局の内17手以内が101局、19手以上が87局です。
:それは誰が出題していたのですか?
:一般の投稿を受け付けていたので、特定の出題者がいたわけではありません。といっても、選題を担当していた飯島正郎との縁が深かった山田芳久の出題が多く49局、飯島が37局というところです。
:新聞詰将棋でも戦前の段階では短篇の範囲が広かったということですね。
:そういうことになります。担当者の飯島が月報1937年4月号に「詰將棋創作懸賞募集」という記事を書いていますので、一部紹介しましょう。
---
 作品は概して大きいものが集りやすい状勢にある。しかし私はその反對に小さい物を求めてゐる。
 これは重大な点であって、専問(ママ)雜誌に載せる詰將棋と、新聞紙上に載せるものとでは相當範圍に違った点のあることを認識しなくてはならないことだ。
(中略)
 私は長くて二十手、いゝ處は十一、二手位のものと思ってゐる。
---
:これは里見、杉本より範囲を狭めていますね。現代の感覚に近いと思いますが、出題作としては「大きいもの」が多くならざるを得なかったのでしょうか。
:募集要項では手数について触れていないのです。ところで第一回の看寿賞の手数区分はどうだったか、知っていますか?
:現在と同じ、17手以内が短篇、49手以内が中篇、ですか?
:短篇は19手以内で、中篇は21手以上49手以内なので、ほんの少し違います。旧パラ1951年3月号に明記してあります。
:ということは短篇30手以内説が、20手以内説に敗れたと。
:勝ち負けの問題ではありませんが、戦後になってそういうところへ収斂したのですね。しかし、同じ時期の詰将棋学校を見ると、手数区分は現在とかなり違います。当時は厳然たる区別はありませんが、小学校19手、中学校27手、高校は55手といった出題もありました。
:要するに、短篇といい、中篇といっても、手数区分は不変のものではないということですね。
:それで、前回から再考した結果ですが、こんにちの手数区分に近い考え方はやはり高橋與三郎の「詰手幼稚園」あたりが嚆矢ではないかと思われます。しかし呼び方は小品であれ短篇であれ、30手位までを「より短い作品」とする認識は明治の時点で成立していた、と言えると思います。

2017年1月30日 (月)

実戦型と創作型

(1)
0270

23角、51玉、73角、62飛、42金、61玉、52金、同飛、62金、同飛、
同角成、同玉、92飛、73玉、93飛成、64玉、53龍、55玉、46金、同香、
45角成、66玉、67馬、55玉、64銀
まで25手詰


(2)
0271_2

71銀、同玉、72歩、61玉、53桂、同金、71歩成、同玉、72銀、同玉、
73金、81玉、82銀、92玉、93桂成
まで15手詰


(3)
0272

14桂、同歩、13銀、同香、12金、同玉、24桂、22玉、12金、31玉、
32桂成、同角、22銀、42玉、33銀成、同桂、同馬、同龍、同香成、51玉、
61飛、同玉、53桂、51玉、41桂成、同角、53龍、52歩、42成香、61玉、
71金、同銀、52成香、同角、71香成、同玉、72銀、同玉、73歩成、81玉、
91歩成、同玉、92歩、81玉、82歩、92玉、83と、91玉、92と、同玉、
84桂、82玉、62龍、83玉、72龍、94玉、95歩、同玉、75龍、94玉、
95歩、83玉、72龍、84玉、75龍、83玉、84香、92玉、72龍、91玉、
82龍
まで71手詰(銀が余る)


 (1)(2)はいずれも実戦型の作品、(3)は創作型です。
 なぜなら、作者がそう書いているからです。

Photo_3 Photo_4

 作者は田代武雄、「將棋世界」1939年4月号の作品合評會より。
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詰將棋創作苦心談

 詰將棋には御承知の如く實戰中よりヒントを得た實戰型と古圖よりヒントを得た創作型そして一歩進んで曲詰等であります。
 先づ創作に當つて私は實戰中たまたま終局面に於て好手を以て詰めたる時の圖を筆記してみます。そして之を一個の詰圖として夫れから次の考慮を加へます。
 一、盤上無意味の駒を取捨てる事。
 二、持駒を定め、適當の駒を入れかへて見る事。(例へば金を飛にと云ふ様に)
 三、餘詰早詰の有無を調査する事。
 此の内特に第三の餘詰早詰の調査は、一朝一夕には出來兼ねます故、數日後或は一ヶ月後に調査して意外の缺陥を發見する事は往々あります。
 實戰型としては、之に妙手を加へる事に努力すれば、一の詰圖とする事は難事でないと存じます。次に創作型に就いて述べて見ます。
 古圖の暗示と云ひますか、此の方法にて傑作を得るのも難事ではありません。併し充分の注意を拂つて創作しないと名作も徒勞に終る事がなきにしも非ずです。
 尚創作型には妙手として不成、或は遠打捨駒等々あり。一局の詰圖中、數手に一手は此の好手を取入れる事にしたならば、名作が生れると存じます。亦詰將棋は初手の一手が複雜してゐるこそ難局と思ひます。
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 実に不思議な説明で、「御承知の如く」というのはこの当時の常識だったのでしょうか?
 次に塚田六段(当時)の説明。「將棋世界」1937年11月号。

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實戰型詰將棋に就いて

 一口に詰將棋と云つても、興味本位の物と實戰的と云ひますか、二つの色調があります。
 興味本位の物とは、奇手、妙手、好手等を含んだ所謂詰將棋らしい、詰將棋の事であります。又、
 實戰的と云ひます物は比較的奇手、妙手と云つた手段が少く、かへつて俗手段に妙味が感じられる、詰將棋なのであります。
---

 これも釈然としませんが、いずれにしても、ここでいわれている実戦型は必ずしも玉方桂香がある詰将棋を指しているのではなさそうです。
 次に杉本兼秋。「將棋世界」1939年5月号。
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詰將棋の作り方

 詰將棋は其の作品の持つ性質に依
て實戰型作品と創作型作品に分類する事が出来ます。前者の實戰型の場合は或る原型に創作的技巧を加へて順次作品的に形成して行くのであるから豫じめ作品の基礎となるべき素材を得て置く事が必要であります。
(中略)
 創作型作品の構想の困難なる事は到底實戰型の比ではありません。
 從來創作型作品に使用されて來た方法には遠打連續不成、玉方の打歩詰強要、攻方の打歩詰廻避の不詰應用種々ある。
(中略)
 宗看看壽の創始せる創作型は我々平凡人の眼では創始者たる彼等に依
て既にその構想の全部を用ひ盡されたかの感が致しますが、酒井先生の名作等を拝見すると未だ未だ新境地開拓の餘地ある事が解ります。
---

 同号には杉本作が5局掲示されていますが、「實戰型作品とは單獨妙手に依りて形成されたる作品」と註をつけられたその四と「創作型作品とは連續妙手によりて形成されたる作品」と註されたその五を紹介します。

その四
0299

25桂、同龍、24銀、同龍、25桂、同龍、35角、22玉、33金、同香、
11飛成、同玉、13香、21玉、12香成、31玉、13角成、41玉、23馬左、32歩、
31馬、同玉、22成香、41玉、51銀成、同玉、33馬、61玉、51馬、同玉、
63桂、61玉、71桂成、同玉、62金、81玉、83香、91玉、82香成
まで39手詰


その五
0300

12銀生、同玉、13歩、11玉、12香、同角、同歩成、同玉、24桂、11玉、
23桂、同馬、12歩、同馬、同桂成、同玉、45角、同金、13歩、11玉、
21歩成、同玉、54角、同香、12歩成、同玉、42飛成、同龍、13歩、11玉、
12金、同龍、同歩成、同玉、13飛、21玉、22歩、同銀、同銀成、同玉、
33飛成、21玉、22銀、12玉、13桂成
まで45手詰


 上記の杉本の一文の舞台裏が月報1939年6月号に掲載されています。
 宮本弓彦から原稿の依頼があったこと、「詰將棋創作に付いて」という題名にしたのに「詰將棋の作り方」という題名に変えられて誌面に載ったことなどが書かれています。
---
田代氏も實戰型と創作型に分類されて詳述されてゐたが、氏が實戰型は實戰より暗示を得て作
た作品であると述べられてゐるのに對し自分のは實戰型は氏と同様の場合と又實戰よりの素材に依らない全部創作せる作品でも遠打不成其他の複妙手を含まない實戰の終局面に應用出來る所謂所謂單妙手形成の作品は實戰型に入れてある。
(中略)
創作型に付いては田代氏は古圖より暗示を得た場合と云
てゐられるが、是は自分のとは表現の方法が異なてゐるが意味に於ては同一であると思ふ。
---


 三者三様ですが、いずれも妙手の存在を中心にして実戦型を捉えていることが分かります。
 即ち、実戦型とは、田代は「妙手を加へる事に努力」すべきこと、塚田六段は「比較的奇手、妙手と云つた手段が少」いこと、杉本は「単独妙手によつて形成され」る作品なのです。

 実戦型というごく普通のことばでも、このように込められた意味が違うことに留意しなければなりません。
 ちなみに酒井桂史は高橋與三郎が紹介するところによれば、書簡中に「凡そ詰將棋作物には實戰の結果得たるものと作者の趣向より出でたるものとの二大別これあり候やう存じ候 前者を仮りに實戰型と名つけ得べくんば後者を趣向型と名付け申すべく候」と書いています。(月報1926年11月「將棋眞田に就きて」)

2017年1月22日 (日)

「短篇詰将棋」の成立

 短篇詰将棋とはどんなものですか?
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 「手数の短い詰将棋のこと。13手詰めくらいまでの詰将棋をいう」
 『日本将棋用語事典』(2004/12東京堂出版)
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5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1616 馬法 1 4 3 11 12 9 40 80
1636 智実 1 6 8 4 15 65 1 100
1646 衆妙 1 2 5 8 12 5 66 1 100
1649 駒競 5 7 6 11 5 65 1 100
1669 手鑑 1 8 1 2 17 62 9 100
1700 勇略 1 2 6 2 87 2 100
1724 手段草 9 1 4 3 73 10 100
1734 無双 1 4 3 3 3 68 18 100
享保? 妙案 1 1 4 5 3 7 7 49 23 100
1755 図巧 1 1 5 4 5 70 14 100
1765 大綱 3 3 5 2 6 72 9 100
1786 舞玉 2 3 1 4 1 75 14 100
1792 玉図 2 6 6 72 14 100

 上記の表はおもな古典作品集の手数を短篇を中心にしてあらわしたものです。13手でなく、17手詰までを短篇とみなし、19手詰以上と分けたのは、詰将棋パラダイス誌(看寿賞)の区分に従っています。19~が中篇、51~は長篇です。同様に詰パラに倣っています。
 さて、短篇はいつ成立したか。
 表を見る限り草創期から短篇はあったといえるでしょう。
 しかしこれら短手数の作品は「短篇」として明確に認識されていたのかどうかが問題です。「長篇」の認識はあったか、と言っても良い。「長篇」という括りがなければ「短篇」は存在しないからです。

 こんにちでは、短篇、中篇、長篇はもっぱら手数により区分けされています。数字で境界を決めるのが分かりやすいためで、内容で分けるとなると甲論乙論花盛りで収拾がつかなくなるでしょう。
 その手数にしても、「近代将棋」では塚田賞の短篇の区分は当初「16手以内」でしたが、85期(1995年1月~6月)から19手までに変わりました。分かりやすいと思われる手数による区分でも変遷があったのです。上記事典の13手というのはどこから来たのでしょうか。ちなみに同書では中篇は15~29手、長篇は31手以上となっていました。
 江戸時代に手数の長短に触れた記述があれば、その時代の意識が検証できそうですが、不勉強のせいもあって今のところ確認できません。手数区分による括りがなかったとしたら詰将棋作品を分けていたものは何か。あるいはそもそも括りがあったのかどうか。


 江戸時代は措くとして、新聞や雑誌に詰将棋が掲載されるようになった明治時代はどうだったでしょうか。深田久弥氏の「新聞詰将棋のはじめから全国紙普及まで東西十五紙の初掲十八題を点検する」(『秀局懐古録』下巻1987年8月・田邊重信)に、1881年の有喜世新聞から1915年の大阪毎日新聞に至る15紙のはじめの出題作18局が紹介されていますが、その内訳は次の通りです。

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1 1 1 2 1 11 1 18

 19手以上の中には、30手台が3局あり、最長は73手詰です。これを見る限り、明治期においては新聞といえども短篇だけでなく中篇も掲載されていたことが分かります。
 では 時代が下って、将棋に関わる戦前の雑誌ではどうだったか。「將棋月報」以外の「將棋之友」(1924/11~1925/6?)、「將棋新誌」(1925/1~1928/12)、「將棊の国」
(1925/12?~1926/5?)などは私には見る術がないので月報の懸賞出題を中心に考えてみます。
「の」は能の変体仮名、「国」は「國」ではない。発行期間は『将棋の博物誌』(越智信義1995/10・三一書房)による)。
 月報創刊号以前の1924年4月号から1926年5月までの懸賞出題作の手数は次の通りです。局数は多少前後するかも知れません。

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
2 8 5 6 5 76 17 119

 明らかに中長篇偏重です。
 1926年6月号から第一部と第二部に分離されました。なぜ分かれたかというと、「讀者の聲」欄への投稿がきっかけです。

1926年3月号
---
難問を希望す
誌友の中には大分初心詰をといふ希望がある様ですが、成程實際には難問より應用の利く塲合が多いでせうけれど、興味本位としては矢張難問の方が實力養成にもなつて良いと思ひます、私はいつも誤る癖に宗看や酒井さんの作物を好んでやつて居る爲か平易なものには兎角興味が薄いのです…
(桂秋生)


これに対して直ちに翌月号で反論が掲載されました。
1926年4月号
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希望二三
三月號讀者の聲を讀みて二三希望を御願致します
第一菊地桂秋君の難問を希望すに付き實際君位の力量の人は難問も宜しきならん初心者には現在のにても難しき物 (中略) 故に今後二題或は三題位難物なれば後二題或は三題位易き物を掲出せられ…
小生も桂秋君同様難問を希望する一人なれども月報は多數の月報なれば難易折半が無易ならん
(池上大門前一力屋投)


 一力屋も解答強豪で、1926年9月号の解答番付では、菊地桂秋の東の大関に対し、一力屋は西の小結でした。


さらに翌月号に前田三桂登場。
1926年5月号
---
平等利益
詰將棋黨の一方の旗頭として驕勇無雙の桂秋君が、頻りに難問を所望せらるゝのは非凡の力量ある勇士として當然の要求である、辨慶ならざる愚僧さへも、全く氏と同感であります (中略) さりながら難問によりて極樂の快樂を教授せらるゝ猛者は滄海の一粟にして他の恒河砂數の群生には譬へば猫に小判でニャンの面白味も起らず興趣をも惹かない (中略) 是に於て勇敢なる一力屋君がグッと一力を入れて、難易等分の折衷案を出し…

愚僧も亦桂秋君に黨せんか、一力屋君に從はんかと去就に迷ひ (中略) けれども其所は多年悟道に入つた丈けの修業の甲斐あつて、妙案を考へ付いた
◆詰將棋出題を甲部と乙部の二組に分つ
一甲部には重に難問を出題す
一乙部には平易なる問題を掲出す

 これが容れられて、6月号から二部制になったというわけです。正に即決。その結果、どうなったでしょうか。

第一部

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1 1 90 36 128

第二部

3 5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1 2 8 10 6 17 10 19 67 140

 これは第三部が登場する直前の1929年3月号までの懸賞出題を手数で区分したものです。第一部は中長篇、第二部は短中篇になりました。まだ「短篇」を認識するに至っていないと思われます。

 1929年4月に第三部が新設されますが、1941年9月までの手数区分は次の通りです(1941年10月に第四部新設)。なお、第三部新設に当たっては何の予告もなく、第一回の出題4局はすべて丸山正爲作でした。

第三部

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
7 17 34 57 64 49 52 125 405

 まだ短中篇が同居しています。しかし19手以上の125局の内訳を見ると、20手台がほとんどで、30手以上は6局だけです。この当時の「短い手数」の感覚は30手以内というものだったのかも知れません。
 実は既に、これ以前に短篇は明確な意識の下に成立していました。

 高橋與三郎が1927年6月から始めた「詰手幼稚園」というコーナーがそれです。以下は口上です。

Photo

 1929年5月まで続き、第三部と入れ替わるように終了しました。内訳は次の通りです。

5 7 9 11 13 15 17 19 21 23 27
5 6 4 2 1 1 1 1 1 1 1 24

 このうち、21手と27手は最終月1929年5月号。6月号に高橋は「近來駒數を増し手數も長くなりし様に思はるゝが元來愚老の意見も丸山君の出題さるゝ位のものを以て適度としてあるのです」として丸山正爲に後を託すというようなことを書いています。

 一般的に短手数のものは易しく、手數が長くなるほど難しいと思われているようで、第一部と第二部に分かれた理由も、詰手幼稚園の存在意義もその点に見出されています(実は難しいのは中篇で、長篇ではないと思われます)。
 つまり、短篇がそれとして定立されたのは、初心者向けの平易なものを、という発想であって手数ではなく難易度の問題に帰していたことが分かります。
 この当時の作品評価の基準を示すものとして、加藤文卓の「圖巧解説」の評言を挙げておきます。そこで強調されていることは、「駒の活動の甚だ複雜なる」、「詰め難き局面を呈して居り」、「駒の運用複雜せる」、などもっぱら難解性に触れています。「讀者の聲」欄でも問われていたのは手数の長短ではなく、難解性でした。


 月報を管見した範囲では、短篇、中篇、長篇などの用語があらわれるのは1936年7月号の「續詰將棋講座」(里見凸歩)が最初ではないかと思いますが、くまなく調べたわけではないので、さらに古い例がありそうな気
します。

 ここで終わっても良いのですが、短篇に特化することが短篇の成立と言えるなら、『待宵』はどうなのかという意見がありそうです。
 『待宵』の手数区分です。

5 7 9 11 13 15 17 19 23
4 8 7 10 7 4 6 2 2 50

 これ、短篇集ですね。(汗)
 『待宵』は1866年刊(?)、渡瀬荘次郎作といわれています。
 「『待宵』 研究の現状」 参照。
 同集には古図式が10局以上(改作含む)混じっており、作者についても判然としないところがあります。どれくらい流通したのかも疑問です。
 「やや堅い本の場合、初版・初刷りは百数十部から数百部」(『江戸の板本』中野三敏2015/12・岩波書店)。これは尾張の大板元だった永楽屋の話ですが、「月報四千の讀者」とは大分違います。もっとも、三千の讀者とか五千とかの記事もありますので、正確なところは分かりませんが。

 流通量もさることながら、『待宵』がどのように受け止められたかが皆目分からないので、短篇の成立とは言いにくいのです。例えばこんな話があります。
---

 「文表記の符号には、、。?!などがある。日本人がこれら文表記の符号について述べたのは、伴藁蹊の「国文世ゝの跡」(安永三年)が最初ではないかと思われる。しかし、この試みは一般化せず、明治一四年伊藤圭介が「日本人ノ雅俗文章ニ於ケル。句読段落ヲ表示スルヲ以テ必要トセサルハ。一欠事タルヲ弁ス。」(「東京学士院雑誌」第二編第一〇冊)を発表してから、文章の近代化・改良をめざして、いろいろな試みが行われた」
(『現代日本語講座』第6巻2002/05・明治書院)
---

 どうも、『待宵』は
伴藁蹊「国文世ゝの跡」と同様、一般化しなかったのではないかと思っています。受け容れられたのなら、もっと早く短篇が自立していたはずです。いわば、月の裏側にそっと置かれていたのではないかということです。

(つづく)

2017年1月 2日 (月)

命名

 戦前の「將棋月報」の出題作で命名された作品は2局しかありません。作者自ら名付けたことが確実なのは、1924年10月の奥坂金次郎作「豐秋」。出題欄の余白に「駒悉くを盤上に配置し『豐秋』と題したり月報社の隆盛を祝す爲め之を寄贈す」とあります。

伊勢 五段 奥坂金次郎氏作

3230

84成香、同桂、同角、92玉、93金、同桂、同角成、同玉、85桂、92玉、
84桂、同歩、93桂成、81玉、83龍、71玉、82龍、61玉、51歩成、同玉、
33角成、同歩、53香、41玉、52龍、31玉、21と、同玉、11歩成、31玉、
23桂生、同金、32銀、22玉、23銀成、同玉、12龍、24玉、14金、25玉、
23龍、36玉、37銀上、47玉、57と、38玉、49金、同玉、29龍、同と、
48飛、59玉、58と、69玉、68と、79玉、78金、89玉、49飛、98玉、
97と、同玉、99飛、98角、89桂、96玉、98飛、85玉、77桂、75玉、
76歩、同玉、96飛、86角合、同飛、75玉、57角、66桂合、同角、同銀、
76飛、同玉、88桂、75玉、86角
まで85手詰


 
23桂生の手順前後はありますが、収束の捨合など良くできていると思います。

 もう一局は酒井桂史の「天馬空行」ですが、こちらは1931年9月の山村兎月の「前號詰將棋解説」中に「本局は酒井先生一大作物なり二枚馬の活動を主眼として作爲したるものにして一名『天馬空行』と題す」とあり、名付けたのは酒井のように取れますが、山村かも知れません。

 図巧第99番の「煙詰」は誰が名付けたのか判然としませんが、第100番の「寿」は「戦前、将棋世界で本局の愛称を募集し」た結果決まった名前だそうです(古図式全書第六巻・門脇芳雄解説)。
 詰将棋作品に命名することは現在では珍しくありませんが、これを始めたのは「将棋評論」で、「一般投稿の新作すべてに命名を…と募集要項に明記して実行された」そうです(「詰棋めいと」第23号川崎弘氏による)。そういえば柏川悦夫作に「鎖鎌」(将棋評論1952年2月・『駒と人生』第34番)という中篇がありました。
 黒川一郎氏が命名に熱心だったことはよく知られていますが、名前があろうとなかろうと良い作品は生き残り、そうでない作品は消えていくのではないでしょうか。

 題名は固有名詞であり、固有名詞とは特定の事物に付けられた名前です。『鏡の国のアリス』にはこんなやりとりがあります。
 「そんな突っ立って一人でブツブツ言ってるんじゃない。名前と用件を述べたまえ」
 「あたしの名前はアリスですけど、でも――」
 「聞くからに間抜けな名前だ!」とハンプティ・ダンプティは、短気そうに口をはさみます。「それでどういう意味?」
 「名前って、意味がなきゃいけないんですか?」アリスは疑わしそうにたずねます。
 「いけないに決まってるだろうが」ハンプティ・ダンプティはちょっと笑いました。「わたしの名前はといえば、これはわたしの形を意味しておる――しかも、すてきでかっこいい形であるな。あんたのみたいな名前では、ほとんどどんな形にだってなれそうじゃないか」
<(C) 2000 山形浩生 プロジェクト杉田玄白正式参加作品>

 ハンプティ・ダンプティはずんぐりむっくりという意味です。名は体を表さなければならないというのがハンプティ・ダンプティの信念なのです。

 さらにブヨとの次のような会話もあります。
 「――だったらきみは、昆虫はみんなきらいなの?」とブヨは、なにごともなかったかのように、静かにつづけました。
 「しゃべれると昆虫も好きよ。あたしがきたところだと、話す昆虫なんかぜんぜんいないもん」
 「どういう昆虫に熱狂するの、きみのきたところだと?」とブヨがたずねます。
 「あたし、昆虫に熱狂したりはしないわよ。ちょっとこわいんだもの――特に大きいのは。でも、名前なら少しはわかるけど」とアリスは説明します。
 「もちろん昆虫は、名前を呼ばれたら答えるんだよね?」とブヨはなにげなく言います。
 「あたしはそういうおぼえはないけど」
 「呼ばれて答えないんなら、その子たちは名前なんかあってもしょうがないじゃないの」とブヨ。
 「そりゃ昆虫には役に立たないだろうけど、でも名前をつけた人間には役にたつんだと思うな。だってそうでなきゃ、なぜそもそもいろんなものに名前なんかついてるのよ」とアリス。

 ここでは固有名詞と普通名詞が一緒くたになっているようですが、「名前をつけた人間には役にたつ」というのはその通りですね。
 こんなナゾナゾがありました。
 「自分のものだけど自分より他の人がよくつかうものはなあに?」
 答えは「自分の名前」というものですが、人間以外の事物の場合は自分が使うことはそもそもできず、呼ばれるしかありません。命名は一方的なものです。人間の場合でも、生まれてきたこどもは本人に相談もなく、一方的に命名されるわけです。(笑)

 生れ来て父の投網に屈しけり(永田耕衣)

 名は体を表さなければならない(人の名前は別ですが)、役に立たなければならない、この二つが命名の意義だとすると詰将棋作品にも適用できそうです。
 つまり、容易に想起できない事物を参照するような命名は褒められないということです。橋本孝治作「イオニゼーション」(近代将棋1985年12月、789手詰)は玉方香歩の位置を順次変えていく論理的であると同時に幻想的な作品で当時の新趣向ですが、まず、イオン化という現象が分からない上に、題名の由来である「イオニゼーション」という曲も今に至るも聴いたことがない、というわけで困ったものです。(笑)   一方、作品名を聞けば、それがどんな作品か思い出すことはできる。この場合、作品を知っているから長々しい説明は不要なためで、題名が作品を指示する役目を果たしていることは確かですが、それでも題名によってこの作品が理解できるわけではない。しかし作品を知らない場合は、いくら耳元で題名を叫ばれても知らないものは思い出せないのです。
 命名が必ずなくてはならないとも、これはという作には命名した方が良いとも思わないので、一度も命名したことはありません。
 「徳島の住人ならではの命名で、作品価値にプラス・アルファが生じました」。これは近藤孝作「阿波踊」(近代将棋1974年9月)に対する森田正司氏の解説、「この巧妙な趣向手順にふさわしい命名があれば、もっと評価が高まっていたのではないでしょうか」。こちらは上島正一作(
近代将棋1975年10月)に対する同氏の解説(いずれも『近代将棋図式精選』1983年1月)ですが、命名によって作品価値が増すというのはとても信じられません。およそ作品に合わない命名をしてマイナスになることはあると思いますが。
 命名に反対はしませんが、作品の側からすれば拒む術がないわけですから、見るものをして納得せしめるような命名をして欲しいと思います。
 くどいようですが、上田吉一作「モザイク」や「モビール」は、題名がなくても名作であることに何ら影響はなく、
題名が価値を高めたわけではないことは強調しておきたいと思います。

2016年12月18日 (日)

詰将棋作品の解説について


◇中24 入選18回
東京都 山本民雄氏作
☆45・7・24再投稿

Para66705156
27角、同馬、99飛、38玉、57銀、37玉、48銀、38玉、37銀、同玉、
97飛迄11手
(首位)

☆4月号に出題された時も大量の誤解者を出したが、その意味を考えた解者はなかったのであろうか。又しても半数以上の大量誤答である。6月号の解説再掲──
近藤郷─凄!
南倫夫─構想絶妙。今月のナンバーワンでしょう。
☆本手順を答えた方は僅かに18名だけで正解者には例外なく絶賛だった。それ程に斬新な名局であったが…………。──
☆26香を置いての修正である。3手目59飛では57銀に対して58歩合で不詰。
秋元竜司─99飛とはうまい手を考えたもの。そのテーマだけでなく一貫して手順がダレていない。
E氏─前の出題の時の「絶妙の構想」とは銀の動きですか?
☆ちがうんですよ。99飛。この一手……。
柿久桂古─99飛の限定がよい。詰上りも新鮮な感じ。
☆こうなると解者を責めるべきではないのだろう。本作はあまりにも斬新な名局なのだ。平均点三・八二。
山田修司─作意99飛を見て肌に粟を生ずる感。傑作です
北川邦男─すばらしい作品です。この遠打の意味は新しい。看寿賞短篇はこれに決定。
吉田健─脱帽!

---
 詰パラ1971年1月号より。1970年11月号の結果稿です。このときの解答者は51名。A20B3C1誤解26無解1得点195。
 あまりにも有名な山本民雄作です。☆は担当者(近藤郷氏)。
 初出は1970年4月号で、玉方26香無しの図。初手59飛、38玉、16角、同馬、39銀、29玉、38銀、18玉、29銀、17玉、28銀、18玉、19飛までの余詰を生じました。26香があれば、手順中の29銀に17玉で堪えています。

 発表されてから50年近く経ったわけですが、この作品はどのように解説されてきたかというのが本稿の主題です。結果稿以外は単行本に限定していますが、見落としがあるかも知れません。
 解説とは、「物事をわかりやすく説明すること。また、その説明」(『日本国語大辞典』
2006年4月第十三巻第五刷・小学館)。「『解』はばらばらに解き分けるという意味を持つ」。「『兌』のグループは外側のものをはぎ取る、または、中身を抜き取るというイメージがある。…説○とく。解き明かす。「兌(はぎとる、抜き取る)+言(ことば)」(『漢字の成立ち辞典』1998年7月東京堂出版)。
 やまと言葉で「解く」とは、「①結んであるもの、縫ってあるものなどをほどく。」を初めとして、「⑨疑問や問題に対する答えを出す。」とあります。(『日本国語大辞典』)。詰将棋で「解く」といえば、この意味ですね。同様に「説く」は「物の道理をことばをついやして相手にわかるように言い聞かせる。理をわけて話す。…」とあります。
 つまり、「解」は作品に対する行為であり、「説」は読者に対する行為です。その点からすると上記の解説は、なぜ99飛であって、59飛や79飛ではないのかという
問いに対する丁寧な「説」が欠けているように思います。もっとも、詰パラの読者は詰将棋愛好者であるから、手順さえ示しておけば狙いは自分で探せるはずという信頼の下に書かれたのかも知れません。それはともかく、ここでは「斬新な名局」と評価しています。
---


◇第168番 山本民雄作(11手詰)

(図面省略)

2七角、同馬、9九飛、3八玉、5七銀、()3七玉、4八銀、3八玉、3七銀、同玉、9七飛迄。

例えば7九飛は()7八歩合で逃れ。
 君知るや9九飛。あの山田修司氏をもって「肌に粟を生ずる感」と叫ばせ、詰棋界を揺がした白眉の中の白眉である。角捨と千鳥銀と鋭い9七飛を配して、この9九飛が切さ琢磨されたのである。超越した何かがある。感動を覚えさせずにおけぬ何かがある。半期賞受賞作、嗚呼、君知るや9九飛。

---
 「古今短編詰将棋名作選」(詰パラ1976年11月号、1977年2月単行本化)原敏彦氏の解説。
 これは解説というより<ほめうた>です。優れた<うた>が何度でも再生され人口に膾炙するように、原氏の「君知るや」は山本作とともに記憶されました。
 詰将棋界では「君」の一字だけで山本作を思い出すのがマニアらしい。「君」で「君恋し」(フランク永井)とか「君たちがいて僕がいた」(舟木一夫)を思い出してはならないのです。
---


(図面省略)

★「君知るや9九飛。あの山田修司氏をもって「肌に粟を生ずる感」と叫ばせ、詰棋界を揺がした白眉の中の白眉である。角捨と千鳥銀と鋭い9七飛を配して、この9九飛が切さ琢磨されたのである。超越した何かがある。感動を覚えさせずにおけぬ何かがある。半期賞受賞作、嗚呼、君知るや9九飛。」
 詰将棋短編名作選の中で、原敏彦氏がこの局に寄せて書いた懐かしい文章である。いかにも原クンらしい熱気に満ち満ちた文章で、面白いのでここにそのまま載せてみる事にした。
(中略)
 本局は、焦点中合による逃れ順を遠打ちによって未然に回避するという斬新な構想作である。簡潔なまとめ方だがさすがに一分の隙も窺うことが出来ない。看寿賞選考会で圧倒的な票を集めながら修正再出題の作であるというくだらない理由で受賞見送りとなった悲運の名作である。

---
 「三百人一局集」(詰パラ1981年2月、単行本化も同月)服部敦氏の解説。
 中略部分は、作家について述べています。
 ここでは、99飛の意味付けが正確に語られています。さらに看寿賞に関わる後日談も。ただし「くだらない理由」云々は私憤ともいうべきもので、書く場所としてどうだったか。服部氏の評価は「斬新な構想作」。ここでも「斬新」ということばが現れました。
 「斬新」とは。
 「物事の風情や趣向がきわだって新しいさま。目新しいさま。」(『日本国語大辞典』)
 「はなはだあたらしい。唐代の方言。斬はきはだつて甚だしい意。」この後に杜甫の「斬新」を含む詩が引用してあります。(『大漢和辞典』修訂第二版第六刷2001年10月・大修館書店)
 斬新という評価は、斬新でない作品群を知っているということです。何が新しく、何が古いかを知っていなければならないのです。
---


第55番 山本 民雄
『詰将棋パラダイス』(昭和45・11)

(図面省略)

隊長 本作は短編ですが、過去にはない、新しい手筋の遠打ちを見せてくれました。

27角、同馬、③99飛、38玉、57銀、37玉、48銀、38玉、37銀、同玉、
97飛まで11手詰め

隊員A 邪魔駒の3七桂を消去して飛車浮きまで。いかにも短編らしいですね。
隊員B ③79飛でも同じになりそうだけど、なぜ9九に打つんだろう?
隊長 ③79飛だと⑥78歩合とされ、7筋に飛車が重複して最終手ができません。③69飛は⑥68歩合、③59飛も⑥58歩合で同じです。
隊員C 89歩合が利けば、詰まないのにね。
隊長 焦点への中合いを回避するための遠打ち──。以後の作品にも影響を与えました。

---
 『詰将棋探検隊』(角建逸1995年12月・毎日コミュニケーションズ)より。
 ③は3手目であること、⑥は6手目であることを示します。
 ここでは、やや不明瞭さが残る「斬新」ではなく、「過去にはない、新しい手筋の遠打ち」と明確に書かれています。遠打そのものは古くからある手筋です。山本作は過去になかった意味付けを遠打に加えた点で新手筋といえるのです。
---


第23番 昭和45年度短編奨励賞 山本民雄作
(詰将棋パラダイス 昭和45年11月号)

(初形図、手順省略)

紛れ図 7八歩合まで
16dec18a

 『古今短編詰将棋名作選』(昭和52年詰パラ刊)の解説原敏彦氏の「君知るや9九飛」の名文句で世に知れ渡った飛車遠打の傑作である。
 では何故3手目9九飛でなければいけないのだろうか。例えば7九飛なら5七銀に対して7八歩中合(紛れ図)の妙手があり同飛寄なら飛車が重複して最終手の飛車上がりが出来ないのだ。同様に6九飛には6八歩合、5九飛には5八歩合で不詰となる。つまり9九飛は焦点の中合を事前に回避するための飛車遠打なのだ。
 修正再出題にもかかわらず約半数の解答者が飛車の打ち場所を間違えて誤解となった。9九飛は当時にあっては衝撃的な新手であり、その後多くの作品に影響を与えた一手である。
(中略)
秋元龍司「99飛とはうまい手を考えたもの。そのテーマだけでなく一貫して手順がダレていない」
山田修司「作意99飛を見て肌に粟を生ずる感。傑作です」

---
 『看寿賞作品集』(柳田明作品解説1999年10月・毎日コミュニケーションズ)より。
 中略の部分は作家についての紹介です。
 秋元氏の名前が正字になっています。この一文は、それまでの解説を総合したような感があります。
 中合を回避するのに遠打を以てするというのは一見逆説的なのです。遠くから打つから中合を喫するので、近くから打つのが普通だからです。
---


(28)
詰将棋パラダイス 1970.11

(図面省略)

27角、①同馬、99飛、38玉、57銀、37玉、48銀、38玉、37銀、同玉、
97飛まで11手詰

①同とは59飛、38玉、39銀、29玉、28銀、18玉、19飛まで
79飛は38玉、57銀、37玉、48銀、38玉、37銀、78歩合で逃れ

 山本民雄の短篇代表作。
 初手の27角は退路をふさぐ意味で、同と(同香成)は59飛、38玉、39銀以下銀ノコで追って詰む。27同馬の応手に同様に追うと、28銀と開王手した時に49銀合をされて詰まない。そこで59飛、38玉、57銀と手を変えて、以下37玉、48銀、38玉、37銀、同玉、57飛まで11手(?)とした解答は誤解である。というのも、37銀と開王手した瞬間に58歩と中合する妙手があり、これを同飛寄と取ると最終57飛が詰みにならないのだ(58歩中合のタイミングは、57銀と開王手した直後であっても構わない)。それでは3手目を69飛と打ったらどうか? 同じように今度は68歩の中合をされて逃れ。3手目79飛なら78歩合というように、2枚飛車の焦点に中合されると詰まない。
 正解は99飛!の遠打。88飛より外側に打っておけば、上記の中合を食らって同じ筋に飛を束ねられることはないという構想だ。99飛に中合をして近づけておく手段は、9段目で高い合駒しかできないために簡単に詰むことにも注目。入玉型の舞台設定も作者の卓越した発想なのである。
 今でこそ、重複を避けるための遠打(あるいは最遠移動)の作例はいくつもあるが、本作がこの構想のオリジナルである。機能的な初形や趣向的な銀の動きなど、これぞ名作というべき作品。蛇足だが、10手目48歩合、同飛、37玉、48金の変化は、合駒がらみの軽微な変長である。

---
 『この詰将棋がすごい! 2012年度版』(編集代表者:若島 正2012年7月・日本チェス・プロブレム協会)小林敏樹氏解説より。
 個人的には、小林氏が「開王手」と送り仮名を省略していることや「短編」でなく「短篇」と表記しているところに興味を持ちました。私も「短篇」派です。
 山本作解説の到達点です。従来、付属的なものとして省略されてきた感がある2手目の変化や、入玉型への言及など新しい視点が加わっています。中でも、変長に関するくだりは、これ以前にも詰パラでは見たような気がしますが、単行本としては初めての指摘でしょう。これが「軽微」かどうかは見る人によって大きく変わってくる気がします。
 最初に戻って、結果稿でB3C1という評点がありました。再出題だから辛くなったのか、変長だからAを付けなかったのか、その辺は不明ですが、あるいは解答者の評価に影響したかも知れません。
 上記6解説には名作評価が3名、傑作評価が1名。原氏は「白眉の中の白眉」でこれは名作と同義でしょう。角氏は「
過去にはない、新しい手筋の遠打ち」としか書いていませんが、『詰将棋探検隊』はそもそも厳選百局の名作選なので、あえて名作とは言わずもがなというところでしょう。
 紙幅の関係で、担当者として十全な解説ができなかったものもあると思います。以上の解説紹介は、どれが優れているかを問うためではなく(それぞれが解説者にとっては真実であると思っています)歴史的な経過をみるために紹介したのです。わずか50年ではなく、100年とか200年とかの長いスパンで解説を見ることができる古典の作品があれば良かったのですが、江戸時代の作品評価(解説ではない)は『象戯洗濯作物集』(1706年)くらいしかなく、そこに掲げられた作品の近年の解説については不勉強で詳しくないので。

2016年12月 5日 (月)

開き王手?

つみしょうぎ?

 詰将棋を
なぜ「つみしょうぎ」と読まないか?
 最大の収録語数を誇る『日本国語大辞典』第二版で調べてみました。
 「詰み」は動詞「詰む」[自マ五(四)]の連用形の名詞化したものであり、「詰め」は動詞「詰める」[自マ下一(下二)]の連用形の名詞化したものです。[自マ五(四)]は自動詞、マ行五段活用、文語では四段活用という意味です。

 【詰】ではじまり「つみ…」と読む語は一つだけ。【詰合】「つみあわせ」ですが、「つめあわせ」に同じとあります。出典も明示してあるので、つみあわせと読む例があるのは確かなのでしょうが、原典の誤用か誤字のような気がします。あとはすべて「つめ」です。
 「詰合」「詰碁」「詰請」「詰声」「詰事」「詰込」「詰込主義」「詰小屋」「詰殺」「詰座」「詰催促」「詰酒盛」「詰衆」「詰衆並」「詰所」「詰城」「詰将棋」「詰切羽」「詰袖」「詰茶」「詰切」「詰手」「詰手順」「詰徳利」「詰鳴」「詰並」「詰人形」「詰抜場」「詰登」「詰腹」「詰番」「詰紐」「詰開」「詰夫」「詰吹」「詰船」「詰奉公」「詰細」「詰本番」「詰間」「詰米」「詰町」「詰物」「詰問答」「詰役」「詰遣」「詰行」「詰用心」「詰寄」「詰」(つめろ)「詰牢」「詰論」「詰論議」これらはすべて「つめ」と読み始める名詞です。このうち、将棋と関係があるのは「詰将棋」の他は「詰手」「詰手順」「詰」(つめろ)だけです。
 要するに【詰】ではじまり「つみ…」と訓読みする複合名詞
は基本的にないということで。(適当
 なお、同辞典では見出しに続く漢字表記の「送り仮名は一切省略」(凡例より)してあります。

 次に表記の問題にも触れておきましょう。新聞や雑誌では、詰将棋を「詰め将棋」と書いているほうが多数派だと思いますが、送り仮名の本則に基づいているのでしょうから間違いとは言いません。
 「走り高跳び」は日本陸連の正規表記では「走高跳」です。鄕に入れば郷に従えということが言いたいわけですが。


開き王手?

 今更言うまでもないことですが、詰将棋は王手の連続で詰めます。
 王手のかけ方は二態様あります。
①打った駒あるいは動いた駒がそれ自体で王手をかける場合
②動かない駒が王手をかける場合
 後者をアキ王手(ヒラキ王手)と呼びます。ヒラキ王手とも呼ぶという記載を何かの書物で見た記憶があります。

栗原寿郎作(旧パラ1952/02)

16dec03a 16dec03a2

 これがアキ王手です。王手をかける香は動いていません。

---
開き王手(あきおうて)
飛車、角、香車などのいわゆる飛び道具と相手の玉の間に何か自分の駒が挟まっている時に、その駒を移動させて王手をかけること。場合によっては、「開き王手」が「両王手」になるパターンがある。
『日本将棋用語事典』(2004/12東京堂出版)
---
 「などの」は龍、馬を指すのでしょう。
 アキとはどういう状態でしょうか。
 アキはアクの名詞形なので、まずアク、アキについて。『日本国語大辞典』で調べてみました。

あ・く【明・開・空】[自カ五(四)]
①隔てや覆いなどが、とり除かれる。閉じていたものが開く。
②そこを占めていたものがなくなる。

 ③以降もあるのですが、代表的なものだけ。

あ・ける【明・開・空】[他カ下一(下二)]。文語形はやはりあ・くです。
①へだてやおおいなど、ふさいであるものを除く。
②そこをしめているものを取り除く。

あき【明・空】『名』〈動詞「あく(明)の連用形の名詞化〉
①物が詰まっていないで、空間のできているところ。あいた所。すきま。空白。
語義としては6種挙げられているのですが、その最初の部分です。
 「あける」は、「あき」が自動詞「あく」の名詞化である以上、外すべきなのですが、あとで関わりがあるので掲げています。

 次にヒラキ、ヒラク。これも動詞形から。

ひら・く【開・披・拓】[他カ五(四)]
一 閉じふさがったものを押し広げる。まとまっているものをほぐして広げる。
①あけひろげる。解放する。

ひらき【開】『名』〈動詞「ひらく(開)の連用形の名詞化〉
閉じ、ふさがっている状態を、あけ広げること。また、そのもの。

 「あく」は、動詞では【明・開・空】なのに名詞では【明・空】になっています。つまり「開き王手」と書く限り、「あきおうて」とは読めず「ひらきおうて」と読むしかありません。従って、「あきおうて」と呼ぶ場合、読みに忠実な表記は「明き王手」または「空き王手」です。「あく」は「開く」と書けるが、名詞「あき」は「開き」と書けないのはヘンですが辞書ではそうなのです。

 『近代日本語における用字法の変遷 -尾崎紅葉を中心に-』(近藤瑞子・翰林書房2001年11月)によれば、他動詞の「あく」は「戸をあける」のような文では、井原西鶴(1642~1693)は「明」を使用し、滝沢馬琴(1767~1848)の『南総里見八犬伝』では「開」を使用しています。同書は尾崎紅葉を中心にしながら明治20年代、30年代の他の作家の用字法にも触れていますが、「あける・ひらく」については鷗外、漱石とも明、開を併用しているようです。
 明治21年の『言海』の「あく」の項には「明」「開」の順で「明」が先に示してあり、当時の他の辞書でも同様とのことです。
 いずれにせよ「空」を「あける」に使用するようになったのは比較的最近のことなのでしょう。

 「あける」と「ひらく」の違いについて明快に説明する本に出会いました。
---
あける
「戸を開く。」と言う場合は開き戸のように、中央から前後に開閉するものを指す。「カーテンを開く。」も、左右(両側)に押し開く場合を言う。〈開ける〉は、引き戸やカーテンを一方に開ける場合に使う。
『表現類語辞典』(2009/07東京堂出版)
---

 アキ王手が一手で左右に開くことはあり得ず、一方にあけるのです。従って、ヒラキ王手はあり得ず、アキ王手「明き王手」「空き王手」が正しい? ただし、このような使い分けが有効なものとして現在意識されているかどうかは怪しいです。私が見た限りでは、辞典でない辞書にこのような説明をしたものはありませんでした。

次は『基礎日本語1』(森田良行1977/10角川書店)より
---
あける〔明ける、開ける、空ける〕他動 自動
隔て、仕切り、内容物などによってその部分が占められている場合、それを取り除いて空白にし、向こう側と通じ、また見通せるような状態に変える。

ひらく
「開く/閉じる」は、「あける/しめる/塞ぐ」と違って、仕切りの向こう側に空間や事物の存在を特に考えない。傷口が開いても別段向こう側と通じるわけではない。…
---

 事態としては「ひらく」より「あける」の方が正しそうですが、

 何より気になるのは、「ひらき」が「ひらく」(他動詞)の名詞化であるのに対して、「あき」は「あく」(自動詞)の名詞化だということ。「ひらく」と同列に論じるには「あける」でなければなりませんが、その名詞化+王手は「アケ王手」であって「アキ王手」にはならない。ヒラキ王手もアキ王手も間違いで、アケ王手が正しいのでしょうか?
 
『日本国語大辞典』には「明方」「明暮」「明荷」「明迎」「明六」(あけむつ)など「あけ」で始まる名詞が見えますが、いずれも「する」を付けることができません。王手は動作名詞なので「する」と言うことができ、明らかに違います。空き部屋と空き王手は名詞の性格が違うのです。「明迎」(あけむかい=遊里などで夜明けに茶屋や駕籠屋などから客を迎えに来ること)には「する」を付けることができますが、この場合の「あけ」は明け方のことですから行為としての「あけ」ではありません。
 もっとも、「男もすなる日記」がおかしいように(日記をするとは通常言わない)王手をするも本当は王手をかけると言うべきですけどね。

 なぜ自動詞連用形名詞+名詞の「アキ王手」が気に入らないか。
 詰将棋において王手は大前提であって、攻方が王手をかけずに他の手を考える余地は無い。ということは、つくる場合も解く場合も「あく」こと(王手)ではなく「あける」こと(ふさがっている駒の移動)こそが重要なのだということです。どこに「あける」か、移動のさせ方、させた行き先が大事なのです。他動詞「ひらく」にはその感触がありますが、自動詞「あく」にはそれがない。「ひらき王手」の主体は人間(ここは微妙で、駒かも知れないし、柿木将棋かも知れない<笑>)ですが、自動詞由来の「アキ王手」はあいた状態の記述であって、主体が不在のような頼りなさが残るのは私だけでしょうか。

 ちなみに山田修司氏は「あき王手」(『夢の華』63頁)、巨椋鴻之介氏は「アキ王手」(『禁じられた遊び』134頁)、上田吉一氏は「開き王手」(『極光21』160頁)、若島正氏は「空き王手」(『盤上のファンタジア』61頁)です。これだけで作風の比較までできそうですね。(できるかっ)

 それで今後どうするかですが、今まで通り私は「空き王手」を使いますが、何か?(笑)

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