カテゴリー「酒井桂史をめぐる言説」の12件の記事

2016年9月25日 (日)

酒井桂史をめぐる言説 その12

 「桂詰」解答募集中です。本日で締切


 1942年1月に櫻井蘇月は『將棋随筆 雲烟過眼』という単行本を山田將棋所から発行しています。印刷は將棋月報社。これは月報等に掲載された文章(前田三桂や松井雪山の文もある)をまとめたもので、酒井桂史が「感想」と題し寄稿しています。

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 「感想」

 大木の新緑湧くが如くなり
先づ、稚拙一句を献じて、本書上梓の御祝を申上げたい。
知友が自著を公にせらるゝといふことは、誠に嬉しいことである。その内容は著者より到來した書簡によつて、大略の輪郭は承つたけれども、詳細な事は承知してゐない。が、固より内容豊富、光彩陸離たるものに違ひない事は冗言を要しない。刮目大いに期待する次第である。
著者と私との交誼は顧みれば随分前のことで、金八段發行の將棋雜誌の編輯を主宰して居られた時に始まる。東京市と兵庫縣と距離が隔たつてゐる關係上、親しく御眼にかゝつた事はないが、單に編輯者と投稿者との關係以上に突込んだものがあつたやうに思つてゐる。それも疎懶の私のことであるから、いつも消極的なのは私で、殊に私が將棋の駒と殆んど縁を絶つてからと云ふものは、猶更さうであつて、此点誠に恐縮に存じてゐる次第である。
此間、最近撮影にかゝる寫眞を前後して二葉送つて下さつた。一つは正面向き、一つは横向きの佳影であつて年來私が想像してゐた著者とは少し違つた点もないではないが、大体に於いて一致してゐた。一言で云へば、春風駘蕩そのものゝ感じである。これは著者のものせらるゝ文章其他から想像を逞しうしてゐたのであるが、それがうまく當つてゐたのである。別に自慢ではないが、私の想像力の正しさを云々するよりも『文は人也』と云つた古人を稱すべきだと思ふ。
子供を養育するのにその苦勞は一通りではない。小さければ小さいで、大きければ大きいで、心配の絶間がないのである。が、將來の苦勞は兎も角として、現在これ迄こんなによく育つたものだと考へ乍ら、過去を振返って見る時、今迄の苦勞は苦勞でなくなつて、其処に一種の甘美な感情が附加して來るを常とする。是と同じ思ひに著者は今、精神上の息子を前にして、耽つて居られるのではないかと考へても、敢て失當でないと思ふ。此の一文にも、彼の一文にも執筆當時の違つた思出(ママ)が次次と浮んで來て定めし感慨無量のものがあるに違ひない。
今宵は初夏のすがすがしい一夜、今しがた置いた筆を再び執上げんとした時、時鳥が山腹の我家の上を啼き過ぎて行つた。おや、珍らしい、この邊りでは毎年極く稀にしか、それも一聲か※二聲しか聞くことの出來ない時鳥が、しかも、五聲まで啼いて行くとは。そこで又一句。
 ほととぎす身に入みて聴く今宵かな

  五月二十四日 酒井桂史
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細かいことですが、「詰棋めいと」第10号の引用文は、が抜けています。

 酒井の「感想」の日付は5月24日なので、1941年でしょう。
 これに先立って、櫻井は1941年9月山田將棋所から「寺の庭を掃きつつ」という本も出版しています。これも印刷は將棋月報社です。酒井の「盤前漫筆」(月報1926年8月号)が収録されていますが原文と一箇所だけ違っています。


 1943年3月号
 「八ツ當り」詰棋狂
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 次に十年前の作者の重(ママ)な人達を書いて見ると酒井先生を(ママ)瀧谷、今田、田代、清水、服部、田邊等々の諸氏が腕を奮って名局を發表してくれた
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 服部は服部安光。

 酒井桂史は1943年6月に亡くなりました。

 1943年9月号
 編輯後記
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◆終りに酒井桂史先生の遺徳は次號に於て詳細に偲びたく準備中であります。氏の御蔭にて今日あるを思ひ感無量御冥福を祈るものであります

酒井桂史氏 本名新十郎
六月二十六日急逝致しました。詰棋の先覺者也、其の他は一切不明の謎の功労者
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 「詰棋めいと」には月報の追悼文がすべて紹介されています。
 これらの寄稿文に「秘密の暴露」は殆どありませんが、一部引用します。

 1943年10月号
 「酒井先生の死を悼む」櫻井蘇月
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八月三十日午前七時、北熊井の凡棋先生より葉書二枚到着、其の一葉は六月二十八日酒井桂史氏逝去の報である。
…想起すれば酒井先生と文通を始めたのは、私が青山の金八段宅に在りて「將棋の友」を編輯して居た時からである。その詰將棋に於ける天賦の方は、常に撓(たゆ)まざる創作熱の努力によつて、古人の傑作の壘を摩する逸品數ふるに遑なきほどにて、詰將棋を談ずる者必らず氏を語らざる者無し。其頃先生創作五十題を製圖したものを一冊寄贈に預かつたが今は多くの書翰と共に遺品となつてしまつたことを悲しむ。
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 凡棋先生は淺川凡棋=阿部主幹です。死亡日は篠原昇氏の研究により、6月26日であることが分かっています。


 1943年10月号
 「噫酒井桂史先生」一記者
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…從來發表したかつた先生の作品殊に王玉篇五十題は至寳とも云ふべき傑作で、故山村兎月氏と共に屢々本誌へ登載或は出版をお勸めしたのでありましたが遂に成らず。
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 同年10月号
 「追悼作品鑑賞」有馬康晴
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…筆者が月報の讀者になつた時は既に酒井氏の作品は紙上に見られなかつたのですから随分古くから登場されて居た故で恐らく天壽を全うされた事と推察して居ります。
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 有馬は酒井を相当な年配だと思っていたようです。この時有馬は36歳。39歳で亡くなりました。


 同年10月号
 「盤側閑談」東京太郎
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 要するに、大駒使用禁止の結果は、以上の如き種々の弱点を生ぜしめ、流動美を缺き固定的なものたらしめて居るが、今回第二十四題として掲げた酒井桂史氏作は、さすが大家創作だけあつて、以上の如き短所を或程度まで拂拭して、大駒ありの作品に遜色なき程の成功を得て居る。
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 これは追悼文と関係なく、8月号と10月号に小駒図式を集めて紹介した中で1931年9月号作について触れた一文です。


 同年11月号
 「噫 酒井桂史先生」杉本兼秋
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…昨秋姫路より御手紙を差上げました處しばらくして近江より御返信があり御病氣の爲數ヶ月前より轉地療養中との由承りました
…その後の御手紙ではお元氣な事とのみ想像致して居り僅かの間に急逝され様とは夢想だにして居りませんでした
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 同年11月号
 「廻覽版」
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詰棋大家酒井さんの死は實に殘念である思ふこと多くして筆進まず拙文ながら早速追悼文を書いた、その遺された詰棋を輯編(ママ)月報社に於て單行本として發行して貰ひたいものである、それには愛詰棋家の酒井さん追悼文をものせて貰ひたい、編輯は有馬さん外詰棋大家を選定して其任に當られる事
(蘇月生)
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 1944年1月号
 「新春棋話」宮本弓彦
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…大正時代から昭和初年のあの生活は今考へると空恐ろしいやうな無茶な自由さだつた。さうだ、震災前に生れたわが「將棋月報」がやがて三十代の壯年に成るのだから、時の流れはまつたく早いものだ。山村さんや酒井さんが死んだ前田さんの下手の横槍も影をひそめた。里見兄弟が詰將棋欄から遠退(とおの)いた。佐賀さんや南出さんといつた多くの少年棋客が擡頭してくる。棋人有馬さんが活躍してゐる。…
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 佐賀は佐賀聖一。図研会の作品発表、解説で活躍していました。戦死したのではないかという説がありますが(『三百人一局集』解説・村山隆治)、旧パラ1951年11月号に土屋健が「現在詰棋界を離れた佐賀聖一君」と書いています。
 南出は南出岩樹。一時第五部の選者を務めていました。『象戯手段草』に関する論考を月報に発表しています。戦後北海道で発行された「将棋時代」に関わっていたという記事をどこかで読んだ記憶がありますが…。


 1944年2月号
 「思ひ出を綴る」丸山明歩
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酒井氏に私は一方ならぬお世話と云ふより教へを受けたものだつた自分が幾分でも詰圖式として創案發表せらるゝやうになつたのも氏の厚情により學ぶ点が尠くなかつた。勿論私のみでなく讀者諸氏の中にも相當私同様の方は在られる事と信じ同時に氏の天才的の偉大さと其の苦心努力に一層の敬慕を捧ぐるものである。拙著イロハ字詰圖式を發刊後も拙圖に對して懇篤な注意を戴き訂正再刊の際にはと今も大切にお手紙を保存して居る實に本誌上否現棋界の詰棋界に高段専門家と雖へ共斷然追慫を許さなかつた酒井氏、アゝ既に此の世の人でなし、自分の手許に殘る互ひの意見や圖式の事などに往復を重ねた手紙も今は全部尊ひ氏の遺稿となつてしまつた殊に圖式を公開せらるゝ事なく逝かれたのは未發表の妙局の數々を知つて居るだけに只々惜しい氣持で一ぱいであり謹んで深い哀悼の意を表する次第である。
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おわり

2016年9月21日 (水)

酒井桂史をめぐる言説 その11

「桂詰」解答募集中です。締切9月25日。


 1938年3月号
 「詰將棋對話」まぼろし
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「現代詰將棋界の名匠、酒井桂史先生。先生の高名。(ママ)は詰將棋を作る者誰しも知つてゐる筈」
「其の通り」
「酒井先生のあの精彩に富んだ流麗高雅の作品は君仲の上位に位すべき、作品、否、宗看、看壽と共に並び稱されるべき名品であらうと僕は信ずる…」
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 これは以前2回に分けて全文紹介しました。


 1938年11月号
 「酒井先生訪問記」前田三桂
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十月十日空には一點の雲影なく、風は暖かにして、太陽は燦として輝き、絶好の秋日和であつた。午前十時半頃久方振りに雲雀丘の丘上、風光明媚なる酒井先生の邸を訪問した私が以前に訪問したのは今から十年も前の事であるから、本當に久闊である。
酒井先生の動静は誌友諸君が常に關心をもたれ、齋(ひと)しく聞知すべく熱望せらるゝ所である。私が先生を訪問した動機といふのは先生が病身のため、久しき以前から將棋と絶縁され、爾來先生の高作に接する機會を失ふに至つたのみならず、今まで作爲された幾多の名作や傑作が散佚して漂滅に歸せん事を惜しみ、之を取り纏めて一冊の書物となし月報誌上に登載して、諸君と樂みを偕にしつゝ長く後世に傳へたいといふ考へから、酒井先生と相談すべく俄に訪問したのである。
…近時誌友の間に氏の妙作を要望する聲が頻發するので、私の貯藏する所の圖を整理編輯して公開しやうと思つて、籠から取り出して調べて見ると百数十局もあつた。君は温厚な紳士で、名聞を厭ふ質の謙遜家であるから、私が獨斷で世上に發表するのは君の意志ではないかも知れぬので豫め其承諾を求めて置く必要があるから、同意を求めに行つたのであるが、容易に承諾を與へられない。
…以前は君も得意の作圖百局を選する積りであつたらしい、五十番を集めて王玉編と稱した自筆の作圖を送られた事があつた。夫れにはイロハ詰形象圖が半分程載つて居る後の半分は、龍馬篇を作つて送つて下さるつもりであつたのが、不幸病の爲に中絶したものである。
…取り出して來られた桐の箱には、自作の作品がギツシリ詰つてあるのに私は吃驚しました。無慮三四百もあるかと思はれた。
…今日の會談の結果は不成功であつたが、併し絶望ではない一縷の望みはつながれて居る。遠からず渾然玉の如き先生の傑作を江湖に示す事が出來るであらうと信じて居る…
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 雲雀丘は川辺郡西谷村にあります。以前は武庫郡住吉村にいたので、引っ越したのでしょう。前田三桂は川辺郡長尾村です。現在は旧西谷村も旧長尾村も宝塚市です。
 「王玉編」はおそらく「王玉篇」の誤りでしょう。


 1938年12月号
 「偶感雜記」蒼門寺喬
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前號の前田氏の酒井先生訪問記は結構であつた。酒井先生の近況を知る事が出來て大變嬉しく思つた。
酒井先生の作圖集が出る事は詰棋愛好家の喜び大なるものがある。
酒井圖式の出版の一日も早からん事を祈る次第である。
酒井先生の名作が集成發刊されたなら詰將棋愛好家の現代詰將棋觀は可成變つて來る事だらう。
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 1939年6月号
 「詰將棋を語る」桂子
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「現在では一年數百局の作品が發表されてゐますが、是等の中での酒井先生とか其の他の人の名作……現今の最高位に位する作品と、享保の看壽とか宗看の作品との比較ですが……是れは今迄もしばしば論じられて來たものですが現代の作品、古作に劣らずと云ふ説や反對の説がありますが、果してどんなものでせうか」
「古今を通じての作品の中一番名作と云へば何と云つても看壽の圖巧九十九番の煙詰でせう、あの作圖に比肩する名作は他に無いと思はれます、あの作圖は、全部が作者の偉大なる構想によつて一貫してゐるのです。藝術の遊技とも云ふべき作品と思ひます。百番の六百十一手のものは古今最長手順として有名ではあるが、價値の上からは九十九番には劣るでせう、現今には是れと比肩するものは見當らない様に思はれます。宗看のは傑出したものは無く一定の水準作が揃つてゐる様ですが、百局あれだけの名作を揃へ様とすれば現在では先づ不可能でせう。
看壽の九十九番、百番を除いたもの、宗看の百番と現在の名作を數からでなく價値から比較すると優劣は如何とも云ひ難いと思はれます、現在と云つても是は大正昭和と云ふべきです、明治以後の詰將棋と云へばそれは殆んど酒井先生の作圖が代表してゐるので、近頃の様に酒井先生其の他今田、田代氏の作圖の發表が無いと詰將棋界は活氣が無いのです」
酒井先生は創作よりは遠がつて(ママ)ゐられる様ですが…」
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 1941年6月号
 「現代作圖論」杉本兼秋
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構成型作圖は享保の昔宗看看壽の天才に依つて既に其の構想を使ひ盡くされたの感があるがよく沈思考慮する時未だ未だ新分野のある事を發見する。然し此の種の作圖は其の構想が困難であると共に餘詰防止の點での努力は實戰型作圖の比でない。
この作圖の創作が一部の作家に限られてゐるのも又創作の困難からと云ふ事は解るが酒井田代今田等の諸代(ママ)の作圖に接し得ない今日殆んど是等構成型作圖を見る期(ママ)會がない。
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 1942年4月号
 「誌友前田三桂君を訪ふ」宮本弓彦
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兵庫縣川邊郡には酒井、前田の兩氏が住むとかねて承はつてゐる。
面白やいろとりどりの花椿。酒井新十郎詰手王酒井桂史氏が、面白やいろとりどりの花椿と十七文字で讀後感を述べておられる。櫻井蘇月二段の將棋随筆をまだお讀みでない方は是非お讀み下さい…
川邊郡の酒井、前田の兩君を訪ねやうと思つて、棋友上杉敏夫氏の先導をお希ひし雲雀ヶ丘の一つ確か手前で降りて…
…私に酒井桂史氏と會ふ紹介の勞をとつてくださつたのは外ならぬ前田三桂氏です「東京から宮本弓彦といふ將棋の好きな人が來たからお會ひになつたらどうです」と私の眼前で酒井桂史さんに通じてくれたのである。
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 このあとは前田三桂の話ばかりで、酒井桂史に会ったのかどうかも分かりません。
 櫻井二段の將棋随筆とは櫻井蘇月の『寺の庭を掃きつつ』(1941年9月・山田將棋所)を指しています。


 1942年8月号
 「月報主幹の顯彰を提唱す」田邊重信
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 實際、一箇の月報誌が存在致しましたが爲に果して如何なる貢献が具体化されたでありませうか、先年前田三桂先生に依り連月誌上に説破されましたる棋士の後段制の提案にして、遂に將棋大成會の採擇する處となりましたる如き、今田政一氏を、いだして「將棋龍光」をのこし、丸山正爲氏を助けて「イロハ字詰」の梓を起しましたるが如き、松井雪山氏、山村金五郎氏、酒井桂史氏等々あまたの偉材をして天下にあまねくその存在を明かならしめたるが如きはその極く一少部分でありませう。
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 1942年10月号
 「銀ずらし問答」有馬
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前號發表の自作に對し内藤、富川兩氏より御高評を頂いたので次に掲載しました。

自作「銀千鳥」修正圖

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15銀打、25玉、26銀打、16玉、17銀打、27玉、28銀、16玉、17銀引、25玉、
26銀引、14玉、15銀引、23玉、24銀、14玉、15銀上、25玉、26銀上、16玉、
17銀上、27玉、29飛、同成桂、28歩、同成桂、同銀、16玉、17銀上、27玉、
39桂、同飛生、28銀、16玉、17銀引、25玉、26銀引、14玉、15銀引、23玉、
24歩、32玉、42歩成、同香、54角、43歩、23歩成、同玉、24銀、14玉、
15銀上、25玉、26銀上、16玉、27銀
まで55手詰

内藤氏曰く「…本局は酒井氏、今田氏に次ぐ名作にして氏としては近來の大作でした…」
宮「兎月氏の編みし作集(ママ)九十七番に桂史作千鳥銀とありたり」
作「田代武雄(内藤)氏編、第一部集百番第九十七番の酒井桂史氏作の兎月先生の評に『本局初盤千鳥銀捨てと行く處妙味津々たり……』とあるけれど。之は作品の名前ではなく又内容も銀ズラシとは全然關係のないものですから内藤氏の云はれる酒井氏の作は他にある筈です」
内藤氏「お尋ねの酒井氏の作と云ふ意味は酒井氏級の作であると云ふ意味で内容の感ぢ(ママ)が似てゐると云ふ意味です」
作「其の後色々酒井氏の圖式を物色しましたが今田氏のと形の似たのは一つ有りましたが手筋は全然違つたもので遂に見出すことが出來ませんでした…」
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※原文に詰手順無し。動く将棋盤はここにあります。

 富川は富川甚七郎、宮本弓彦の筆名です。途中で「宮」になっています。「宮」の「兎月氏の編みし作集九十七番に桂史作千鳥銀とありたり」は「現代棋客詰將棋佳作集」と混同しているようで、これは第一部集(月報1937年2月号)です。

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 1942年10月号
 「前田三桂先生訪問記」片山正敏
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酒井桂史氏の「王玉篇」は、五十局詰將棋が載つて居たが、圖面は一々ペンで引いてあつたが、判と間違ふ位美しかつた。三桂先生が「酒井さんは作つたら私の所へ送つて來るが、今度快心の作六十局送つて來たが、私もわからんのがチヨイチヨイありますよ」。あの人は難しいのを作られるからねと言はれた。
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 60局?! それはどこに行ったのでしょうか。


 1942年11月号
 「詰將棋ひと昔」岩木錦太郎
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 扨て次は詰將棋方面だが、名人酒井先生は其の頃盛んに名作を寄せられ、我等をして三昧境に遊ばしたものだ。
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 1943年2月号
 「廻覽版」柴田龍彦
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酒井先生快心作六十局誌上御發表御願ひ致します
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 同感!

2016年9月20日 (火)

酒井桂史をめぐる言説 その10

「桂詰」解答募集中です。締切9月25日。


 1931年の発表作は16局(既発表作の9月号特別懸賞を除く)、32年は7局(既発表2局除く)、33年は1局、34年は6局、35年は2局。35年1月号作は「將棋新誌」1925年8月号作に序奏をつけたもの、2月号作はあぶり出し曲詰「ム」で、これは『王玉篇』にあった作品を山村兎月が誤って掲載してしまったものと思われます。
 これ以後の酒井自身による発表作はありませんが、43年に有馬康晴によって紹介された2局があります。


 1934年1月号
 「詰將棋三部集百番」

 「本書は月報詰將棋第三部開始以來五ケ年、此の期間中三十一名より寄稿された、貳百數拾題より佳作と認めるもの百題を選み登載したものである」とあります。巻頭を飾る第一番は酒井作49手詰(1931年9月号)です。これも含めて、酒井作は3局入っていいます。

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 1935年8月号
 「初めて月報を見て」蒐集狂生
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A作家としては酒井先生が第一だね
B酒井先生は前に將棋の國や新誌を借讀した時作圖を見たが妙局が多いと思ふたよ
B難解其の他の点からして第三位か第四位は降るまいと思ふね、最近の作家では右に出るものはないね、聞けば僕等と同年輩位だそ(ママ)うではないか、前田先生の様にどしどし書いてくれると良いんだが儘ならんものだね
Aこれは僕一人の考へだが第一宗看圖式第二圖巧第三酒井圖式第四九代宗桂圖式……等の順位を附けたいね
B最近では酒井先生の天馬空行、奥坂先生の豊秋等妙作があるね
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 冒頭に「僕が月報を讀み初めたのは本年一月からです」とありますが、かなり知識のある人です。誰なのでしょうか。1936年8月号から九代宗桂図式の紹介を始めています。
 1943年3月号から将棋妙案の解説を始めた蒐集生と名乗る人がいますが、こちらは「月報を師友とし得てから十六年」とあるので、別人のようです。
 11頁にわたる対話形式の記事ですが、関係のある所だけ。蒐集狂生の投稿文全体は何と35頁もあるのです。後半24頁分には「僕の所持する古局ですが好局と思ふのも澤さんあるのですが殘念な事に作者不詳なのです 月報の隅にでも登載させて戴いて作者名の御示教御願致したいのです」として『象戯綱目』から47局掲載されています。


 1936年2月
 「何や彼や」詰棋狂
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田代、里見、田邊、津田、吉田、日下、杉本等々諸氏の作圖が目に附く、淋しいのは酒井御大の出題が不足な事だ。十一年度一題、十三年度二題(十年、十二年は多いから書かぬ方が自分には便利だ)なんと淋しいではないか兒童が教師にあたゑ(ママ)る様に自分の我儘を許してくれるならば一ヶ年五題以上出題して下さい(少し我儘の度が過ぎるかな)
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 十一年度とは1933年のこと。月報の初年度を1923年と見ての表記ですが、これは正しいと思われます。(「詰棋めいと」第23号11頁中段・湯村光造「『将棋月報』で辿る戦前の詰棋界(一)」)
 ちなみにこの人は月報評に続いて、1926年1月から1935年12月までの発表数(第一部~第三部に限る)による「作圖家番附」(不完全作数も併記)や同期間の「解答者二十傑表」を披露しています。統計魔のようです。酒井桂史は「作圖家番附」の行司になっていて、38局発表、不完全作7となっています。
 私の調べたところでは、この期間の月報発表作は44局です。当然ながら条件に合わない佳作集1局、特別懸賞1局は外していますが、発見した取消不明作3局は数に入れています。



 1936年6月号
 「詰棋漫談」棋遊閑人
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詰圖出題者に酒井桂史氏の名の見られないのは言ひ得ない寂寥を感じます、獨得の趣向を取り入れ新鮮味躍動する同氏の名局は詰將棋黨の渇仰するものであらうと思ひます、毎月の出題は聞き入れて貰へないまでも未發表のものあらば逐次出題願ひ度くこれは自分一人の希望ではなく、詰棋黨全体の聲と思ひますから社の方でも是非之が實現に御努力を御願ひしたいと思います…
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 1936年7月号
 「思ひ出すまゝ」蘇月生
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大正十五年金八段が雜誌を創刊するに際し私は編輯人として金八段宅に寄寓する事になり「將棋の友」の發展に努力したが一年と續かず遂に廃刊して棋界に大なる貢献を寄與するに至らざりしも前田三桂氏と酒井桂史氏とを世に紹介し得たるを今でも誇りとしてゐる、或る時桂史氏から一封の書状到着披見すると十圓の爲替券同封しあり社の經費として使用して貰ひたいとの御厚志であつたが堅く誌上へ書く事を御斷りの言葉が添へてあつたので、當時御禮状のみ差上げて今日に及んだが今茲に發表したとて氏の御叱りも蒙るまいと思ひ、當時の御厚情を改めて感謝致します…
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 1937年1月2月号
 「詰將棋第一部集(上巻)」

 田代武雄による編集。酒井作は14局あります。「現代棋客詰將棋佳作集」との重複はありません。今田政一作は8局。
 酒井作の2局は左右反転されています。
 「終りに一言したいのは圖中なるべく王を對照(例第一圖一一玉第二圖九九玉)するので、圖式に幾分修正を加へたり、或は初手の數手を改作せし局二三あり、謹んで作者にお詫いたすと共に御寛恕の程を願上げます」というわけで、左右ひっくり返っているようです。感心しませんが。


 1937年1月号
 「現代名家圖譜考檢(新題)」

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71飛、72龍、同飛成、67玉、76龍、同玉、71飛、72飛、87金、67玉、
56銀、同玉、51飛生、同金、48桂、同と、45角、同玉、46金、34玉、
23銀生、同玉、22桂成、同飛、13角成、同玉、15香、24玉、35銀、23玉、
13香成、32玉、22成香、41玉、31飛、52玉、53歩、62玉、51飛成、同玉、
52金
まで41手詰


田邊重治
先頃發刊を見たる月報第一部集に於ても師の作に成るすべてこれ妙算也。宜しく模してわれらが範とすべきのみ。
本局七一飛打に對する七二龍、正に剽悍決死なり、次手直に八七金とせば後來一三角成同龍となりて不詰となる。

蒐集生曰 横綱の圖はやはり横綱であると思ふ(今月の出題中)然し氏の作品としてはさして難解ではないと思ふ。山とも云ふべきは七二(ママ)龍七二飛合の處と思ふ。
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 これは「將棋新誌」1926年8月号の傑作。ここにもあります。
 「現代名家圖譜考檢」は田邊重信の出題ですが、そもそもの趣旨はというと月報1936年4月号の記事

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…今日新聞雜誌に發表された所謂現代棋客の詰物を見たいものであると云ふ話が出た自分もかねがね然りといふ考へであつたので、早速誌友諸兄と共に之が研究をしてみる氣になつた譯である中にも既發表の圖を今更研究した所が仕方がないと云ふ方もあると思ふ、亦中には自分の家では東日より取つてないので土居八段の詰物は觀られるが他紙の物は一向にわからぬ、他のものも古くてもよいからみるだけもみたいものであると云ふ誌友も確にある事と思ふ
自分も此の後者の方々と共に研究してみたいと思つて居る次第である、自分として果してどこ迄やつてゆけるか今の所見通しも自信もない、成績は懸つて諸兄の御解答いかんにあるわけであるからして成可く多くの方より御同情ある答解(ママ)をよせられん事を御願ひする次第です
自分の出題竝に御解答下さるとの要用としては
一、諸紙に何某出題とあるも、總て何某作とみなして本誌に發表
一、餘詰早詰等の發見いかんに關せず正解は一題一点
一、發表圖式にして古作物の引用等なりし時之を誤指摘下さつた方には増点一点
一、一ヶ年の總得点最高の方には「氏名入り優勝カツプ」を私より贈呈します
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というものでした。1937年12月号までに全部で90題の出題があったそうですが、同氏の『私と将棋』には50題が抜萃されています。「棋界の大御所土居八段は人も知る軽妙の指手。然るを以てが亦よく古圖を剽窃するに軽妙也。切に同八段の覺醒を待つや切なり」とは手厳しい。
 こと本来の趣旨と違って、詰将棋版の下手の横槍の様相を呈したのですが、なぜ酒井作を圖譜考檢に出したのか不思議です。


 1937年3月号
 「思ひ出すまゝ」蘇月生
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…酒井君より寄贈された五十番の自作詰將棋筆寫本を更に調べ直してみたいと思ひながら本箱に秘藏したまゝである、氏の作品を看ると四十の駒悉く盤上に活躍し龍狂って雨を呼び虎吼えて風を生ずる變化極まり無き其傑作を鑑賞すれば其奇手妙計に思はず感嘆の聲を放つ時あり、詰め得たる後の快感は杖を頼りに喘ぎ苦しみ山の頂上に登り得たる時の愉快にも比すべし、猶氏の作品は最初の一手を選ぶに當り容易に手を下すこと能はず素人が鰻を捕へるにも似て摑んだと思へば逃げられるが如く其第一着手の發見に頗る苦心するが、詰物は總て最初の一手が容易く解るやうでは興味が薄く又詰物として此れは缺く可からざる必須の條件ではあるまいかと思ふ、猶その一小品を試みても數手に妙想湧くが如きもの尠なからず、恰も巧みに作られたる盆景を眺むるが如き面白さあり、氏の如きは實に我詰棋界の至寳と謂ふべきである…

2016年9月19日 (月)

酒井桂史をめぐる言説 その9

「桂詰」解答募集中です。締切9月25日。


 1931年4月号 懸賞詰将棋解説欄
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酒井先生御宅へ目下大病人ある由、先生作圖は今月號に限り一回丈け休載致します悪からず諒されよ
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 この年は3月号の後4月号が抜けただけで、12月号まで毎月発表しています。


 1931年9月号 清水清
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…尚詰棋界の權威酒井桂史氏の毎號の御出題月報に取つて此の上もない喜ばしいことゝ思ひます
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 1931年9月号 第三部

1094

41桂成、同玉、49香、51玉、42香成、61玉、52成香、71玉、62成香、81玉、
72銀、91玉、81金、同金、同銀成、同玉、72成香、同玉、83歩成、61玉、
72と、51玉、62と、41玉、52と、31玉、42と、21玉、32銀、11玉、
21金、同金、同銀成、同玉、32と、同玉、23歩成、41玉、32と、51玉、
42と、61玉、52と、71玉、62と、同玉、63金、51玉、52金打
まで49手詰


 解説10月号 丸山明歩(正爲)

本局は酒井先生の妙作駒配置の面白きのみならず居城を出で兩雪隠を廻り居城で詰むの趣向興味湧くが如くであります

田中氏曰く 桂成に依て香打を作り成香とと金の活躍にて玉を時計の振子の如く左右に振廻し結局元の鞘に納まり終る處面白し
駒數少なきに手數五十手に近く作者酒井先生獨特の妙棋と敬服の外ありません

鶴田氏曰く 珍らしき駒配置玄妙なる手順全く棋の境地に遊ぶの感がありました、巧妙なる名作只々敬服の外ありません

宮坂氏曰く 本局は四一桂成にて捨にて玉頭を開き香打にて兩方共袖下迄玉を追込み火花を散らしての終局は角力の大關にでも勝つたやうな氣持が致しました

木村氏曰く 成香とと金で王將を往復させる邊、將に千兩只々妙作との一言につきる

佐々布氏曰く 三部始まつて以來の最長手數確かに二部程度の難局です、曲詰としても斯様に五筋を中心に同様な詰方が二通りあるも一面興味津々たるを覺へ(ママ)ます

花木氏曰く 作者の苦心を感服の外ありません

河野氏曰く 酒井先生の御作の由是でも詰手があるかと思ひました、實に面白いものです金銀を懐中にして成香とと金の膝栗毛一幅の名畫のやうです
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 出題図には作者名がないのに解答者がなぜ酒井作と知っているかというと、9月号に「選者より 本圖及び第五十二番は詰棋界の權威酒井先生が本欄の爲め特に御創作を願ひしもの毎號出題します」と書いていたからです。
 しかし、7月2局、8月2局、9月号に本局、10月号(取消不明作)に発表しただけで、その後は第三部への登場はありませんでした。


 1933年8月号
 詰將棋大全集
 「ことば」酒井桂史
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初代宗桂作「將棋力草」より「將棋玄奥」に至る全二十一巻の上梓---これが詰將棋大全集刊行のプランださうである。誠に近來の快擧といふの外なく、我々詰將棋黨は其完成の一日も速かならん事を希ふのみである。
從來此種の企ての試みられた事は二三に止まらなかつたがいつも龍頭蛇尾に終るを常とした。これは此種書籍の讀者數が或少數範圍内に限定せられ、利得よりも損失の機會が多く加ふるに起畫者に利益を度外視する程の氣魄が欠けてゐたに因るものと推定する。然るに今回は然らず、岩木氏等の目的が斯界に貢献せん一念に在り、利損を無視し、如何なる障礙をも打破して通る底(ママ)の熱心さを持たるゝのであるから、此の難事業も案外易々と爲しとげらるゝのではないかと私かに思つてゐる次第である。
詰將棋圖式上梓には技術上特種の熟練を要し、而も校正の嚴密を必要とする事、他に其比を見ない一歩の脱落、一香の逆倒すらも圖式の生命を全然無にして了ふ。かゝる誤脱は作者に對する大なる非禮であり、併せて讀者に對する大なる非禮でもある。詰棋に造詣深き岩木氏等はこんな事は一日も二日もズント御承知であるから、萬に一つの誤も無き事と確信する。從來發行の詰棋書を見る毎に覺ゆる不快感から。(ママ)今度こそは完全に解放して頂き度いと呉々も希望するものである。
以上ほんの一言管見を記述した。
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「諸名家の言葉」として前田三桂、酒井、高橋與三郎、熊田藏之(岩木・小林氏の友人?)、丸山明歩の順に推薦の言葉が並んでいます。
 この試みは、「百部以上を刷らなければ算盤が取れ」ないところ、「我々は最少三十の時には後の部數は負擔しても宜しいと思つて居た」が申込者「十名内外」に終わり、大欠損のため断念せざるを得ない結果となり、第一回の『將棋妙案』を配本したのみでした。第二回は『將棋舞玉』が予定されていました。
 この『將棋妙案』は100部くらい刷ったのか、1934年5月号と6月号、9月号に広告が掲載されていました。

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2016年9月17日 (土)

酒井桂史をめぐる言説 その8

 1928年から1930年まで、酒井桂史作品は懸賞詰将棋欄に現れません。「讀者の聲」欄も無い月が多く、情報が少なくなっている印象です。

 1928年1月号
 「圖式創作の苦驗」丸山正爲
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次に斯界の大家酒井氏の私に下れた書信の一節を申上て御參考に供すと同時に氏の創作に當つての御心勞を偲びたいと思ひます

 御芳信の一部
私は圖式の調査をするに際しては先づ最初の一手につき詰方のあらゆる攻手順を試み次は玉方の逃手に付き全部の筋を考へ又次手詰方の全部と云ふ具合に眞に一手一手全くの無駄手と思ふ手順をも自力の有らん限り調査を遂げます是が爲に心身共に疲勞して夜就床の際は催眠薬の手數を煩す事が珍しく有りませぬ………と

私は右御信中の無駄手と思ふ手順までも考究せらるゝと云ふ氏の綿密さには驚嘆の他なく、自信体驗上深く感銘いたして居るのであります
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 1928年1月号
 「月報の五人衆」濟天大聖
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…何と云うても棋道のため月報のためにも無くてはならぬ人物は次の五君で有る
前田三桂 松井雪山 酒井桂史 櫻井三桂 丸山正爲の五氏である
酒井氏は人も知る如く詰物の傑物で現代には氏の右に出ずる者は無い…
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 濟天大聖はおそらく横田幸歩。月報社刊『駒竸』の解説を書いた人です。


 1928年8月号
 「現代棋客詰將棋佳作集」

 同集は100局収載。うち15局は酒井桂史作で他を圧倒しています。
 その中に初出作品があったことは書きましたが、初出から変更された作品がありました。

「現代棋客詰將棋佳作集」第15番

0470

67馬、87玉、78金、96玉、87金打、95玉、68馬、77飛合、96歩、85玉、
76金右、同飛成、同金、同玉、67馬、75玉、76飛、85玉、73飛生、96玉、
87金、95玉、85馬、同歩、96歩、84玉、83と
まで27手詰

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 この図は1925年3月号掲載作(堺桂史名義)を2手逆算しています。清水孝晏編『酒井桂史作品集』第20番には、この27手の図が採られています。
 49馬は58馬でもよかったようです。


 1930年1月号
 「日本一の棋美談語」前田三桂
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…詰將棋界には玄人の先生方と比肩して確に遜色なき數人の權威ある方々が控へて居られる、其第一人者として選者山村兎月君がある。山村兎月君の詰將棋に於ける力は實に深遠計るべからざるものである。如何なる難解の圖と雖も兎月君の前に出せば解けないものは無いのである、更に又丸山君がある、更に又氣強くせしむるのに酒井桂史君がある、年末に私は君を訪問して日本一の作圖家をして將棋から遠ざからしめて置くのは甚だ惜しいと思つて切に其復活を慫慂しておいた。
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 1931年3月
 「三桂だより」前田三桂
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…一部二部も三部に負けぬやう一層振興させたいと思つて、久しく將棋から遠ざかつて居られた現代詰將棋創作大家酒井桂史君を動かし、本誌に出題を御願ひしました所幸に快諾下さいまして、本月號から引續き掲載する事となりました
同氏の詰將棋は既に世の定評のある通り至難中の至難なるものでありますから、必ず一部黨を狂喜せしむるであらうと思ひます
酒井君は當欄を賑はすべく眼新しき論説を發表して下さるべく今苦心中のやうにも承つて居ます、折角御期待下さい
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 「眼新しき論説」が発表されることはありませんでした。

2016年9月16日 (金)

酒井桂史をめぐる言説 その7

 1927年2月号
 人氣投票中間発表3回目

192702

 1927年3月号
 「各府縣棋界の情勢及び好棋客二十名」
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◆西宮市と御影町
兵庫縣下は本誌讀者の多い所である東京大阪は別としたら第一位である…
縣下を通じて本社直送の分が約二百部で大阪號も百部以上發送されて居るので人氣投票の最高点者三者共同縣下であるに見ても想像されるであらう
前田酒井兩氏の得點の中三百点位は同縣下から投票されて居る若し縣下協力したならば一萬五千票位あるから人氣投票を左右する事ができたであらう
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 1927年3月号
 「養眞圖式存疑」(六)前田三桂
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私の書き立てる養真圖式存疑の出鱈目が、大分讀者の興味を呼び、注意を引く様になつて來た模様である。詰將棋黨の猛將酒井君や丸山君や高橋君や山村君や其他の諸君から、讃辭や御注意を頂き、御援助下さる事を厚く感謝致します。
新年號に私の寫本には、序文が缺けて居る事を書いたが、温厚篤實な酒井桂史君から早速鄭(ママ)寧に浄書して送付して下さつた。

養眞圖式第56番

080056

24角成、同玉、25金、同玉、15飛、24玉、23金、同玉、13飛成、32玉、
22と、41玉、11龍
まで13手詰

私は色々考へ抜いた結果、終に匙を投げて仕舞つた、而して「詰まない」と引導を渡したのである。
或は又私の寫本に誤脱が有るのではないかと疑つて、私の意見を附記して、酒井君の所持本と照合して貰つたが、誤脱はなかつた。氏は熱心なる研究家である丈けに參考圖として掲記せる様な修正案を立てられたから、氏も詰のない事を承認された様である

參考圖

080056_2

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 1926年10月号から前田三桂の「養眞圖式存疑」が連載されます。三代宗與の悪名高い図式で真剣に見たことがなかったのですが、酒井の名があれば拾わざるを得ません。
 第56番は不詰で、44玉で逃れます。酒井の参考図は完全です。


 1927年3月号
 「讀者の聲」酒井桂史
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◆所感
丸山正爲氏のイロハ字詰は圖巧解説及び養眞図式存疑と共に近來の詰將棋界に於ける最も意義ある収穫の一つでありませう嘗つて拙作を前田三桂氏に批評して頂きました時曲詰として面白からぬものがあつて散々に叱られ且つ曲詰は曲詰臭くなく作る事即ち妙手を多く入れ難解のものたらしむべき事等の御注意を受けた事があります丸山氏作は以上の條件にピツタリと適合するやうに拝見致しますそして趣向の立て方が融通無碍であります私は大いに啓發されたのであります何卒今後共益々勤加精進せられん事をお祈りして已みませぬ全局の發表の終らんとするに當り潜(ママ)越ながら一言所感を申述べました
(桂史生)
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◆御挨拶
拝啓今度は私の我儘と並びに病弱の故を以て強ひて詰將棋選定の大任を辭退させて頂きました是に就いて深く感謝する次第であります又在任中玉稿を寄せられました寄稿家諸氏に對して厚く御禮申上げます右簡單乍ら一言御挨拶迄草々
(酒井桂史)
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 1927年5月号
 「何にやかや」丸山正爲
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木見先生の修正圖や酒井氏の考案になれる圖も二三見へ(ママ)ますが是もホンの一部分らしく元來此事たるや容易ならざる難事業であらうが…詰將棋を生命とする本誌には幸い(ママ)加藤先生を將神に頂いて酒井氏、山村氏、瀧谷氏等の猛將相次ぐの賢實な陣容、養眞圖式の赤子の如きを料理するは朝飯前は愚か目醒めの欠伸より容易であらう
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 1927年5月号
 「雪ふる日」櫻井三桂
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將棋の友を發刊しておつた頃先生から手數五六十手以上の頗る變化に富める詰將棋一局を送稿されたことがあつたが中途に餘詰ありて遂に掲載せなかつたが惜しい傑作であるから更に訂正して誌上へ發表されたいものである
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 1927年6月号
 「素人棋客人氣投票の結果」
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 編輯部員が最も嚴正なる査定を經たものであることを明言します從つて何時其筋の調査に接するとも差支なきやう總ての投票を一ヶ年間保存して置きます
…兵庫縣は本誌購讀者の最大多數を占めて居り、其地の讀者が用紙を有効に使用せられた爲と思ひますがそれには佐々木 前田 酒井氏の如き人氣ある棋友の存在するも一因となつてゐるやうです
 前田 酒井兩氏の得票一兵庫縣に止まらず殆んど全國から來て居ます。
…〆切近くになつて二百三百と小包郵便で送つた人さえあつて其熱心さに驚きました

192706
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 1927年8月号
 「讀者の聲」酒井桂史
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◆兩先生へ
前田三桂先生、櫻井三桂兩先生へ申上度毎度御厚情忝く致し感銘罷在候兩先生が陰に陽に小生を鞭撻奨勵下され候は感謝の外御座なく候
小生は此の御期待に副ひ度きもの常に心掛け居候へども菲才鈍骨の悲しさ之を得ず兩先生に對し申譯なき次第と存居候。兩先生には今後共に破邪顯正の麗筆をお振ひ下されん事を切望に堪えず候
七月號にて御挨拶申上度く投書仕候へども締切日に遅れ申候間茲に改めて御挨拶申上候時下殘暑さ(ママ)の砌御自愛専一にと祈上候
八月一日 酒井桂史
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 1927年8月号
 酒井桂史
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拝啓此度計らずも第三位に當選致候は偏に讀者諸君の御芳情による所と深く感謝仕候小生の將棋は全く獨学獨習にて自然人様に御聞かせするに足る棋歴などは一向に御座なく候趣味として詰將棋の製作に没頭致居候へ共何時迄も低所に低回致居る有様に御座候此の菲才にも拘はらず從來陰に陽に鞭撻奨勵下されし前田三桂。加藤文卓櫻井三桂の諸先生方に對しては小生は常に感銘深く能はざる處に御座候
先は右略儀乍ら御挨拶申上候敬具
 七月六日 酒井桂史
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 1927年9月号
 「養眞圖式存疑」(十一)前田三桂
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酒井君は非常に温厚な、懇切なる方である。私は同君と頻繁に文書の往復はするが、實はまだ一面識もない。夫にも拘はらず、私の存疑に深き興味を持たれ、養眞圖式百番の同圖を丁寧に浄書して送與せられた。氏が陰に私の此企てた(ママ)援助を惜しまれざる好意に對して深く感激しました
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 1927年9月号
 「讀者の聲」
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◆文藝倶楽部に酒井先生の出題
文藝倶楽部十月號は九月一日發行になつた、編輯たよりに當月は花田八段が二百圓懸賞詰將棋に出題して居るが何れ詰將棋創作家として名人酒井桂史先生が出題する云々とあつたので其の實現を楽しんで居たに早くも十一月號に登載することになつたのは斯界の爲大に喜ばしい事で定めし十一月號は一層研究解答者が多數であらうと信ずる、酒井先生の巧妙なる作物の登載は一般棋客に興味を與ふるは勿論であるが又職業棋士への覚醒ともなり優劣比較研究するも亦一興であらう(東京川島生)
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 1927年9月号
 「◆文藝倶楽部の懸賞詰將棋」

Photo

0337

13飛、同飛、同と、同香、54飛、15玉、55飛、14玉、54飛、15玉、
16歩、同馬、同金、同玉、18香、同と、38角、15玉、55飛、25歩、
同飛、14玉、15飛、同玉、16歩、14玉、47角、25歩、同角、24玉、
43角成、35玉、36歩、45玉、46歩、56玉、65馬左、67玉、76馬、78玉、
87馬、89玉、98馬、78玉、87馬右、67玉、76馬、56玉、89馬、55玉、
45馬、64玉、86馬、65玉、77桂、74玉、85馬、83玉、94馬、82玉、
83歩、92玉、84桂、91玉、82歩成、同金、92歩、同金、81馬、同玉、
72馬、91玉、92桂成、同玉、83金、91玉、82馬
まで77手詰


 この図は紹介済みです。
 第1回土居八段、以下金八段、花田八段と続いて第4回目が酒井でした。丸山正爲は翌年3月号に掲載されたようです。(月報1928年2月号の丸山正爲「詰手數に就て」に依る)


 1927年12月
 「詰手幼稚園」高橋與三郎
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先年酒井桂史君の餘詰調査をされし折に此等二三題は簡單にして容易なりとの評なりしに因り今後再版の時には考査して五六題挿し換ふる積りのものです
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 1927年12月
 「未發表の詰物」高橋與三郎
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酒井桂史君の書信中に小生昨年夏以來兎角健康勝れず殊に最近はその爲め好める將棋の駒を持つことさえ至つて稀なる程に御座候の一節あり
…同氏詰物の巧妙なるは今更云ふ迄もなく畜(ママ)積百五十局以上に達したりと云ふも未だ出版發表されず…
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2016年9月15日 (木)

酒井桂史をめぐる言説 その6

 1926年4月号に「優秀素人棋友人氣投票」の告知記事があります。
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皆様のお勸めに依つて全國棋客人氣投票を試みたいと思ひますが、是が前提として優秀素人棋友人氣投票を開始します、左の條件御了承投票を希望します
一、有段と無段とを問はず素人棋友たる事
二、被投票人は人格高潔、棋道熱心にして模範棋友たる事
三、投票用紙は左記刷込のものを使用し一葉三名まで連記して差支なき事
四、本社同人の得票は無効とす
  即ち加藤、山村、鈴木、横田、松原、大塚、樋口の諸君
五、本誌五月號より採点を發表し大正十六年二月終了するもの
(以下略)
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 大正十六年というところにこの時期を感じます。
 加藤は加藤文卓、以下、山村兎月、鈴木倉之助、横田松山、松原金歩、大塚岩蔵、樋口兼尊。
 そして第一回の中間発表。

 1926年8月號

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 1926年8月号
 詰將棋解答者諸君に告ぐ
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加藤先生病後静養の為め當分解答の調査等繁雑なる事務に當分の間遠ざかることになりましたに付て後任者の選定と其の交渉にて發行が豫定より遅れましたが詰將棋第一部第二部共に解答は左記へ投入して下さい
尚ほ詰將棋の作物御投稿の方は便宜上同所へ御投稿を御願ひします
 兵庫縣武庫郡住吉村兼松
  酒井新十郎氏宛
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 選者交代です。しかし


 1926年9月臨時号
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當月は種々差支があつて發行が十五日頃となります斯くては詰將棋解答が漸次遅れて遂には全く一ヶ月を繰越すやうな事になつては詰將棋を生命とする本誌の使命を果すことが出來ないので取り敢えず課題だけ配付します

尚ほ酒井桂史氏は病氣の爲め詰將棋擔任を辞退されましたので本月より門司市丸山吉野町山村金五郎氏が更に擔任することになりましたから本月以後毎月答案は山村氏宛に御送附願ひます◆本月は第三期の締切りで成績順位に關係がありますから奮つて解答せられたし◆加藤酒井氏兩人の御病氣其後の經過良好にして快方に向かひましたから御安意(ママ)下さい
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 この当時、月報の発行遅れは常態化しており、10月号が10月末に来た(本来の発行日は10日)という記事もありました。

 1926年11月号
 人氣投票中間発表2回目

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 1926年11月号
 丸山正爲「何にやかや」
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◆七月號から掲載を御願ひした拙作イロハ字詰も幸ひ大した御叱聲も受けず半分を終りましたものゝ時折とんだ失敗を思ひ出せば今後が心配でなりません…
◆此曲詰も酒井氏の傑作あり…
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 イ~ノまで26局のあぶり出し曲詰が含まれていたという酒井の自筆『王玉篇』を丸山も見ていたのは確実ですね。


 1926年11月号
 「將棋眞田に就きて」高橋與三郎
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屢本誌を煩はして紹介したる拙著將棋眞田は誌友酒井桂史君及中川賢二郎君等の二ヶ月余に亘る熱心なる調査の下に發見されたる餘詰一々紙を粘(ママ)り活字を捺して修正せるもの新聞に廣告等して販賣したるも尚殘餘三百以上あり…
…天下の同好者動(やや)もすると内容の如何を問はず著者の何者たるを見て直ちに價値を定めんとす識者の眼より見れば一顧の價値無き詰手ながら高段者の作とし云へば歡迎して掲載する新聞あるも老練工妙の詰手も無段の作は顧みられず結局詰手の巧拙よりも著者の資格を買うものなり愚も亦甚しと云ふべし
眞に詰手の妙味を知らんと欲せば須らく先つ(ママ)内容に入りて少くも五六題研究せらるべし余曩(さき)に七段以上の高段者に悉く配本して批評を乞ひしに首尾通覽して定評を加へしものなく中に就き數局を詰め試み簡單に稱賛の辭を送られたるに過ぎず只最綿密に○査したる上に論評を附せられしは酒井新十郎氏一人なり茲に其の全文を掲げて諒解を乞はんとす
  酒井新十郎氏手簡
(但前段余詰に關する分省略)
凡そ詰將棋作物には實戰の結果得たるものと作者の趣向より出でたるものとの二大別これあり候やう存じ候前者を仮りに實戰型と名つけ得べくんば後者を趣向型と名付け申すべく候貴著は貴作物の三百局よりすれば其の半數にも足らず從て眞田のみを以て貴下の全貌を窮(ママ)ひ知ること能はずとするも貴著に現はれたる結果のみより申せば貴下は實戰型の作物を得意とせらるゝにあらずやと愚考仕候試みに御作物を分類致候處實戰型八十局趣向型二十局と拝見致候次に貴著中の佳局を擧ぐれば拾番三十番丗五番丗六番丗七番丗八番丗九番四十七番四十八番五十九番七十七番九十八番等を以て其の尤もなるものと致すべく十五廿三六十三等は忌憚なく申上ぐれば今少しく手順の複雜ならんには更に面白かるべしと存ぜられ候爾餘の御作につきては皆それぞれに御苦心の跡窺ひ知られ敬服致居候以上誠に取り止めもなきことながら貴著研究の感想をものし申し候潜(ママ)越の段は偏に御海容願上候尚眞田以外の貴作も御出版遊ばさるゝやう希望罷仕候
大正十四年十一月一日
  酒井桂史
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 ○は調か

 高橋與三郎はいいこと書いていますね。

2016年9月14日 (水)

酒井桂史をめぐる言説 その5

 「詰棋めいと」酒井桂史特集号にある文章は紹介不要と思っていましたが、「詰棋めいと」がそれほど出回っているとも思えないし、その中にある「盤前漫筆」は冒頭に句を掲げたり、行替えや句読点を補ったりといった編集がなされているので、原文そのままを掲示しておくことも意味があるかなと思います。
 もっとも、原文は縦書きなのに、横書きはけしからんといわれれば一言もありませんが。

 1926年8月号
 「盤前漫筆」酒井桂史

将棋図巧第83番

100083

43飛成、同龍、55歩、53玉、43金、同玉、42飛、34玉、44飛成、25玉、
24龍、36玉、26龍、47玉、37龍、58玉、67龍、49玉、69龍、38玉、
39龍、47玉、48龍、36玉、37龍、25玉、26龍、34玉、24龍、43玉、
33龍、52玉、42龍、61玉、51龍、72玉、71龍、83玉、82龍、74玉、
85龍、73玉、74歩、72玉、82龍、61玉、71龍、52玉、51龍、43玉、
42龍、34玉、33龍、25玉、24龍、36玉、26龍、47玉、37龍、58玉、
67龍、49玉、69龍、38玉、39龍、47玉、48龍、36玉、37龍、25玉、
26龍、34玉、24龍、43玉、33龍、52玉、42龍、61玉、31龍、72玉、
71龍、83玉、82龍、74玉、85龍、73玉、74歩、72玉、82龍、61玉、
71龍、52玉、51龍、43玉、42龍、34玉、33龍、25玉、24龍、36玉、
26龍、47玉、37龍、58玉、67龍、49玉、69龍、38玉、39龍、47玉、
48龍、36玉、37龍、25玉、26龍、34玉、24龍、43玉、33龍、52玉、
22龍、61玉、31龍、72玉、71龍、83玉、82龍、74玉、85龍、73玉、
74歩、72玉、82龍、61玉、71龍、52玉、51龍、43玉、42龍、34玉、
33龍、25玉、24龍、36玉、26龍、47玉、37龍、58玉、67龍、49玉、
69龍、38玉、39龍、47玉、48龍、36玉、37龍、25玉、26龍、34玉、
24龍、43玉、23龍、52玉、12龍、61玉、21龍、72玉、71龍、83玉、
82龍、74玉、85龍、73玉、74歩、72玉、82龍、61玉、71龍、52玉、
51龍、43玉、42龍、34玉、33龍、25玉、24龍、36玉、26龍、47玉、
37龍、58玉、67龍、49玉、69龍、38玉、39龍、47玉、48龍、36玉、
37龍、25玉、26龍、34玉、24龍、43玉、13龍、52玉、22龍、61玉、
31龍、72玉、71龍、83玉、82龍、74玉、85龍、73玉、65桂、72玉、
82龍、61玉、71龍、52玉、51龍、43玉、42龍、34玉、33龍、25玉、
24龍、36玉、26龍、47玉、37龍、58玉、67龍、49玉、69龍、38玉、
39龍、47玉、48龍、36玉、37龍、25玉、26龍、34玉、24龍、43玉、
23龍、52玉、53桂成、61玉、62成桂、同玉、51角成、同玉、53龍、61玉、
62金
まで261手詰

53桂成、同金、23龍、51玉、51角成以下。

※原文には図面も手順も無し。


---
將棋圖巧第八十三番は二百五十手の大作であつて其の趣向は例の角の利き道を辿つて詰方の龍が王をあちこち追廻は(ママ)のでありますが盤面の或
る箇處で玉方の歩を捕獲し途中で其の歩を使用しつゝ盤面をぐるりと一週(ママ)し、再び歩を手に入れてくるりと一週(ママ)し數度これを繰返へして、どゞ、桂を捕獲し此を使用して巧みに詰の手順に導く趣向であるは云ふまでもありません、斯の如く龍が面倒な手順を繰返へして盤面をぐるぐる轉廻するのは此の場合詰の都合上龍玉の活動にのみ視點を置く事にします
其の目的が桂を捕獲するに在ります。此の事は、丁度、勤め人が其の勤務先と自宅との間を寒暑晴雨に拘はらず毎日毎日時計の振子の如く往復し、其の往復する目的が月給を得るに在ると見て見られなくはないのと趣きを等しくして居ます。詰將棋を單に詰將棋として味はふ許りでなく更に是を人世百般の事務に當箝めて味はつて見ますと、其所に一種珍妙な面白味を感得する事が出來、此の世の種々相が盤面に彷彿するを覺へるでありませう、そこでやゝ誇張に失する譯ですけれど「詰將棋即浮世」と云つて見度いのであります
    ×    ×    ×
   三代宗看圖式禮讃
 大空の果てなきに聴く秋の聲
   圖巧禮讃
 月光の身にしむ思ひうなだるゝ
    ×    ×    ×
私の知つてゐる範囲内では將棋創成期時代の作圖には入玉模様の作圖は少く時代が進むに連れて追々と多くなり、三代宗看々壽時代になると圖式の約三分の一迄はそれのやうです何故創成期時代に入玉模様の作圖が少いかと云へば私の考へでは此の時代の作圖は主として實戰より轉化したもの、若しくは實戰に現はれるやうな形を睨めて作爲したものが多い所以で、實戰に於ては入玉模様となる事は餘り多くないのですから、自然圖式にも其の現はれ方が少ないのではないでせうか。それが時代が進むに連れて棋界一般の技術も進歩し實戰といふ事よりも趣向といふ事に重きを置くやうになり、前人の餘り指を染めなかつた入玉模様のものに追々と其の開拓の鍬を進めて行つた爲め、自然圖式にも其の結果が現はれて來たといふ事になりはしないでせうか。斯く觀來れば今後詰將棋創作界の進むべき道が那邊にあるかが自ら暗示されてゐるやうに思はれるのであります
一體、入玉模様の詰將棋は詰方にとつて少々厄介で大抵の場合、桂以下の少(ママ)駒よりも銀以上の大駒に其の活動を期待する事が多く、且つ玉方の駒が一寸でも動けば直ちに「ナル」といふ脅威があつて其所には可なりなハンデイキヤツプが附せられてある譯であります。
從つて入玉模様の作圖を創作するに當つては然らざるものを創作するに比し、多分の苦心が必要となります。併しそれだけ作者の手腕を發輝(ママ)するの餘地があると云ふものです
    ×    ×    ×
詰將棋に詰上りが形象をなすものがあるのは申す迄もありません。現に本誌に秘曲集と丸山正爲氏作のイロハ字詰とが掲載されてゐます、因に私もイロハ字詰を製作しましたがこれは私の獨案になるものと許り思つてゐました處、丸山氏にも其の創作がありますかく詰上りに形象を爲さしむるといふ趣向をもう一歩進めて初めも終りも然かせしめる、例へば最初盤面に並らべた形がの字になつてゐるそれが詰の最後に於ての字の形になり、二字合して「春」といふ意味を爲すなどゝ云ふ様なものは出來ないものか知らぬと私は常々空想して居るのであります。これは非常な難物でありませう。が必ず出來ると保證し得ないと同時に。又必ず出來ないと保證する事も出來ないと思ひます。現今より棋界の技術が遙に發達した曉には天才が出現して或は作出さないものでもあるまいと思ふのであります。
    ×    ×    ×
棋界に對する希望を申述べたいと思ひます
一、現在の高段名手殊に關根名人花田、木村兩八段の創作せられた詰將棋を盛んに發表して頂き度いと思ひます、私共は渇時に清水を望む思ひに居るのであります、此の望みが達せられたならば我々平凡作者は稗(ママ)益を受ける事も定めし多いでせうし又非常な鞭撻ともなりませう
一(ママ)、右香落の復活、現今右香落を指さないのは別に大した理由がある譯ではなく、左香落に比較して興味が少ないからだといふ事ですが、其の理由が何であらうと獨り右香落のみを繼子扱ひにするのは將棋道より見て何となく面白くないやうに思はれます
三、將棋古書の覆刻近頃何々全集などゝ銘を打つて古昔の書籍が盛に覆刻されるやうですが獨り我が將棋古書に關しては何等かゝる企ての行はるゝを聞及ばないのを遺憾に思ひます、此際月報社に於て他に率せんして此の種の事を實行せられては如何ですか、さしづめ八世宗桂圖式出版の意義を延長し九世宗桂圖式の出版を企圖せられては如何
---

1941年9月刊の櫻井蘇月『寺の庭を掃きつつ』に収録されている「盤前漫筆(其二)」では二百五十手になっています。

原文は縦書きなので、「ぐる」の後ろは「ぐる」でなく、"くの字点"です。「く」の字を細長くしたような記号。

2016年9月11日 (日)

酒井桂史をめぐる言説 その4

 1926年2月号
 「形象詰將棋に就ての意見」前田三桂
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本誌の形象詰將棋には中々巧妙に出來て居るのがある添田宗太夫の曲詰の如き幼稚なるものは到底脚下にも寄り付けない優れたものでは有るが遺憾ながら其禁が詰將棋の原則に合致せないのも可なりある
玉將が手數の多き逃方にあるのに短き手數の逃方を撰んで目的の形を作るのは是は不合格の中でも最も宜しくない方である
更に又次のやうなるものもある
玉將の逃げ方に字形又は繪模様になる途と逃げ方に依つては全然字や繪の形が崩壊して仕舞ふ途との二途ある然して是が二途何れも同一手數である場合は如何と言ふに是も矢張り不合格の圖である
---
 どこにも酒井桂史の名は出てこず、この一文は丸山正爲の曲詰批判と受け取られたようで、果たして龍王生を名乗る人が4月号で丸山擁護の立場から反論していますが、これに対して前田は5月号で「私は敢て丸山氏の作のみに對して加へた批評ではない。一般の形象詰將棋作家に警告した注意である。私が二月號に掲げた彼の私論は夫よりも一二ヶ月前に、私の畏友酒井桂史君に論争した所である。同氏は私の卑説に賛同し舊來の誤りたる弊害を覺醒せられて居る」と述べています。


 1926年2月号
 「解答後に」岩手 桂秋
---
…春場所初日から休場でもあるまい、まゝよと酔眼を見開いたまではよいが手許に土俵いや盤駒がない、例に依つて圖面と首つ引きで取組んでは見たものゝ、記憶の錯覺から飛んでもない踏切りや見落しをやらかし、酒井親方や丸山關に叱られ恐縮千萬更(あらた)めてお詫を申上げます
宗看關とは土臺角力にならぬ負けるは當然と觀念してい(ママ)ますが彼の六九角引きや四八銀打の強引、酒井親方の八五馬間から六七角引きの打つちやり、さすがに横綱の貫禄と負けても胸が清々しました
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1月号のこと

1926年1月号 酒井桂史作

0118

67金、同玉、94角、85馬、同角、56玉、67角、同玉、94角、85角、
79桂、56玉、83角成、同金、46飛、65玉、57桂、54玉、44飛、同と、
46桂、43玉、52銀生、同玉、53金、51玉、61歩成、同玉、72香成、同歩、
同香成、同玉、83香成、同玉、84金、72玉、73銀成、81玉、82歩、同龍、
同成銀、同玉、83飛、71玉、73飛成、81玉、92歩成、同玉、83金、81玉、
82龍
まで51手詰


解説 九九生(加藤文卓)
此局九四角打に對し八五馬引きの妙手を發見せずして誤解となつた答案が多數ありました

 「酒井親方の八五馬間から六七角引きの打つちやり」とは馬の移動中合から67角の部分ですね。
 この図は前年12月号に出題されたのですが、誤植(攻方33歩が玉方になっていた)再出題されたものです。
 菊地桂秋(義雄)は「負けても胸が清々しました」と書いていますが、これは三味線で、全題正解でした。
 宗看作は無双第92番です。


 1926年4月号
 「所感片々」菊地桂秋
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現代無名の作家酒井桂史氏の作物愈出でて愈絶妙、宗看作にも匹敵すべし、曾て寄せたる前田氏の賛詞徒爾ならざるを想ふ
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 1926年5月号
 「天才と將棋(下)」前田三桂
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…詰將棋として作爲されたものには、奇想天外より落下せるものや、妙味津々として盡きざる作物が澤山ある
三代宗看の作や伊藤看壽の作や、九代大橋宗桂作などになると、實戰の棋譜よりも更に面白き玄妙なるものがある
…現今七八段以上の高名の棋士は、斯様な名作を作る人は有るでせうか
…私が只今迄に見聞した所を數へて見れば、小野名人が嘗て東京時事新報に久しい間連載した詰將棋の圖が五六百番に達して居たと思ふ、其外雜誌太陽にも、生活にも掲出して居た、阪田三吉が大阪朝日新聞に毎週一圖を發表して居た
關根氏が萬朝や中外商業新聞に出して居た、只今では大崎氏が雜誌現代や國民新聞附録に出題し土居氏は雜誌東京や東京日日新聞に金氏は雜誌太陽に、木見氏は大阪サンデー毎日に新題として掲出されて居る
併し是等の圖は悉皆とは言はないが、阪田三吉氏を除いて外のは、大方古人の焼き直しや然らざれば劣等なる作圖で、古人を凌駕するに足るべき高段の力の發揮されたものは私は絶無であると思ふ
然らば詰將棋のやうなものでも天才有るものでなければ、世人の耳目を惹くべき立派なものは容易に作り難いのではないかとあるまいかと思ふ
此間にあつて棋界には未だ名もなき白間の青年が巍然として群を抜いた作圖を發表して居る。私は常に驚異の眼を以て時々發表せらるゝ此青年の圖を注視して感嘆の聲を放つて居る
此天才の青年を誰となすか。私の獨り自ら畏敬せる酒井桂史其人である

私は酒井氏とは一面識もないが其作圖には景慕して居る、而して是れ常鱗凡介の匹類ではないと思つて居る、私は氏の編せる自作王玉篇に接するの機會を得た、而して益々此念を深くした
…其圖は古人の糟粕を嘗むるを潔しとせず、毎作必ず自己獨特の新工夫新手段を加味して、詰將棋を喜ぶ私共には一種言ふべからざる爽快を覺えしめる。是れ他なし溢るゝ計りの清新の氣が漲つて居るからである
私は氏の作が前掲三傑の詰將棋の圖に追従するものとは今俄に斷ずる者ではないが、近き將來に於て必ず是等三傑作の壘を摩する域に達すべきを疑はない

---


 1926年6月号「忌憚なき希望」前田三桂
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酒井桂史君は、私とは頻繁に文書を往復し、互に討論するのであるが、氏は詰將棋を作る手腕は、専門家も徒跣(はだし)である。詰將棋製作上の注意や苦心談でも聞く事が出來れば、後学を裨益する事少なくはないと思ふ
---

 1926年7月号
 「盤前漫筆」酒井桂史

 ここに全文掲載しています。

2016年9月 9日 (金)

酒井桂史をめぐる言説 その3

 下は1925年10月号に掲載された解答成績表です。
192510_2

 そして1926年1月号の解答成績表。
 山村兎月と佐々木香雪は当時の解答王。佐々木は1926年あたりから解答者欄から消えますが、1927年2月号の「各府縣棋界の情勢及び好棋客二十名」の伊丹町の項で横綱となっています。「会社經營資産數百萬圓の富豪」とあります。「資産數百萬圓」はこの当時の名士録の常套句ですが、「毎會夥數景品寄贈」するなど「我等棋友連の尤(ママ)も深く敬愛する處の大家なり」と。
 また、1932年に月報に掲載された「二代伊藤宗印圖式」では、あらかじめ山村兎月が解答強豪に解図を依頼したこと、佐々木に対しては16局(他は8局)依頼し、全題解答したのは佐々木と山本東城、高橋與三郎のみで「他の諸君は断念中止の報に接した」という記事があります。
192601_2
 真ん中の列に注目。酒井桂史が行司に加わっています。

 続いて1926年7月号。
192607_4

 1926年10月号。累進して最上位に。
192610_2

 月報では毎年新年号に名刺広告を出していましたが、この年の一部です。
 酒井桂史は喪中であったことが分かります。
1926_2


 1926年1月号
 「詰將棋解答者列傳」
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丸山正爲君

從來詰將棋の秀才は都會には少く現在斯界の大家は何れも邊土に多い、越後に於ける加藤先生、門司市の山村、兵庫縣の酒井、青森の三井、四國の加藤温水、伊勢の奥坂、滿洲の佐田の諸氏は殊に著名である。
…前記大家は山村と酒井兩氏の外は五段四段で…
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 1926年1月号
 櫻井三桂「奥戸村より」
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將棋の友社を起して僅か半歳あらゆる苦闘も遂にその甲斐なく遂に解散の運命に陥りしは世の不影(ママ)氣が原因か將又(はたまた)自分の非才の為す處か(中略)私の企ても萬更徒爾に終らなかつた事だけは自覺してをります、殊に詰將棋の天才酒井桂史君及び斯道に造詣深き前田三桂君を棋界に紹介したことは頗る私の快心事とするところであります
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徒爾=無意味

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