カテゴリー「詰将棋」の76件の記事

2017年6月25日 (日)

江戸文芸に見る「将棋」その3

 こういう意味のないことに時間を取られるのは実に楽しい。(笑)

 今回は中川喜雲『しかたはなし』(1659年刊ヵ)。『假名草子集成』
第33巻(2003年3月 東京堂出版)。

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先祖の年忌に、僧俗よびあつめ、斎(とき)の調菜(てうさい)に、しるにもふ、にものにも、ふ、さしミにも、ふ、さかなにも、ふを出したれハ、俗の中より、いふやうハ
 僧衆の御経を、とらやとらや、と、よませらるゝゆへ、ふか、たくさんな
と、いふ
僧の、いはく
 いや、さやうてハない、わうしやうも、ふのもの也
と、いはれし

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 巻一第48話。
 引用した『假名草子集成』は、現在も未翻刻の仮名草子を翻刻・出版中だが、語義の注釈などは一切ないので困る。括弧内は原文にあるルビ。
 「ふ」は麩である。「とらや」は禅宗系で読まれる「大悲心陀羅尼」をさしているのだろうか。
 「わうしゃうも、ふのもの」は「王将も歩のもの」と「往生も麩のもの」を掛けているのだろう。それにしても「とらや」ゆえに「ふ」、という意味が分からない。
 虎の斑の意か。そうすると将棋には関係がなかったかも。

※「王将も歩のもの」という諺?があることを知らなかった。
「方策が尽き運命が窮まっては、勇将もあえなく敵の一兵に倒される。王将も最も弱いこまの歩のえじきとなる。強者も場合によっては、弱者に打ち負かされることのたとえ。一説に「往生もふのもの」の誤りともいう」(『日本国語大辞典』)

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むかしむかし、きやうげんの番くミに、いぐゐと有を見て
 これハ、中将棊(ちうしやうぎ)の事を、きやうけんに、するか
と、いふ
 いかに
と、いへハ
 中しやうぎに、獅子(しゝ)のいくひ
といふ

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 巻二第2話。
 『しかたはなし』は全5巻197話を収めるが、読んでただちに面白さが分かる咄とそうでない咄がある。この咄は分かりやすいが結末が想像できる分、つまらない。
 狂言の「いぐゐ」とは「居杭」という演目。透明人間化した者のいたずらの話。
 中将棋の駒である獅子は玉と同じ利きを持つが一手で二回動けるので、利きの範囲の敵駒を取って元に戻ることもできる。これを居食いという。

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かくをわつらふ者有
友たち、見まひにきたりける時
 いしやハ、なにと、いはるゝそ
と、とひけれハ、膈(かく)と、いふ事を、わすれて
飛車(ひしや)と、いふ煩(わつらひ)じや、と、いはれた

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 巻四第15話。
 膈は、飲食物が胸につまるように感じる病症であるらしい。

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かふきの子共をあつめ、将棊さし侍る者あり
何とやらん名を、いひし、かふき子、そはに見物してゐけるに、まだ手あきの人々おほけれハ、かつ手より今一めん、盤(ばん)を持て出ぬるに、かの見物のかふき子、心のうちに、食を、まちかねける、と見えし色、外にあらハれたり
持出る、しやうぎのばんを、しりめにかけ「膳(ぜん)か出る」と思ひ、人のさしてゐる、しやうぎを、そはから、くつし
 膳かでた まづ、しやうきを、くつしたか、よい
と、いふて、上座に、なをりけるに、そハへ持来るを見れは、しやうきの盤にてそ有し
是ほと、そつしのいたり、せうしなる事て、あつた

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 巻四第16話。
 「かふき」は「傾奇」で、ここでは不良少年といった意味か。
 「かつ手」は勝手。「そつし」は卒爾で、軽率の意。「せうし」は笑止。
 食事の時は、指し掛けた将棋を崩す慣習でもあったのだろうか。

2017年6月11日 (日)

江戸文芸に見る「将棋」その2

 くどいようだが「将棋」を探しているのではなく、知りたいのは別の語句なのであるが。

『新撰犬筑波集』(山崎宗鑑 1524年以降)
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碁うち双六しやうぎさすなり
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『犬子集』(松江重頼編 1633年)
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さか馬にいられて後はつめにくし 貞徳
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 えのこしゅうと読む。
 『新撰犬筑波集』だの、『古今犬著聞集』だのと「犬」が付くのはそれぞれ本家『新撰菟玖波集』や『古今著聞集』に対する卑称である。
 『犬子集』の本家は何かといえば、序文に「犬子集といふ事、犬筑波をしたひて書(かき)たる」とある。


『塵塚誹諧集』(斎藤徳元 1633年)
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将碁さすかたへにうてる碁寸五六(すごろく)
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 管見の範囲では、碁や双六は将棋より出現度合いが高い。特に「碁」は一音ですむので、17音という限られた文字数しかない俳句では重宝されるのである。


『新増犬筑波集』(松永貞徳 1643年刊)
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まけかたの馬はかひなし中将碁
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 中将棋を詠んだ句は珍しいのではないだろうか。


『正章千句』(安原正章 1647年)
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様々の手ある将棊のこまかさよ
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『崑山集』(鶏冠井(かえでい)令徳編 1651年刊)
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将棊さしの上手(じやうず)にみせな金銀花 
喜多正友
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 金銀花は漢方薬らしい。


『紅梅千句』(有馬友仙編 1653年ヵ)
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天道よかたせてたまへ此将棊 可頓

まけさうに成ても強き中將棊 友仙
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『懐子』(松江重頼編 1660年刊)
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自慢めきさせる将棊ハ位詰め 宗立
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 ふところご。国会図書館のデジタルライブラリーを眺めていて見つけた。
 影印本は「近世文學資料類従」にあるらしいが、翻刻はされていないようだ。上記は合っていると思うが自信はない。
 ところで「くらいづめ」は将棋用語ではなく、「敵を身動きできないようにすること」(『日本国語大辞典』)。
 名前を見て、五代宗桂との棋譜が遺っている森田宗立かと思ったが、別の誹諧集に大坂之住 川崎宗立とあるらしく(『貞門談林俳人大観』 1989年 中央大学出版部)、別人なのだろう。
 森田宗立は『京羽二重』(1685年刊)の「諸師諸藝」の「將棊」の部に鎰(かぎ)屋重兵衛として登場し、『象戯綱目』(1707年 赤縣敦庵編 竹村新兵衛刊)では「江戸 森田宗立 鎰屋十兵衛事」と掲載されている。


『宗因千句』(西山宗因 1673年刊)
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将棊をもさす月影のさやかにて
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 指すと射すを掛けている。

 このほか、歩三兵にやられたという句もあったが、メモを取らなかったので思い出せない。『
誹風柳多留』ならありそうだが、初期誹諧集で見たのである。
 歩三兵とは上手方盤上玉一枚で持駒歩三枚。24歩、同歩、23歩で角を取られるというアレ。

2017年6月 5日 (月)

西鶴と詰将棋

 前回は芭蕉の将棋の句に触れたので、今回は西鶴。
 芭蕉と西鶴は同時代人で生まれは西鶴が二年早く、没年も西鶴が一年早い。
 西鶴には『懐硯』(1687年)という短篇集があり、その中に「後家に成ぞこなひ」という作品がある。
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…かくて年月かさなりある時甚九郎つれづれなる雨の日淋しく。日比(ころ)將棊好にてむつかしきつめものの圖を案じける程に。朝の四つより七つ半まで詠(なが)め入。さても今合点(がつてん)が往(い)たこれでつむものをと。吐息つきながらうめきける音したるに。何事と女房かけ付て見れば。はや目を見つめて寒汗(ひへあせ)瀧のごとく。…
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(『定本西鶴全集』第三巻 1955年 中央公論社)

 朝の四つより七つ半は、午前10時から午後5時まで。詰将棋を長時間考えて、解けたと思った途端絶命するのである。実に詰キストの鑑ではないか。(笑)
 亡くなって直ちに、弟二人と女房がそれぞれに欲心を起こして財産を狙うが、絶命と思ったのが実は仮死状態で、息を吹き返したあと三人は勘当、離縁とさんざんな目に遭う。
 詰将棋の部分は話の発端に過ぎないのだが、詰物とは何かといった説明は全くなく、こういう風景が読者にも特に違和感なく受け入れられていたと思われることに注目したい。
 この当時、刊行されていた(詰)将棋書は「新増書籍目録」(1681年 山田喜兵衛刊)によると
 將碁教 宗固
 同大本 宗桂
 同首書 宗閑
 同鈔
 同仲古 久須見
 同鏡 同
 同作物 宗閑
 同中象戯

となる。宗固は宗古、宗閑は宗看であることは言うまでもない。
將碁教は將棊(新板將棊經 二代宗古 1654年 本屋甚左衛門刊)か。五代宗桂の『圖式 象戯手鑑 指南抄』(1669年 柏原屋清右衛門刊)などもあったはずだが。
 西鶴が実際に将棋を嗜んでいたかどうかは分からない。芭蕉の書簡は二百通以上遺っているので年譜はかなり克明だが、西鶴は十通も遺っていないので、動静がよく分からないのである。

2017年6月 4日 (日)

洗濯と大矢数

 洗濯というと、坂本龍馬の姉宛書簡(1863年6月)にある「日本を今一度せんたくいたし申候」を思い浮かべる向きもあると思うが、ここでの主題はもちろん詰将棋である。

 『象戯洗濯作物集』(1706年 周詠編 風月荘左衛門刊)という詰将棋撰集があるが、いかにも奇妙な書名である。清水孝晏は「近代将棋」1970年5月号の「知られざる詰将棋」に本書を採りあげ、「題名が変っているだけでなく、内容も従来の詰将棋書とは異っている。(……)発行人が風月荘左衛門といういかにも人を喰った名前で、今日でいう海賊版ではなかろうか」と書いているが、風月堂は京師書林の老舗なのである。京都観光案内である『京羽二重』(1685年)にも「書物屋」10軒の中に名前がある。名古屋にも出店があったようで、芭蕉『笈の小文』途次の、「書林風月と聞きしその名もやさしく覚えて、しばし立ち寄りて休らふほどに、雪の降り出でければ いざ出でむ雪見にころぶ所まで 丁卯臘月(
1687年12月)初、夕道何某に贈る」という真蹟懐紙が現存する。夕道は京都の風月堂で修業した長谷川孫助の俳号。
 「詰棋めいと」第3号(1985年8月)に掲載された田代達生の論考によると、氏は『将棊詰方指南』と書名を変えた再版本(1854年以降・河内屋新次郎刊)を所持していた由。野田市立図書館電子資料室の
『象戯洗濯作物集』と「詰棋めいと」の『将棊詰方指南』は同じ板木のように見える。彫り直したのではなく、求板である。後の板元が書名を変えたのは、「洗濯」の語は似つかわしくないと思ったからなのだろう。
 ところで、「日本古典籍総合目録データベース」で検索したところ、江戸時代に「洗濯」を書名に含む本が、これに先立って一件だけあった。『俳諧洗濯作物』という俳諧の6巻本で寛文六年(1666年)の序文があるが、実際に刊行されたのは寛文十年以降にまで下るらしい。各地に零本があるが、6巻すべて所持していたのは正岡子規で、法政大の子規文庫にある。題簽の剥落もないらしい。編者は椋梨一雪という京出身の貞門派の俳諧師である。当時そこそこの実力者であったらしく、あちこちの撰集に入集している。序文を書いたのは加藤磐斎。貞門派は中世文学の知識の要求が厳しく、一派からは源氏物語や
枕草子の注釈書を著した北村季吟が出ているが、磐斎も実作より伊勢物語や方丈記の注釈書で知られている。初めて刊行された将棋の実戦集である『仲古將棊記』(1653年 久須見九左衛門刊)の序文を書いた加藤盤斎と同一人物であろう(盤はおそらく誤り)。

 さて、いかなる理由で「洗濯」と称したのか。
 その前に、今さら聞くまでもないと思われるかもしれないが「洗濯」の語義を明らかにしておこう。
 大漢和辞典に、「洗ひすすぐ。衣服に限らず、汚穢を去ること」として『後漢書』礼儀志上「是月上巳、官民皆潔於東流水上、曰洗濯祓除」を例示してある。是月は三月を指していて、「三月上巳の日、官民こぞって東へ流れる川のほとりで禊をするが、これを洗濯祓除という」ほどの意味だろう。三月上巳の日は後に三月三日に固定され、桃の節句となる。
 『俳諧洗濯作物』の跋文に一雪がいう。
 「釘の頭の出過ぎたるに、きぬの袖のかゝりかましく、もめん布このえり垢深くよこれたる心をすゝかましく、やがて洗濯物すなる盥の底の浅く敷、ミつから灰汁(あく)桶のたれたれの句数年月ため置しかと」云々。灰汁は文字通り灰を溶かした水の上澄みで、当時の洗剤である。
 また、磐斎が序文にいう。
 「洗濯物ハ、人びとの手をへてひねり出せる、思ひの糸のすゝけぬるにて、手織にしける言葉の花の錦のきれぎれをあらひすすぎて、色よきをえらびあつめてはたバりひろき一まきとつゞりたる、針手のきゝたるしわざなるべし」。「はたバり」は端張りで、幅を広くすること。灰汁は藁灰が良いとされるが、
斎はわざわざ「いかなる水にてあらへるや。わらの灰汁に非ず。……是ハこれ雪げの水なり」と雪解けの水として一雪に掛け、編者としての手腕を持ち上げている。
(引用は『俳諧洗濯物 俳諧碪』1995年「古典文庫」581より)

 一方
『象戯洗濯作物集』の序文は次のようにいう。
 「有る人が問ひて云く、此の作物象戯洗濯と名付くること、家の撰集其の外素人の作の粗誤を見出して抄に顕はせり。剰(あまつさ)へ先図を借るのみにあらず、我が侭に洗ひ濯ぐと云ふ事は、其の家の衆にさも似たり。如何と。答ふらく。分浄水を以て之を洗ふが故に洗濯と号す。譬へば並家の衣を洗ふが如し。後者も極清水を以て余が垢穢を濯ぎたまへと」
(田代氏読み下し文のまま)
 『俳諧洗濯作物』の書名、序跋文が
『象戯洗濯作物集』に何らかの影響を与えたかどうかは分からない。余談だが、「洗濯」は当時「せんだく」と読んでいたと思われる。1603年刊の『日葡辞書』にXendacuとあり、Qirumonouo xendacu suru.(着る物を洗濯する)と例文がある。『俳諧洗濯作物』については『誹家大系図』(1838年 生川春明)の一雪の項に著書として「せんだくもの」と記す。

 
『象戯洗濯作物集』は、福岡瀬平という人が古今の作品集についての評価や誤りを記して所持していたものを周詠が抜き書きして紹介するという体裁を取っている。瀬平は、蒐集した好作を記した本も持っていたと序文にあるが、こちらは「是記すに及ばず」とそっけない。『象戯洗濯作物集』は福岡瀬平が欠陥のある作品を指摘した問題作集という側面と周詠が集めた好作集という面を合わせ持った撰集なのである。
 福岡瀬平も周詠も他の文献に名を見ることが出来ない謎の人物であるが、序文中に「上方咄」について触れた部分があることから、周詠は京・大坂に関わりがある人物かもしれない。その「上方咄」だが、芭蕉の曲水宛1692年9月の書簡に「昨夜五つ前上方咄」とあり、そこでは膳所の珍碩が午後8時前に深川の芭蕉庵に着き、上方の俳人仲間の土産話をしたという意味に取れるので、
『象戯洗濯作物集』の序文の「上方咄」が上方落語に限定されることはないと思われる。

 田代は詰パラ1980年11月号の「無住仙良と宥鏡」のなかで、「洗濯作物集も亦、同一人物によるものではないかと推定している」と書いている。無住仙良=宥鏡=周詠という説であるが、正鵠を射ていると思う。
 宥鏡『象戯大矢數』(1697年)の「大矢數」も俳諧の書名から来たのかもしれない。大矢数は、京都の三十三間堂で日暮れから翌日の日暮れまで24時間に何本の矢を射通すことができるかという競争で、記録を破るため次々に挑戦者が現れ、世間の耳目を集めたらしい。『遠碧軒記』(1675年 黒川道祐)には最初の記録51から当時の記録8000まで、記録の変遷が細かく記されている。最終的に1686年の8133本が記録となった。これをめざとく誹諧の興行にしたのが井原西鶴で、一昼夜に1600句を吐き
1677年西鶴俳諧大句數」と題して出版した。初めて「大矢数」の題簽を持った「誹諧大矢数 千八百韵」(1678年 中村七兵衛刊)を著し西鶴の記録を塗り替えたのは月松軒紀子である。もっとも、証人不在で極めて疑わしいと西鶴は難じている。西鶴は1684年に宝井其角を後見として23500句という気の遠くなるような記録を打ちたて、競争にピリオドを打った。
 『象戯大矢數』は言うまでもなく「番外」の391手詰を大矢数に見立てたのだろうが、正編でなく番外作を念頭に書名としたのは不思議ではある。

170001

72馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、
55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、
73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、
45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、
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54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、
同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、
55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、
73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、
45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、
63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、
46馬、81玉、36馬、91玉、37馬、81玉、27馬、91玉、37馬、81玉、
36馬、91玉、46馬、81玉、45馬、91玉、55馬、81玉、54馬、91玉、
64馬、81玉、63馬、91玉、73馬、81玉、72銀生、92玉、84桂打、同龍、
同桂、同金、91飛、同龍、同馬、同玉、71飛、82玉、81飛成、73玉、
75香、64玉、61龍、55玉、46金、同玉、66龍、45玉、46歩、54玉、
57龍、55角、53成香、64玉、63成香、75玉、55龍、86玉、66龍、97玉、
96龍、88玉、77銀、同玉、33角、78玉、98龍、79玉、88龍、69玉、
68龍
まで391手詰


 歩が17枚余る。『象戯大矢數』の番外頭書に「凡四百度」とあり、これが作意なのだろうが、ここまで駒が余るのは解せない。72歩合を省略すれば駒の余らない85手詰となる。当時の長手数記録は67手(『近來 象戯記大全』
(1695年)第3番  田代市左衛門作)なので、85手でも新記録である。
※神無七郎氏より、377手詰が成立することを教えていただきました。コメント欄を参照して下さい。

 「洗濯」、「大矢数」という書名が、ともに俳書に由来するというのは私の推察なのだが、宥鏡=周詠であればおかしくはない。『諸國象戯作物集』(1700年 宥鏡編 永田調兵衛刊)には俳句が四句紹介されている。このうち二句は芭蕉作とされていて、京作から招来されたものと書かれている。京作は『諸國象戯作物集』に詰将棋が二局採録されている人物である。「京作は盤上の工夫のみならず風雅の心さしもうとからぬにや」と評しているが、
宥鏡=周詠も風雅に疎からぬ人であったのだろう。蕉門では風雅は俳諧を指す言葉だった。

やま櫻將棊の盤も片荷かな
夏の夜や下手の將棊の一二番

 引用された芭蕉作とされる句は田代が「詰棋めいと」に書いた通り岩波文庫の『芭蕉俳句集』
(1970年)では存疑扱いになっているが、その後出版された『芭蕉句集』(1982年 新潮日本古典集成)では「やま櫻」の句は存疑に残り「夏の夜や」は消えている。「やま櫻」は宝暦年間に成立したと言われる『俳諧百歌仙』(小栗旨原編)にも若干字句を変えて収録されていることが物を言ったのだろう。さらに『芭蕉全句集』(2010年 角川ソフィア文庫)には存疑の部がなく、二句とも見られない。
 『諸國象戯作物集』に「是ノ百有余條ハ京江戸大坂備後長崎美濃尾張伊勢三河加賀越中信濃奥州其外在在所所ヨリ集作物」とある。「百有余條」は正確には102局である。ここに掲げられた地名におおむね共通するのは俳諧が盛んだったことである。
宥鏡=周詠は各地の俳人と文通しながら、その地の詰将棋作品も蒐集していたのではないかと想像するのである。

2017年5月31日 (水)

江戸文芸に見る「将棋」

 古典詰将棋作品集について調べたいことがあり、このところ俳書を中心に元禄時代あたりまでの文芸書を読んでいるのだが、いくつか「将棋」を見かけたので記しておく。「将棋」を探しているわけではないのだが。


『尤之双紙』(もっとものそうし)下(斎藤徳元 1632年 恩阿斎刊ヵ)
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廿 おもしろき物の品々

…相手によりて、碁将棋もおもしろし。…
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 『尤之双紙』は全編「物尽くし」で、上巻は「長き物」「短き物」「高き物」など40題を並べ、下巻は「引く物」「さす物」など40題。
 序文に『枕草子』、『犬枕』(慶長年間)に書き漏らしてあることを集めたとある。
 上記『犬枕』(秦宗巴 1606年頃刊)には「○ 咄にしまぬ(話が進行しない)物」として「一 碁・雙六・將棋」とする。
 この「おもしろき物」尽くしの段は「葦毛馬は、頭もしろし、おもしろし」とたわいない駄洒落で終わる。


『清水物語』(きよみずものがたり)(意林庵 1638年 敦賀屋久兵衛刊)
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…大勇の人には大将をさせ、血気の勇者には、無理に破るべき所に用候へば、皆用に立つ事候べし。将棊の馬を使ふが如し。…
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 問答形式による教訓説話集。
 『仮名草子集』(1991年 岩波書店「新 日本古典文学大系74」)の注には「馬」を「将棋の駒で桂又は成角の龍」とあるが、馬=駒の意ではないだろうか。


『毛吹草』(1638年序 松江重頼編 1645年刊)
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一連歌付誹諧付差別の事
 てにをはをもちゐて付侍るには、指と有に、小櫛 盞 舟を付るは連哥付、將棊 蜂 箱細工 此等誹諧付也。又、打と有に碁 碪(きぬた) 畑などは連哥付、礫(つぶて) 双六 賀留多あそびははいかい付なり。
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 俳論書。
 連歌と俳諧は一見したところ区別はない。貞門俳諧の祖 松永貞徳は「俳言」を使うのが俳諧であると言っている。上記の「將棊 蜂 箱細工」が俳言である。


『是楽物語』(ぜらくものがたり)(作者不詳 1655~1661までの成立)
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…名所旧跡など尋ねしも、後にはしやう事なくて、端の歩をつく将碁にも指し草臥(くたび)れ…
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 仮名草子。悲恋譚だが、旅行記でもあり、楊貴妃の講釈あり、町人生活の活写ありで非常に面白い。
 「端の歩をつく」は『誹風柳多留』(1765-1840年)三篇に「本能寺端の歩をつくひまはなし」とあり、注に「明智光秀の夜襲。事急にして本能寺方は応戦に暇ないさまを将棋の用語を用いて表現したもの。「手のない時には端歩をつけ」などといって、端歩をつくのは持久戦模様」とある。(『川柳 狂歌集』(1958年 岩波書店「日本古典文学大系57」)


『ゆめみ草』(休安編 1656年 安田十兵衛刊)
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 将棊をさしける折から発句所望有ければ
将棊よりつめたきものや指のさき 
天満 奇任
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 冷と詰を掛けている。
 談林俳諧の先駆となる撰集。


『続山井』(湖春編 1667年)
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将棋ならで立(たつ)年と日もたいば哉 
丹波柏原 季成
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 「たいば」は対馬(たいま)=互角の意だろうか。
 湖春は北村季吟の息子。


『詼諧番匠童』(和及編 1685年 新井弥兵衛刊)
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○前句付の事
古流中比(ころ)当流の付心のさかい一句の前句にて付わけぬ
是になぞらへて他を知るべし
  
前句
   萩の露ちる馬持の家

付句
 月にしも二人将棊をさしむかひ
   是古代の付様也前の馬を将棊の馬にして付る也
   又中比宗因風の時は
 其方のお手はととへは松の風
   是も将棊の馬にして付たれとも将棊にいわて噂にて付萩の露ちるといふに松の風を余情にあしらひたり
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 前者は作意にあらわし、後者は変化に隠したというところか。
 古流、古代とは貞門流を指す。



『きれぎれ』(白雪編 1701年序 井筒屋庄兵衛刊)
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さか駒に入て仕廻(ま)ふや下手師走 桃先
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 「さか駒」は入玉。
 芭蕉の白雪宛書簡(真蹟写し)が現存する。桃先は白雪の息子。



『其角十七回』(淡々編 1723年成立)
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一、晋子常にいへるは、「初心のうちよりよき句せんと案(あんず)る事有まじ。只達者に句はやくすべし」とぞ。
 器用さとけいことすきと三つのうち
  好きこそものゝ上手なりけれ
と口ずさみせられけるが、将碁の宗匠宗桂もこの狂哥を折ふしず(誦)しられけるとぞ。共に二本榎上行寺の塵下苔露の友とはなり給ひぬ。
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 宝井其角十七回忌追善撰集。晋子は其角の別号。
 上行寺はこの当時江戸にあったが、現在は神奈川県伊勢原市。三代大橋宗桂以降、十二代大橋宗金までの大橋本家当主全員が眠っている。其角の墓もある。
 ここでいわれている宗桂が其角(1661~1707年)の同時代人とすれば、五代宗桂(1636~1713年)あたりか。(上行寺と大橋宗桂の墓については磯田征一氏のご教示による)
 ところで上記の「狂哥」、これを利休百首の一つとする解説を見たが「上手にはすきと器用と功積むと此の三つそろふ人ぞよく知る」というのが利休の歌であるから正しくない。また「菅原伝授手習鑑」の筆法伝授の段に「上根と稽古、好きの三つのうち、好きこそ物の上手」とある
(上根は優れた素質)が、そもそも1746年初演なので年代が合わない。初出不明である。

2017年3月20日 (月)

「詰将棋パラダイス」1955年10月号
覆面作家


Para54601196

34香、32銀合、同香成、同玉、43銀、同玉、41龍、42香合、53と、同玉、
51龍、52角合、64と左、43玉、
54と上、33玉、34歩、同角、31龍、32飛合、
34と、同玉、32龍、33桂合、12角、23歩合、同角成、同桂、35歩、24玉、
25飛、同桂、34龍、13玉、25桂、22玉、14桂、21玉、23龍、31玉、

22龍、41玉、53桂、52玉、43と、同玉、33桂成、44玉、24龍、45玉、
34龍、55玉、54龍、66玉、75銀、同銀、65龍、57玉、67龍、48玉、
58龍、37玉、59馬、48歩合、同龍、26玉、18龍、35玉、15龍、25金合、
34金、45玉、25龍、35歩合、44金、同香、34龍、55玉、67桂、64玉、
44龍、54銀合、74金、同玉、54龍、64金合、65金、73玉、64金、同銀、
76香、74香合、同香、82玉、83金、同玉、75桂、93玉、94歩、同玉、
83銀、85玉、87香、75玉、86金、66玉、48馬、57歩合、64龍、56玉、
65銀、45玉、54龍
まで113手詰


54と寄、33玉、31龍、32飛合、34歩、同角、同と、同玉、32龍、33桂合、44と、同香、52角、24玉、33龍、同玉、43飛、22玉、34桂以下。

22桂成、41玉、32成桂、51玉、42成桂、61玉、52成桂、同玉、63と右、61玉、53桂、71玉、21龍、82玉、73と寄、93玉、91龍以下。

 本局は「愛を求めて」と題された七種合作品である。「愛」は「合」に掛けていたのである。
 完全なら七種合第一号局だったが、余詰があった。
 
 今回は合駒について講釈を述べる。

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あいごま【合駒・間駒】
将棋で飛車、角行、香車による王手を防ぐため、そのきき筋の途中に駒を打つこと。また、その駒。間遮(あいしゃ)。合馬(あいま)。間(あい)。
『日本国語大辞典』
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あいごま【閒駒】
將棋二、敵ノ駒ノ利(キキ)ノ、我ガ駒ニ向キタル時、其駒ト駒トノ閒ニ、歩ナドヲ置キテ防グコト。アヒマ。
『新編 大言海』
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 『新編 大言海』は「間」(新字体)ではなく、「
」であることに注意。
 「間駒」は良く分かるが、「合駒」は誤用なのだろうか。少なくとも合駒は駒と駒が出「合う」意味ではないし、辞書では「合う」に間の意味は(明示的には)ない。
 しかし「あい」にこの意味があった。
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あい【間・合】
(一)人、物、事柄などについて、二つのものの間をいう。
(9)「あいごま(合駒)」の略。
『日本国語大辞典』
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 加藤文卓は一貫して「間」を用いていた。酒井桂史も『琇玉篇』では一箇所を除いて「間」と書いている。
 「間駒」「56角間」の方が気分が出ていて良いかもしれない。

2017年3月19日 (日)

 将棋の駒は次のように分けることができる。

桂、香、歩
飛、角、銀
玉、金

 1は必ず成らなければならないグループ。
 2は成ることも成らないこともできるグループ。
 3は成ることができないグループである。
 桂香歩にとって相手方の一段目(桂は二段目も)は特殊な意味を持っている。ここに着目し分類したのである。

 1は前方にしか利きがないので、利きがない駒は認められないのである。利きがないということは行き所がないことと同義である。
 ここでの仕分けの基準は「成」である。
なるは動作だが、なりは動作の名詞化である。33角成と言う場合、「成」は「なる」であって「なり」ではない。
 以前せきやど図書館にある八代宗桂『将棋大綱』の手書き解答本である『圖式誥書下書』を紹介したが、その記述はカタカナの「ナル」「ヨル」である。漢字一字で書かれている「取」は、当然「トル」と読むのだろう。

 ところで「成る」の辞書的語義について調べてみた。
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なる【成・為・生】
(一)なかったものが、新たに形をとって現われ出る。
(7)将棋で、王将、金将以外の駒が敵陣の三段目以内にはいったり、そこで動いたりしてその性能が変わる。飛車は龍王に、角行は龍馬に、小駒は金将と同等の性能になり、駒を裏返すことによって表わす。
『日本国語大辞典』
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なる【化】
(二)變化(カハ)ル。將棊ニ、我ガ駒ノ進ミテ、敵ノ陣地中ニ入レルモノハ、何レノ駒モ裏返シテ金將ノハタラキト變ズ。
『新編 大言海』
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 『新編 大言海』が飛角を念頭に置いていないのはともかく、「なる」に「化」を当てているのは面白い。これも以前紹介したが、京都府総合資料館に松浦大六寄贈本『
將棊新選圖式』(武田傳右衛門版)があり、解答の部の作品番号の下に「桂不化」「角不化」などとある。また今田政一は月報1942年3月号「十代將軍詰手考」で「不化詰」と書いているので、「化」は十分根拠があると言えよう。
 その「ならず」であるが、「不成」も「不化」も「なる」の否定表現である。「成」が自然であるのに対して「不成」が不自然であり非日常であるのは、指将棋を前提にしているからに外ならない。ところが詰将棋では「不成」は日常なのである。

 「不成」と同様の事態を表すのに「生」を使う。これを「なま」と名詞のように読むのはおかしいので、やはり「ならず」と読むべきだろう。詰パラだけでなく「近代将棋」も「王将」、「詰棋界」も「生」を使っていた。月報は当初「不成」だったが終わりの方で「生」に変わる。正確にいつ変わったのかは調べていないが、1942年12月8日発行の有馬康晴編著『詰將棋吹き寄せ』(將棋月報社刊)は「生」になっている。

2017年2月26日 (日)

「短篇詰将棋」の成立 再考

:このあいだの「『短篇詰将棋』の成立」 には納得いかないんですが。
:そうでしょうね。私も同意見です。
:反論しないんですか? ブログが3行で終わってしまいますけど。
:そりゃいかん。では、何が納得いかへんねん! ボケ!
  これでよろしゅうございますか?
:いや、ことばを荒げて欲しいなんて言ってませんので。
  昭和初期の段階でようやく短篇詰将棋が成立したというのは相当な暴論ではないかと思うのです。
:暴論はたいてい相当ですからね。謙虚な暴論とかは普通ないわけでして。
  いいですか。私が主張しているのは短篇詰将棋が1927年頃に初めて現れたということではないのです。
  草創期から存在していたと書いたでしょう。しかし、短篇という分野が定立されたのはその頃なのだと言っているのです。
  「知られていることは知られているからといって認識されていることにはならない」。
:聞いたようなセリフだなあ。
:つまりこういうことです。認識の三項図式で説明しましょう。認識は意識対象、意識内容、意識作用で成立する、ここまではいいですか?
:カビの生えそうな図式ですね。
:そう言いなさんな。分かりやすいのでね。この場合、意識対象は実在する図面(作品集、手順...)、意識内容は知覚として捉えられた像である図面(作品集、手順...)です。意識作用はそこへ意味を付与する心的な働きです。詰将棋であるとか、これはくだらない作品だなとか、余詰があるやんとか。
:手数が長い、短いという意味は付与されないんですか?
:長い短いは当然把握されるでしょう。しかし、明治・大正までは、短篇という概念がないからそれを短篇であるという認識が持てないのです。一人二人の先行する認識はあったかも知れませんが、その認識は共有されていないというわけです。つまり意味付与には極私的な部分(これはこの前発表に先立って見せてもらったなという感想とか…)もありますが、その背後にその時代の歴史的・社会的な了解事項が聳えているのです。
:短篇ということばがまだないので、短篇という概念もないと?
:そうではありません。大作とか小品とかの呼び名はあったと思います。少し時代は下りますが、杉本兼秋は大作品、小作品と呼んでいます。
:私が不満に思うのは、明治・大正のわずか十数例で、この時期は未だ短篇成立せずと言い切るのは検証不十分だという点です。
:まさに私が「同意見」だと言ったのはその点です。明治・大正時代の新聞雑誌にどのような懸賞問題が出題されていたのか、もう少し材料が欲しいのですがね。
:詰パラに「明治詰物考」という連載があったのではありませんか?
:もちろん承知しています。1973年です。明治後半に各新聞で活躍した小松三香という人がいますが、紹介された7題を見ると9、13、9、27、27、25、25手でした。こんにちでいう短篇からははみ出ています。
:現代的な短篇の手数になっていないというだけで、それは既に短篇という認識なのではありませんか?
:なるほどそうかも知れません。こんにちの短篇の手数区分に捕らわれていました。杉本兼秋の「私の古名作鑑賞」を見ると、勇略の69番(25手)、72番(19手)を短篇、図巧74番(21手)を小作品と言い、無双34番(33手)、67番(33手)、91番(31手)、図巧46番(43手)を中篇、玉図62番(61手)を大作と言っています。
さらに、1943年6月号に「名局に觀る」という記事を書いていますが、副題は「圖巧短篇作品鑑賞」。そこで掲げられた作品は21、27、17、23、23、21、21、25、15、13手です。前回の「成立」にもチラッと書きましたが、30手位までは短篇という認識ですね。
:杉本だけでは不十分ですので、例えば加藤文卓や山村兎月はどうですか?
:加藤は駒数の少ない作品にはよく言及していますが、短手数には特に触れていないようです。もっとも、第一部と第二部に分かれる以前の懸賞詰将棋は中長篇主体ですから短い作品はほとんどなく、分離後まもなく解説を降りましたのでね。「圖巧解説」で手数に触れているのは第36番の13手詰に「手數少なき」とあるだけです。山村は『将棋勇略』解説で「僅少なる」15手詰、27手詰、第一部の解説では「僅僅参拾餘手詰」と書いていますので、短篇の範囲はやはり広いです。
また、里見義周ですが、1941年1月号の「新任の辯」の中で、「一部は長篇、二部は中篇、三部に於ては短篇作品を夫々扱ふ」と明確に書いていますが、里見選者時代の三部の最長手数は29手です。これは杉本の「短篇」とほとんど同じです。
:その頃の新聞詰将棋はどうですか?
:戦前の名古屋新聞の詰将棋ならデータがあります。1936年5月から1940年1月に至る出題作を田代邦夫氏が詰パラ誌上で1971年から72年にかけて紹介しています。手数は7手から53手です。全188局の内17手以内が101局、19手以上が87局です。
:それは誰が出題していたのですか?
:一般の投稿を受け付けていたので、特定の出題者がいたわけではありません。といっても、選題を担当していた飯島正郎との縁が深かった山田芳久の出題が多く49局、飯島が37局というところです。
:新聞詰将棋でも戦前の段階では短篇の範囲が広かったということですね。
:そういうことになります。担当者の飯島が月報1937年4月号に「詰將棋創作懸賞募集」という記事を書いていますので、一部紹介しましょう。
---
 作品は概して大きいものが集りやすい状勢にある。しかし私はその反對に小さい物を求めてゐる。
 これは重大な点であって、専問(ママ)雜誌に載せる詰將棋と、新聞紙上に載せるものとでは相當範圍に違った点のあることを認識しなくてはならないことだ。
(中略)
 私は長くて二十手、いゝ處は十一、二手位のものと思ってゐる。
---
:これは里見、杉本より範囲を狭めていますね。現代の感覚に近いと思いますが、出題作としては「大きいもの」が多くならざるを得なかったのでしょうか。
:募集要項では手数について触れていないのです。ところで第一回の看寿賞の手数区分はどうだったか、知っていますか?
:現在と同じ、17手以内が短篇、49手以内が中篇、ですか?
:短篇は19手以内で、中篇は21手以上49手以内なので、ほんの少し違います。旧パラ1951年3月号に明記してあります。
:ということは短篇30手以内説が、20手以内説に敗れたと。
:勝ち負けの問題ではありませんが、戦後になってそういうところへ収斂したのですね。しかし、同じ時期の詰将棋学校を見ると、手数区分は現在とかなり違います。当時は厳然たる区別はありませんが、小学校19手、中学校27手、高校は55手といった出題もありました。
:要するに、短篇といい、中篇といっても、手数区分は不変のものではないということですね。
:それで、前回から再考した結果ですが、こんにちの手数区分に近い考え方はやはり高橋與三郎の「詰手幼稚園」あたりが嚆矢ではないかと思われます。しかし呼び方は小品であれ短篇であれ、30手位までを「より短い作品」とする認識は明治の時点で成立していた、と言えると思います。

2017年1月30日 (月)

実戦型と創作型

(1)
0270

23角、51玉、73角、62飛、42金、61玉、52金、同飛、62金、同飛、
同角成、同玉、92飛、73玉、93飛成、64玉、53龍、55玉、46金、同香、
45角成、66玉、67馬、55玉、64銀
まで25手詰


(2)
0271_2

71銀、同玉、72歩、61玉、53桂、同金、71歩成、同玉、72銀、同玉、
73金、81玉、82銀、92玉、93桂成
まで15手詰


(3)
0272

14桂、同歩、13銀、同香、12金、同玉、24桂、22玉、12金、31玉、
32桂成、同角、22銀、42玉、33銀成、同桂、同馬、同龍、同香成、51玉、
61飛、同玉、53桂、51玉、41桂成、同角、53龍、52歩、42成香、61玉、
71金、同銀、52成香、同角、71香成、同玉、72銀、同玉、73歩成、81玉、
91歩成、同玉、92歩、81玉、82歩、92玉、83と、91玉、92と、同玉、
84桂、82玉、62龍、83玉、72龍、94玉、95歩、同玉、75龍、94玉、
95歩、83玉、72龍、84玉、75龍、83玉、84香、92玉、72龍、91玉、
82龍
まで71手詰(銀が余る)


 (1)(2)はいずれも実戦型の作品、(3)は創作型です。
 なぜなら、作者がそう書いているからです。

Photo_3 Photo_4

 作者は田代武雄、「將棋世界」1939年4月号の作品合評會より。
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詰將棋創作苦心談

 詰將棋には御承知の如く實戰中よりヒントを得た實戰型と古圖よりヒントを得た創作型そして一歩進んで曲詰等であります。
 先づ創作に當つて私は實戰中たまたま終局面に於て好手を以て詰めたる時の圖を筆記してみます。そして之を一個の詰圖として夫れから次の考慮を加へます。
 一、盤上無意味の駒を取捨てる事。
 二、持駒を定め、適當の駒を入れかへて見る事。(例へば金を飛にと云ふ様に)
 三、餘詰早詰の有無を調査する事。
 此の内特に第三の餘詰早詰の調査は、一朝一夕には出來兼ねます故、數日後或は一ヶ月後に調査して意外の缺陥を發見する事は往々あります。
 實戰型としては、之に妙手を加へる事に努力すれば、一の詰圖とする事は難事でないと存じます。次に創作型に就いて述べて見ます。
 古圖の暗示と云ひますか、此の方法にて傑作を得るのも難事ではありません。併し充分の注意を拂つて創作しないと名作も徒勞に終る事がなきにしも非ずです。
 尚創作型には妙手として不成、或は遠打捨駒等々あり。一局の詰圖中、數手に一手は此の好手を取入れる事にしたならば、名作が生れると存じます。亦詰將棋は初手の一手が複雜してゐるこそ難局と思ひます。
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 実に不思議な説明で、「御承知の如く」というのはこの当時の常識だったのでしょうか?
 次に塚田六段(当時)の説明。「將棋世界」1937年11月号。

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實戰型詰將棋に就いて

 一口に詰將棋と云つても、興味本位の物と實戰的と云ひますか、二つの色調があります。
 興味本位の物とは、奇手、妙手、好手等を含んだ所謂詰將棋らしい、詰將棋の事であります。又、
 實戰的と云ひます物は比較的奇手、妙手と云つた手段が少く、かへつて俗手段に妙味が感じられる、詰將棋なのであります。
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 これも釈然としませんが、いずれにしても、ここでいわれている実戦型は必ずしも玉方桂香がある詰将棋を指しているのではなさそうです。
 次に杉本兼秋。「將棋世界」1939年5月号。
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詰將棋の作り方

 詰將棋は其の作品の持つ性質に依
て實戰型作品と創作型作品に分類する事が出来ます。前者の實戰型の場合は或る原型に創作的技巧を加へて順次作品的に形成して行くのであるから豫じめ作品の基礎となるべき素材を得て置く事が必要であります。
(中略)
 創作型作品の構想の困難なる事は到底實戰型の比ではありません。
 從來創作型作品に使用されて來た方法には遠打連續不成、玉方の打歩詰強要、攻方の打歩詰廻避の不詰應用種々ある。
(中略)
 宗看看壽の創始せる創作型は我々平凡人の眼では創始者たる彼等に依
て既にその構想の全部を用ひ盡されたかの感が致しますが、酒井先生の名作等を拝見すると未だ未だ新境地開拓の餘地ある事が解ります。
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 同号には杉本作が5局掲示されていますが、「實戰型作品とは單獨妙手に依りて形成されたる作品」と註をつけられたその四と「創作型作品とは連續妙手によりて形成されたる作品」と註されたその五を紹介します。

その四
0299

25桂、同龍、24銀、同龍、25桂、同龍、35角、22玉、33金、同香、
11飛成、同玉、13香、21玉、12香成、31玉、13角成、41玉、23馬左、32歩、
31馬、同玉、22成香、41玉、51銀成、同玉、33馬、61玉、51馬、同玉、
63桂、61玉、71桂成、同玉、62金、81玉、83香、91玉、82香成
まで39手詰


その五
0300

12銀生、同玉、13歩、11玉、12香、同角、同歩成、同玉、24桂、11玉、
23桂、同馬、12歩、同馬、同桂成、同玉、45角、同金、13歩、11玉、
21歩成、同玉、54角、同香、12歩成、同玉、42飛成、同龍、13歩、11玉、
12金、同龍、同歩成、同玉、13飛、21玉、22歩、同銀、同銀成、同玉、
33飛成、21玉、22銀、12玉、13桂成
まで45手詰


 上記の杉本の一文の舞台裏が月報1939年6月号に掲載されています。
 宮本弓彦から原稿の依頼があったこと、「詰將棋創作に付いて」という題名にしたのに「詰將棋の作り方」という題名に変えられて誌面に載ったことなどが書かれています。
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田代氏も實戰型と創作型に分類されて詳述されてゐたが、氏が實戰型は實戰より暗示を得て作
た作品であると述べられてゐるのに對し自分のは實戰型は氏と同様の場合と又實戰よりの素材に依らない全部創作せる作品でも遠打不成其他の複妙手を含まない實戰の終局面に應用出來る所謂所謂單妙手形成の作品は實戰型に入れてある。
(中略)
創作型に付いては田代氏は古圖より暗示を得た場合と云
てゐられるが、是は自分のとは表現の方法が異なてゐるが意味に於ては同一であると思ふ。
---


 三者三様ですが、いずれも妙手の存在を中心にして実戦型を捉えていることが分かります。
 即ち、実戦型とは、田代は「妙手を加へる事に努力」すべきこと、塚田六段は「比較的奇手、妙手と云つた手段が少」いこと、杉本は「単独妙手によつて形成され」る作品なのです。

 実戦型というごく普通のことばでも、このように込められた意味が違うことに留意しなければなりません。
 ちなみに酒井桂史は高橋與三郎が紹介するところによれば、書簡中に「凡そ詰將棋作物には實戰の結果得たるものと作者の趣向より出でたるものとの二大別これあり候やう存じ候 前者を仮りに實戰型と名つけ得べくんば後者を趣向型と名付け申すべく候」と書いています。(月報1926年11月「將棋眞田に就きて」)

2017年1月22日 (日)

「短篇詰将棋」の成立

 短篇詰将棋とはどんなものですか?
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 「手数の短い詰将棋のこと。13手詰めくらいまでの詰将棋をいう」
 『日本将棋用語事典』(2004/12東京堂出版)
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5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1616 馬法 1 4 3 11 12 9 40 80
1636 智実 1 6 8 4 15 65 1 100
1646 衆妙 1 2 5 8 12 5 66 1 100
1649 駒競 5 7 6 11 5 65 1 100
1669 手鑑 1 8 1 2 17 62 9 100
1700 勇略 1 2 6 2 87 2 100
1724 手段草 9 1 4 3 73 10 100
1734 無双 1 4 3 3 3 68 18 100
享保? 妙案 1 1 4 5 3 7 7 49 23 100
1755 図巧 1 1 5 4 5 70 14 100
1765 大綱 3 3 5 2 6 72 9 100
1786 舞玉 2 3 1 4 1 75 14 100
1792 玉図 2 6 6 72 14 100

 上記の表はおもな古典作品集の手数を短篇を中心にしてあらわしたものです。13手でなく、17手詰までを短篇とみなし、19手詰以上と分けたのは、詰将棋パラダイス誌(看寿賞)の区分に従っています。19~が中篇、51~は長篇です。同様に詰パラに倣っています。
 さて、短篇はいつ成立したか。
 表を見る限り草創期から短篇はあったといえるでしょう。
 しかしこれら短手数の作品は「短篇」として明確に認識されていたのかどうかが問題です。「長篇」の認識はあったか、と言っても良い。「長篇」という括りがなければ「短篇」は存在しないからです。

 こんにちでは、短篇、中篇、長篇はもっぱら手数により区分けされています。数字で境界を決めるのが分かりやすいためで、内容で分けるとなると甲論乙論花盛りで収拾がつかなくなるでしょう。
 その手数にしても、「近代将棋」では塚田賞の短篇の区分は当初「16手以内」でしたが、85期(1995年1月~6月)から19手までに変わりました。分かりやすいと思われる手数による区分でも変遷があったのです。上記事典の13手というのはどこから来たのでしょうか。ちなみに同書では中篇は15~29手、長篇は31手以上となっていました。
 江戸時代に手数の長短に触れた記述があれば、その時代の意識が検証できそうですが、不勉強のせいもあって今のところ確認できません。手数区分による括りがなかったとしたら詰将棋作品を分けていたものは何か。あるいはそもそも括りがあったのかどうか。


 江戸時代は措くとして、新聞や雑誌に詰将棋が掲載されるようになった明治時代はどうだったでしょうか。深田久弥氏の「新聞詰将棋のはじめから全国紙普及まで東西十五紙の初掲十八題を点検する」(『秀局懐古録』下巻1987年8月・田邊重信)に、1881年の有喜世新聞から1915年の大阪毎日新聞に至る15紙のはじめの出題作18局が紹介されていますが、その内訳は次の通りです。

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1 1 1 2 1 11 1 18

 19手以上の中には、30手台が3局あり、最長は73手詰です。これを見る限り、明治期においては新聞といえども短篇だけでなく中篇も掲載されていたことが分かります。
 では 時代が下って、将棋に関わる戦前の雑誌ではどうだったか。「將棋月報」以外の「將棋之友」(1924/11~1925/6?)、「將棋新誌」(1925/1~1928/12)、「將棊の国」
(1925/12?~1926/5?)などは私には見る術がないので月報の懸賞出題を中心に考えてみます。
「の」は能の変体仮名、「国」は「國」ではない。発行期間は『将棋の博物誌』(越智信義1995/10・三一書房)による)。
 月報創刊号以前の1924年4月号から1926年5月までの懸賞出題作の手数は次の通りです。局数は多少前後するかも知れません。

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
2 8 5 6 5 76 17 119

 明らかに中長篇偏重です。
 1926年6月号から第一部と第二部に分離されました。なぜ分かれたかというと、「讀者の聲」欄への投稿がきっかけです。

1926年3月号
---
難問を希望す
誌友の中には大分初心詰をといふ希望がある様ですが、成程實際には難問より應用の利く塲合が多いでせうけれど、興味本位としては矢張難問の方が實力養成にもなつて良いと思ひます、私はいつも誤る癖に宗看や酒井さんの作物を好んでやつて居る爲か平易なものには兎角興味が薄いのです…
(桂秋生)


これに対して直ちに翌月号で反論が掲載されました。
1926年4月号
---
希望二三
三月號讀者の聲を讀みて二三希望を御願致します
第一菊地桂秋君の難問を希望すに付き實際君位の力量の人は難問も宜しきならん初心者には現在のにても難しき物 (中略) 故に今後二題或は三題位難物なれば後二題或は三題位易き物を掲出せられ…
小生も桂秋君同様難問を希望する一人なれども月報は多數の月報なれば難易折半が無易ならん
(池上大門前一力屋投)


 一力屋も解答強豪で、1926年9月号の解答番付では、菊地桂秋の東の大関に対し、一力屋は西の小結でした。


さらに翌月号に前田三桂登場。
1926年5月号
---
平等利益
詰將棋黨の一方の旗頭として驕勇無雙の桂秋君が、頻りに難問を所望せらるゝのは非凡の力量ある勇士として當然の要求である、辨慶ならざる愚僧さへも、全く氏と同感であります (中略) さりながら難問によりて極樂の快樂を教授せらるゝ猛者は滄海の一粟にして他の恒河砂數の群生には譬へば猫に小判でニャンの面白味も起らず興趣をも惹かない (中略) 是に於て勇敢なる一力屋君がグッと一力を入れて、難易等分の折衷案を出し…

愚僧も亦桂秋君に黨せんか、一力屋君に從はんかと去就に迷ひ (中略) けれども其所は多年悟道に入つた丈けの修業の甲斐あつて、妙案を考へ付いた
◆詰將棋出題を甲部と乙部の二組に分つ
一甲部には重に難問を出題す
一乙部には平易なる問題を掲出す

 これが容れられて、6月号から二部制になったというわけです。正に即決。その結果、どうなったでしょうか。

第一部

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1 1 90 36 128

第二部

3 5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1 2 8 10 6 17 10 19 67 140

 これは第三部が登場する直前の1929年3月号までの懸賞出題を手数で区分したものです。第一部は中長篇、第二部は短中篇になりました。まだ「短篇」を認識するに至っていないと思われます。

 1929年4月に第三部が新設されますが、1941年9月までの手数区分は次の通りです(1941年10月に第四部新設)。なお、第三部新設に当たっては何の予告もなく、第一回の出題4局はすべて丸山正爲作でした。

第三部

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
7 17 34 57 64 49 52 125 405

 まだ短中篇が同居しています。しかし19手以上の125局の内訳を見ると、20手台がほとんどで、30手以上は6局だけです。この当時の「短い手数」の感覚は30手以内というものだったのかも知れません。
 実は既に、これ以前に短篇は明確な意識の下に成立していました。

 高橋與三郎が1927年6月から始めた「詰手幼稚園」というコーナーがそれです。以下は口上です。

Photo

 1929年5月まで続き、第三部と入れ替わるように終了しました。内訳は次の通りです。

5 7 9 11 13 15 17 19 21 23 27
5 6 4 2 1 1 1 1 1 1 1 24

 このうち、21手と27手は最終月1929年5月号。6月号に高橋は「近來駒數を増し手數も長くなりし様に思はるゝが元來愚老の意見も丸山君の出題さるゝ位のものを以て適度としてあるのです」として丸山正爲に後を託すというようなことを書いています。

 一般的に短手数のものは易しく、手數が長くなるほど難しいと思われているようで、第一部と第二部に分かれた理由も、詰手幼稚園の存在意義もその点に見出されています(実は難しいのは中篇で、長篇ではないと思われます)。
 つまり、短篇がそれとして定立されたのは、初心者向けの平易なものを、という発想であって手数ではなく難易度の問題に帰していたことが分かります。
 この当時の作品評価の基準を示すものとして、加藤文卓の「圖巧解説」の評言を挙げておきます。そこで強調されていることは、「駒の活動の甚だ複雜なる」、「詰め難き局面を呈して居り」、「駒の運用複雜せる」、などもっぱら難解性に触れています。「讀者の聲」欄でも問われていたのは手数の長短ではなく、難解性でした。


 月報を管見した範囲では、短篇、中篇、長篇などの用語があらわれるのは1936年7月号の「續詰將棋講座」(里見凸歩)が最初ではないかと思いますが、くまなく調べたわけではないので、さらに古い例がありそうな気
します。

 ここで終わっても良いのですが、短篇に特化することが短篇の成立と言えるなら、『待宵』はどうなのかという意見がありそうです。
 『待宵』の手数区分です。

5 7 9 11 13 15 17 19 23
4 8 7 10 7 4 6 2 2 50

 これ、短篇集ですね。(汗)
 『待宵』は1866年刊(?)、渡瀬荘次郎作といわれています。
 「『待宵』 研究の現状」 参照。
 同集には古図式が10局以上(改作含む)混じっており、作者についても判然としないところがあります。どれくらい流通したのかも疑問です。
 「やや堅い本の場合、初版・初刷りは百数十部から数百部」(『江戸の板本』中野三敏2015/12・岩波書店)。これは尾張の大板元だった永楽屋の話ですが、「月報四千の讀者」とは大分違います。もっとも、三千の讀者とか五千とかの記事もありますので、正確なところは分かりませんが。

 流通量もさることながら、『待宵』がどのように受け止められたかが皆目分からないので、短篇の成立とは言いにくいのです。例えばこんな話があります。
---

 「文表記の符号には、、。?!などがある。日本人がこれら文表記の符号について述べたのは、伴藁蹊の「国文世ゝの跡」(安永三年)が最初ではないかと思われる。しかし、この試みは一般化せず、明治一四年伊藤圭介が「日本人ノ雅俗文章ニ於ケル。句読段落ヲ表示スルヲ以テ必要トセサルハ。一欠事タルヲ弁ス。」(「東京学士院雑誌」第二編第一〇冊)を発表してから、文章の近代化・改良をめざして、いろいろな試みが行われた」
(『現代日本語講座』第6巻2002/05・明治書院)
---

 どうも、『待宵』は
伴藁蹊「国文世ゝの跡」と同様、一般化しなかったのではないかと思っています。受け容れられたのなら、もっと早く短篇が自立していたはずです。いわば、月の裏側にそっと置かれていたのではないかということです。

(つづく)

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