カテゴリー「「将棋月報」関連」の45件の記事

2017年1月26日 (木)

「將棋月報」とプロ棋士

「失禮御免へたの横槍」始まる
 昭和3年6月号から前田三桂の「失禮御免へたの横槍」が始まる。これは当時の高段棋士の指し将棋で終盤即詰があるのに詰めなかった棋譜を示して横槍を入れてプロ棋士の詰に対する甘さを指摘したもので、その歯に衣を着せぬ論鋒に読者からは拍手喝采を浴びたが、プロ棋士からは当然ながら快く思われず、月報から離れる棋士が多かった」
湯村光造氏「『将棋月報』で辿る戦前の詰将棋界」1998/11「詰棋めいと」

 「將棋月報」とプロ棋士とは当初良好な関係にあったにもかかわらず、前田三桂の「へたの横槍」による執拗な詰抜け指摘によって離れていったというのは事実だったのでしょうか。

月報1931年5月号
「失禮御免へたの横槍」(三五)
前田三桂
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ヘタの横槍が一時三歩居士からイヂメられて、随分手嚴しい攻撃を受けた
が、今では却て世人の注目を引き、大に歓迎せらるゝやうになつて來た。而して居士はモウ到底横槍の撃退を不可能と思つたのか、名刀を揮ふ事も斷念したらしい。其代りに爰に又陰儉なる勁敵が現はれて來た。其敵は堂々と誌上で爭ふといふ勇氣のある奴ではなく、蛇の如く執念くコソコソと蔭にあつて月報に迫害を加へんとするのであるソウナ
ヘタの横槍は正義の爲に揮ふのであるから、謂はれなき迫害が加へらるゝならば、其加へらるゝに反比例して益々峻烈に猛撃を加へてやるまでである。
玄人の将棋指し共は、其弟子達を戒めて月報を見るなと注意をする。毎々横槍に醜態を暴露されるのを愧づるが爲ではあるが、誠に智慧のない禁制である。
由来見るナと言ふほど見たがるのが人情である。此人心を利用して能く新聞雜誌等に男讀むべからずとか、或は女見るべからずの廣告が出て居る。スルト男なり女なりが貪り讀むものである。
師匠が見るなと排斥する横槍は、弟子達が殘らず讀んで知つて居るのである。否々師匠自身がコツソリ讀んでフンガイして居るのである。
夫れが證據に月報の御得意塲は、聯盟棋士のお膝元の東京が第一で、年々讀者は殖えて行くとのことである。
聯盟棋士の或る者が月報を仇敵の如く心得、常に之に壓迫を加へんとして居るのは事實である。而して是が今に始まつたのではなく随分久しい以前からの事である。
大正十四年十一月二十一日麹町區平河町關根名人方に於て聯盟會臨時總會が開催せられた、其席上で、信州松本市で發刊される「將棋月報」に土居聯盟會長の一身上に關し誹謗に類する記事あるに付き、東京將棋聯盟の決議を以て、之に戒告を與へ、若し其態度を改めざれば、將來聯盟加入の専門棋士は、一切同誌に寄稿しないことにしやうとの提議があつたのである。此會議の詳細は當時發行せられて居た金八段主宰の將棋の國なる雜誌上に明記せられて居る。
此問題が提起せられてから後間も無く各地方の棋士にまで手を延ばして専門棋士の月報への投稿を阻止したのである。月報誌上専門棋士の跡を絶ち、純然たる素人雜誌になつたのは是が爲である。

三歩居士の「名刀の切れ味」は、「へたの横槍」に対抗して、高段棋士の妙手を賞揚する内容でしたが、実はこれも前田の筆によるものでした。
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 「へたの横槍」は1928年6月に始まり1933年8月までほとんど毎月掲載されていったん終了。1934年5月から再開され1943年7月までは断続的に掲載されました。ざっと数えたところ120回以上です。1933年8月までにどんな棋士が槍玉に挙げられたのか調べてみましたが、最も多かったのは溝呂木光治七段で10局以上ありました。次に多かったのが金子金五郎八段です。土居、花田、木村は二三局程度でした。大正時代の棋譜にまで遡って実戦の詰抜けを指摘されるだけでなく、著書に掲載した詰将棋にも余詰ありとして槍玉に挙げられてはたまったものではありません。

 前田三桂の書くところによれば、月報創刊以前の「道樂世界」から既に問題視されていて「各地方の棋士にまで手を延ばして専門棋士の月報への投稿を阻止」したとあります。
 ところが調べてみると、大阪号主幹だった木見金治郎八段は1928年12月まで定跡講義を掲載していますし、花田は1926年7月号まで、木村も1926年9月まで断続的に講義がありますが、月報創刊から2年近く経っています。「地方棋士」の時田慶三郎六段(中京)は1930年あたりは毎月、最終1936年4月まで寄稿していました。
 してみれば、前田三桂の言い分はかなり怪しいといわざるを得ません。

王将1954年5月号
「失禮御免へたの横槍」
前田三桂
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 そもそも俺の横槍の由来と言うは、始め俺は名人上手達を将棋の神の様に崇拝し、その指手は一手一手を絶対至上動かすべからざるものと信じ切っていた。しかるに偶然花田七段対大崎七段の将棋に花田が詰を落しているのに出会った。俺はトンボの眼玉のようにクリクリと動かして吃驚した。花田七段は詰将棋の大家だ。もしか俺の錯覚かも知れんと、入念に棋譜を調べたが、俺の指した手はどこにも狂いはない。ナンダ神様も只の人間だね。では外の七段八段連中の棋譜も調べてやろうとその頃は棋譜は山ほど集めていたから朝から晩まで飯を食うのも忘れ、俺の狭い橘仙居に閉じこもり調べに調べて夜を徹する事もあった。出てくる出てくるソラ出た。又出た。パラッと出たという工合に伏死累々、惨状眼も当てられぬばかりであった。是を塩漬にして独り楽しむのは勿体無いと、月報へ登載し始めたから、サァ大変、芋畠へ野分きが吹き込んで来たように、東都棋壇は動揺して噪ぎ出した。そして俺の将棋の神様の崇拝熱も信仰心も、シャボン玉のようにフワフワと宙に浮いてスーッと音もなく消えてしまった。
 その頃東都棋壇の牛耳を執って居るものは土居八段でその声望は関根名人を圧して居た。土居は月報の行動を束縛せんとし月報誌上に定跡講義を載せる棋士に回章を廻して、投書をしてはならぬと厳命したとの噂が立った。その結果か花田や木見や木村等の高段の定跡講義が一斉に尻切れトンボとなって中絶してしまった。
 定跡講義が載せられなければ、将棋雑誌はこの致命傷のために自滅するより外はない。月報の読者は憤慨して月報擁護のために起ち上り、それぞれ得意の部署に付いて奮斗した。
 月報は東都棋士の迫害に逢い、孤立無援におちいったが、よく堪えて廃刊しなかった。どうした訳か却って東京でよく売れた。読むなと言うほど読みたがるのは人の情で、逆作用をなしたらしい。しかして月報は純詰将棋雑誌になった。月報は詰将棋鼓吹に力瘤を入れて次々に読者の詰図を発行した。このため詰将棋熱が素人間に燎原の火のように炎え拡がり詰将棋愛好家は翕然として月報の傘下に集ってきた。月報は倒れる所か却って隆盛になって、定跡講義はなくても、詰将棋雑誌として自立して行けるようになった。
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 花田、大崎戦が連載第一回目の横槍です。
 これは戦後になってからの文章ですが、「花田や木見や木村等の高段の定跡講義が一斉に尻切れトンボとなって中絶してしまった」のは上述したように、「へたの横槍」の連載が始まってから中絶したのではなく、花田、木村はそれ以前に終わっていましたし、木見はそれ以後も連載していました。前田じしんが月報に書いたものとは違う内容になっています。
 ただし、土居八段の詰将棋は剽窃ぶりが読者からも再三批判を浴びていましたので、恨みを買っていたのは確かでしょう。

 何事も鵜呑みにしてはいけませんね。

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2017年1月28日追記

 その後気がついたことを付け加えておきます。
 まず、1931年5月号の記事において、1925年11月、「聯盟會臨時總會が開催せられた、其席上で」月報に対する「提議」がなされたとありますが、決議するに至ったとは思われないこと。木見八段(当時、坂田八段派とは別個の、大阪の棋正会の首領でした。1926年には東京將棋聯盟と合流して日本將棋聯盟創立。木見は関西支部長に就任)や時田六段に対し「各地方の棋士にまで手を延ばして専門棋士の月報への投稿を阻止した」という事実があったのか疑わしい限りです。
 一方、「へたの横槍」の連載開始後の、1929年の年賀広告には、前年まであった土居、花田、木村の名前は消えています。一定の影響はあったのでしょう。關根、木見、時田は後々まで月報に年賀広告を出しています。
 月報1931年4月号では朝日新聞主催の松本市での将棋大会を大きく報じており、土居、木村など「日本將棋聯盟全員来松」という見出しになっているところから、月報社の側からプロ棋士を誌面から閉め出したということではなかったと思われますし、1934年5月号には大崎八段や金八段が執筆していた「将棋時代」の広告が掲載されており、曰く「『将棋時代』は飽まで研究的であり専門的である、『將棋月報』は批判的で、自由性に富んでゐる。(中略)この異なつた二つの雜誌は異なつてゐるが故に、各々の存在理由があると思ふ」と月報を立てながら宣伝に努めているところなど見ると、月報とプロ棋士の対立なるものは、前田三桂によって面白おかしく仕立てられた話のような印象を受けます。

2016年12月25日 (日)

將棋の比喩

 「將棋月報」1940年10月号に、「將棋の比喩」と題してソシュールの『一般言語学講義』が紹介されていたのには驚きました。大哲巳太郎という人の記事ですが、何者なのでしょうか。
 かつて大流行した構造主義を後追いでとりあえず知っておこうと思って入門書の類を買った記憶がありますが、さっぱり分かりませんでした。(笑)
 大哲は1939年5月「詰將棋拾遺」(詰棋欄出題作に対する山村兎月解説の誤りを衝いたもの)で月報に初登場。何度か記事を書いている論客で、作品は発表していないようです。蒐集家だったと見えて、1940年1月号の「昭和十四年度詰將棋界回顧」では前年に発行された新聞、雑誌に掲載された詰将棋作品数を細かく調べ上げています。これによると月報は88局、「將棋日本」は35局、「將棋世界」は32局(いずれも愛棋家作品の数)となっています。

 最近必要に迫られて一讀したものにソシユール原著、小林英夫氏譯『言語學原論』(昭和十五年三月岩波書店發行)がある。
 原著者フエルヂナン・ド・ソシユールは一八五七年ジユーネーヴに生れ、一九一三年にその比較的短い生涯を終るまで、郷里の大學に於て、比較言語學及び梵語學を講じて居た。没後その講義の草案と學生の筆記とを照合して編纂されたのが本書である
 本書は譯者の序に「一般入門書の如く常識の涵養を目差したものではなくして、著者が生涯をあげての沈潜熟思の結晶なのであるから、不用意な通讀によつて理解されうる如き書物ではない。と斷つてある様に、深遠難解を以て解せられ、精緻な理解力を用意してとりかからねばならぬ程、暗示的なまた象徴的な表現をとつて居るものであるが、併し、随所に剴切な比喩形容を挿入して讀者の理解力を援助して呉れるので、知らず知らずに讀まされてしまふ。就中、得意な比喩は將棋の駒の形容であるが、將棋に關する比喩を數個所に見受けたので、次に書きとめて置くことにする。

 『言語學原論』とありますが、これが最初の邦訳書名(1928年岡書院、原書は1916年)で、世界で初めての外国語訳でした。岩波は岡書院から版権を取得したのですが、現在の岩波版は1972年の改訳です。ソシュールと言えば、時枝誠記による批判を思い出しますが、時枝と小林は京城帝国大学の同僚でした。
 出版されたものは、編者によって恣意的に配列が変えられたり意見が差し挟まれたりして、実際の講義に忠実ではなかったことが明らかになっています。

 著者は、『言語の内的要素と外的要素』の一節に於て「言語に關する我々の定義は、我々が凡そ言語の組織、体系に關係なきもの、一言にしていへば『外的言語學の名稱をもつて示しうるものを惡(ママ=悉の誤字)く斥けることを豫定してゐる。と述べて併しこの外的言語を重要な事物を扱ふものであつて、言語活動の研究に著(ママ=着の誤字)手するに當り先づ想到するものは主として之であるとして、外的言語學に於ては、言語學が民族學や政治史に接觸する方面を考へるものであることに言及した後、「内的言語學にあつては、之と全く事情を異にする。それはいかなる手加減をも許さない。言語はその固有の秩序しか知らぬ体系である。」として、更に兩者の區別を明瞭に理解させるために、將棋を引用して居る。
 即ち將棋に於ては、「外的なものと内的なものとを見分けることが、比較的容易である、ペルシヤからヨーロツパに渡つたといふことは、外的事實である、之に反して体系及び規則に關することはすべて内的事實である。いま私が木製の駒を象牙の駒に変へたとしても、体系には毫末の變化も與へない(これは外的方面に就いての比喩である。)然るに駒の數を増減するときは、將棋の『文法』を根底から覆へすであらう(これは内的方面に就いての比喩である。)」(本書三六頁=38頁。尚ほ括弧内は筆者補足)と説明して呉れる。
 更に、斯様に將棋を説明の用に供して、讀者の行きづまりを展開させ、緊張した氣持をほご(ママ)せて居る個所を拾つてみやう。
 科學の對象となる領域の多くでは、例へば、動物學では動物といふものが始めから提供されて居る様に、單位の問題はおよそ問題にさへならず、一擧に與へられて居るのである。或る科學が直ちに認識出來る具體的單位を示さぬときは、それがそこに於て本質的でない證據であつて、例へば歴史にあつてはそれは個人か時代か國民が知らず知る必要ありやの点を明らかにせずとも史書を編むことが出來るのである。「然るに將棋の要領が全く諸種の駒の組合せにあると同じ」(本書一四二頁=150頁)様に、言語は完全にその具體的單位の對立を土臺とするものであつて、人はそれ等を知らずに濟ますわけにはいかず、それ等を手掛りとせずしては一歩も踏み出すことは出來ぬのであると述べて居る。
 又、言語の如く要素が一定の法則に從ひ互に均衡を保つところの記號學的體系に於ては、同一性の概念は價値の概念と本質的に異るものではなく、互に融合するものであつて、これを將棋と比較してみれば納得が行くものと思ふとして、此の場合にも將棋の例を引用している。即ち「桂馬をとつてみる。それは單獨で競技の要素であるか。確かにさうでない。それはその置かれた番の目やその他の競技條件から外に出てその純粋の資料性においてある時は、指手にとつては何んらの意味をもたらさず、それが實在的、具體的要素となるには、苟もその價値を身につけ、それと一体にならねばならぬ。いま勝負の最中に此の駒を割つたとか紛失したとか、したとする。その時は他の等價の駒と代へることができやうか。差支ない。もう一つの桂馬でよいのみか、同じ價値をもたせさへすればそれと似ても似つかぬ恰好のものでも同じものと看做されやう。」(本書一四六頁=154頁
 因に、勿論これは自明のことで、特にお斷りする必要はないかも知れないが、原著者の比喩に好んで提供される將棋は、西洋將棋即ちチエスの場合をさすのであつてこれは日本將棋と少しく趣きを異にする。両者の差異はこまかい点を擧げれば種々あるが、原則として敵から奪取した駒を味方のそれとして使用することのない點が西洋將棋の著しい特徴であらう。又、西洋將棋に使用せられる駒は、日本將棋のそれが平面的であるのに對して、立体的にしてなかなか贅澤なものが多く、象牙に緻密な彫刻を施した美術的なものもある。
 前掲に、著者が「駒を割つたとか紛失したとか」場合に「同じ價値をもたせさへすればそれと似ても似つかぬ恰好のものでも同じものと看做されやう。」と述べて居る個所に就いては、たまたま紛失した『歩』の駒の代用として、燐寸軸或は煙草の箱の一片を急場の間に合せて勝負を争ふのを普通として何人も疑はぬ。かの縁臺將棋の如き光景が想ひ浮ぶであらう。
(中略)
 一九世紀の思想全体を風靡した進化論は、直接間接に言語學にも影響して、ただ發生的角度からのみ言語學を考察し、言語の生の進化法則を見出すこと以外に、何等なすところがなかつたが、著者は、言語の機構そのものは、時間の作用を一應無視し、各辭項の相互依存の關係を直視することに依つて、始めて認識せられるものであり、言語は、その詰(ママ=話ヵ)手にとつては史的事實である前に先づ意識事實であつて、この兩者の秩序を支配する法則は、その性質を異にするが故に、これまた相異る二學科を要請せねばならぬとして、從來の史的言語學即ち著者の所謂『通時言語學』に對して、言語機構の認識たる『共時言語學』の存在を力説して居る。
(中略)
 共時論的なものと通時論的なものとの自律性と相互依存とを同時に示さうと思ふならば……著者は、最も適切なる比喩は、言語の働きと將棋の勝負とのそれであり、いづれの場合にも、人は價値体系に當面し、價値の變更に参加するが、將棋の勝負はいはば言語が自然的形式の下に示すものの人工的實現であるとして詳細な將棋の比喩を示して居る。この部分が、本書中最も將棋の比喩を巧妙に提供して居るから、少し長くなるが、そのまま御紹介して置かう。
 「第一に、競技の一状態は、言語の一状態に該當する。駒のそれぞれの價値は盤上におけるそれらの位置に依存する、同じく言語にあつても各の辭項の價値は、爾餘のすべての辭項との對立によつて定まる
 第二に体系は決して瞬間以上に持ちこたへない、それは場面ごとに變化する。尤も價値はまた主に不易の制約、即ち勝負の始まらぬ前から存在し、指しても指しても存續するところの、競技規則に依存してをりはする。このやうな永久に動かない規則は恒常的原理がそれである。
 最後に、一の均衡状態から他のそれへ、又は ─ 我々の用語法に從へば ─ 一の共時態から他のそれへ移るには、駒を一つずらせばよい、家中の引越騒ぎは起らない。そこに通時論的事實と微細に互(ママ=亘の誤字)つて異るところの對照物がある。詳言すれば
(イ)将棋の一手は唯一つの駒を動かすに過ぎない、同じく、言語にあつても變化は單獨要素の上にしか行はれぬ。
(ロ)それにも拘らず、その一手は体系全体にひびくものである、その効果の限界を精密に豫見することは、指手といへども不可能である。それから生ずる價値の變化はその場次第で、無に等しかつたり甚だ重大であつたり、或はその中間であつたりしやう。某の手が勝負全体の形勢を一變せしめ、それまで死んでゐた駒を俄かに生かすこともある。言語にあつても、之と同然なことは、既に見た通りである。
(ハ)駒の移動は、以前の均衡状態とも以後の均衡状態とも全然別個の事實である。生じた變化はこれら二つの状態のいづれにも属しない。ところで、重要なのは、状態のみである。
 將棋の勝負では、與へられた随意の場面は、それに先立つ場面から解放されてゐるといふ、妙な性質がある。そこへどの道を通つて達しやうが、全然かまはない。勝負を始まりから觀てきた者も、危急の情勢を覗きにきた野次馬に比し、いささかの特典も有しない。その時の場面を記述するには、十秒まへに起つたことを想浮べる必要は毛頭ない。このことはそつくり言語にも當嵌まり、通時論的なものと共時論的なものとの根本的區別を裏書するものである。言は一つの言語状態にしか作用せず、状態と状態との間に入來る變化は言の中に入りこむすきまはない。
 比較が當を得ない場合は、ただ一つある。將棋の指手は初から意圖を抱いて駒の移動を行ひ、体系の上に働きかけやうとする。然るに言語には、前後の考へがない、言語の駒が位置を変へ──否、むしろ變更するのは、自生的であり偶生的である。…將棋の勝負があらゆる点で言語の働きに似るためには、無意識の、又は無知の指手を想定せねばならぬであらう。」(本書一一七頁 ─ 一一九頁=124~125頁

 さて、これまで將棋を引用して説明されたものには數多く接して居るが、學術的な著論中に而もこれ程巧妙に用ひられた例を知らぬし、又本書の如きは、一般の方々にはおよそ縁遠いことと思はれるので、僭越乍ら、以上の如く御紹介させて戴いた次第である。(後略)

 果たして、この記事をどれだけの月報読者が読んだでしょうか?(笑)
 文中、點と点、體と体が混在していますが、原文通りです。太字は現在の岩波版の該当頁です。
 ソシュールはチェスが好きだったようで、「ホイットニー追悼」という公表されなかった原稿(1894年)にもチェスの比喩がありますが、腕前のほどは分かりません。
 『明治事物起原』(1993年1月・日本評論社=1944年改訂増補版の復刻本)によると1860年の遣米使節が持ち帰った物品の中にチェスの本が3冊あり、1868年には『西洋將棋指南』と題するチェス本が出版されたそうですが、「三將棋書に何等か關係が有りさうに思はる」と慎重な書き方をしています。また「將棋の名人小野五平、曾て書生をして西洋將棋法を翻譯せしめ、其差し方を了解し、以來如何なる人と對局するも遂に負けたることなし。依て門前標して日本西洋將棋指南所といふ。惜むらくは、翁の生前、その時代を尋ねざりし」とあります。

2016年9月26日 (月)

「桂詰」結果発表

「桂詰」への解答は14名の方々からいただきました。
ありがとうございました。


解答はおよそ4種類に分けられました。


良識派

賞品不要の名無しさん まず、6手目に桂がいける位置が2七・4七・6七・8七しかないことに着目。
そして、6手目に桂馬が移動した場合に7手目に歩で取られる状態であれば、それは5手目で詰んでいるという判定になるのであろうと推測。
そうであれば、6手目の移動先をなくすように持駒である3枚の歩を配置していけばよいということになる。
そうなる回答は複数あるため、全て記載していく。
(4手目までの応手の結果、5手目にどの手を指しても詰んでいる状態は、桂方の移動間違いとして省略する)

      
      ・▲2八歩△4三桂▲4八歩△5五桂▲6八歩
      ・▲2八歩△4三桂▲6八歩△3五桂▲4八歩
      ・▲2八歩△4三桂▲6八歩△5五桂▲4八歩
      ・▲2八歩△6三桂▲6八歩△5五桂▲4八歩
      ・▲2八歩△6三桂▲6八歩△7五桂▲8八歩
      ・▲4八歩△4三桂▲2八歩△5五桂▲6八歩
      ・▲4八歩△4三桂▲6八歩△3五桂▲2八歩
      ・▲4八歩△4三桂▲8八歩△3五桂▲2八歩
      ・▲4八歩△4三桂▲8八歩△5五桂▲6八歩
      ・▲4八歩△6三桂▲6八歩△7五桂▲8八歩
      ・▲4八歩△6三桂▲8八歩△5五桂▲6八歩
      ・▲4八歩△6三桂▲8八歩△7五桂▲6八歩
      ・▲6八歩△4三桂▲2八歩△3五桂▲4八歩
      ・▲6八歩△4三桂▲2八歩△5五桂▲4八歩
      ・▲6八歩△4三桂▲4八歩△3五桂▲2八歩
      ・▲6八歩△6三桂▲2八歩△5五桂▲4八歩
      ・▲6八歩△6三桂▲2八歩△7五桂▲8八歩
      ・▲6八歩△6三桂▲4八歩△7五桂▲8八歩
      ・▲6八歩△6三桂▲8八歩△5五桂▲4八歩
      ・▲8八歩△4三桂▲4八歩△3五桂▲2八歩
      ・▲8八歩△4三桂▲4八歩△5五桂▲6八歩
      ・▲8八歩△6三桂▲4八歩△5五桂▲6八歩
      ・▲8八歩△6三桂▲4八歩△7五桂▲6八歩
      ・▲8八歩△6三桂▲6八歩△5五桂▲4八歩

      
以上、24通りの桂の詰まし方が考えられる。
ISOさん 打歩ばか詰、王手義務なし(このルール都合よすぎ、没ですね)
28歩、43桂、48歩、35桂、36歩まで5手
原田椅子さん 48歩63桂88歩75桂68歩まで5手
最初の桂が跳ねる方向で88歩にするか28歩にするか決まる。
ゆめぎんがさん 48歩63桂68歩75桂88歩でしょうか。
divDさん 48歩、63桂、76歩、55桂、68歩迄。
ルールがよく分からないのでステイルメイトにしました。
EOGさん 後手に持駒がないと仮定して
56歩、43桂、48歩、35桂、28歩まで
3手目と5手目は手順前後可
桂花さん プロブレム風の非王手可、玉方持駒なしと解釈すると、48歩、43桂、68歩、35桂、28歩まで。ちょっと先を読んで捉えにいくのが良い感じかも。

エコ派

解答欄魔さん 後手(桂方)は、持駒なしで桂が跳ねるしかないという前提で。
56歩、43桂(63桂)、36歩(76歩)まで3手詰。
ただ、これが作意だとすると、歩は2枚で足りるわけで…。
あまりにも見当違いなら、掲載は見合わせてください(笑)。
攻めダルマンさん 56歩、43桂、36歩、パス?、44歩みたいな感じしか思いつきませんね。(2手目63桂なら76歩)

暴走派

KSさん あまりに面白い問題だったので、初めてですが投稿します。
いろいろ考えたのですが、3手連打という答えはどうでしょうか。(笑)
先手、4四歩、6四歩、5二歩、まで。
もはや詰将棋のルールでも何もないのですが…。
解答、楽しみにしています。
昔の本も面白いですね。
奥鳥羽生さん 44歩、64歩、52歩迄3手。(連続詰&打歩詰)
非王(桂)手・交互着手で成桂をと金3枚で詰上げる順を考えるも・・・脳力不足であきらめ。
単なる連続詰なら最終が53歩、52歩成も、あえて短手数の方を。
機知に富んだ答を考えつかず、ショボイ解答となってしまった。


無頼派

たくぼんさん こんな時代から「ボカスカ詰」ってあったのですね。
ちょっと感激しました。
44歩、52歩、64歩 迄 1手詰
って思ったのですが、ボカスカルールを確認すると歩は同時に打てないと判明。ありゃりゃ。
ステイルメイト狙いの順もあるけどまあ「桂詰」とあるので・・・。
ボカスカ詰ではないけどよく似たルールでということにしてください。
谷川幸永さん 「受先(王手義務なし)ロイヤル桂ばか詰」ルールで
43桂 24歩35桂 23歩成27桂成 24と17圭 26歩16圭
17歩15圭 25と 迄 12手


個人的には変寝夢さんの解答が気に入りました。無理なく詰めているのがポイント高いです。よって最優秀賞。

変寝夢さん 面白そうなので解答してみます。桂=ナイト&協力詰で52歩、32桂、33歩、13桂、14歩、21桂、32歩成まででいかがでしょうか。
玉方の駒を強くすることで早く詰むようになる、というココロです。
正解なら協力詰と異玉詰の最古の作品となりますね。

ISOさんの最初の解答もこれでした。出し直ししない方が良かったのに、惜しい。
あとは解答をくれた人はみんな優秀と認め(笑)、4人の方に賞品を差し上げます。
厳正に抽選しました。

Dsc03658_3

↑(谷川幸永さんの字が間違っておりました。失礼しました)

細かく折る

Dsc03660_2

さらに折る

Dsc03662_2

さらに折って、ランダムに引きました。

Dsc03669_3

厳正な抽選の結果、変寝夢さんの他は

KSさん
解答欄魔さん
奥鳥羽生さん
divDさん

と決定致しました。

変寝夢さんには、この詰2015+極光II
4名の方には

詰棋めいと第4号+第17号
詰棋めいと第20号+第26号
詰棋めいと第27号+第32号
北斗+Blue Film

のどれかが行きます。持ってるよという方は、知り合いにあげて下さい。

Dsc036891

いずれの方もご住所と本名をコメント欄にお願い致します。非表示にしますのでご心配なく。

2016年9月25日 (日)

酒井桂史をめぐる言説 その12

 「桂詰」解答募集中です。本日で締切


 1942年1月に櫻井蘇月は『將棋随筆 雲烟過眼』という単行本を山田將棋所から発行しています。印刷は將棋月報社。これは月報等に掲載された文章(前田三桂や松井雪山の文もある)をまとめたもので、酒井桂史が「感想」と題し寄稿しています。

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 「感想」

 大木の新緑湧くが如くなり
先づ、稚拙一句を献じて、本書上梓の御祝を申上げたい。
知友が自著を公にせらるゝといふことは、誠に嬉しいことである。その内容は著者より到來した書簡によつて、大略の輪郭は承つたけれども、詳細な事は承知してゐない。が、固より内容豊富、光彩陸離たるものに違ひない事は冗言を要しない。刮目大いに期待する次第である。
著者と私との交誼は顧みれば随分前のことで、金八段發行の將棋雜誌の編輯を主宰して居られた時に始まる。東京市と兵庫縣と距離が隔たつてゐる關係上、親しく御眼にかゝつた事はないが、單に編輯者と投稿者との關係以上に突込んだものがあつたやうに思つてゐる。それも疎懶の私のことであるから、いつも消極的なのは私で、殊に私が將棋の駒と殆んど縁を絶つてからと云ふものは、猶更さうであつて、此点誠に恐縮に存じてゐる次第である。
此間、最近撮影にかゝる寫眞を前後して二葉送つて下さつた。一つは正面向き、一つは横向きの佳影であつて年來私が想像してゐた著者とは少し違つた点もないではないが、大体に於いて一致してゐた。一言で云へば、春風駘蕩そのものゝ感じである。これは著者のものせらるゝ文章其他から想像を逞しうしてゐたのであるが、それがうまく當つてゐたのである。別に自慢ではないが、私の想像力の正しさを云々するよりも『文は人也』と云つた古人を稱すべきだと思ふ。
子供を養育するのにその苦勞は一通りではない。小さければ小さいで、大きければ大きいで、心配の絶間がないのである。が、將來の苦勞は兎も角として、現在これ迄こんなによく育つたものだと考へ乍ら、過去を振返って見る時、今迄の苦勞は苦勞でなくなつて、其処に一種の甘美な感情が附加して來るを常とする。是と同じ思ひに著者は今、精神上の息子を前にして、耽つて居られるのではないかと考へても、敢て失當でないと思ふ。此の一文にも、彼の一文にも執筆當時の違つた思出(ママ)が次次と浮んで來て定めし感慨無量のものがあるに違ひない。
今宵は初夏のすがすがしい一夜、今しがた置いた筆を再び執上げんとした時、時鳥が山腹の我家の上を啼き過ぎて行つた。おや、珍らしい、この邊りでは毎年極く稀にしか、それも一聲か※二聲しか聞くことの出來ない時鳥が、しかも、五聲まで啼いて行くとは。そこで又一句。
 ほととぎす身に入みて聴く今宵かな

  五月二十四日 酒井桂史
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細かいことですが、「詰棋めいと」第10号の引用文は、が抜けています。

 酒井の「感想」の日付は5月24日なので、1941年でしょう。
 これに先立って、櫻井は1941年9月山田將棋所から「寺の庭を掃きつつ」という本も出版しています。これも印刷は將棋月報社です。酒井の「盤前漫筆」(月報1926年8月号)が収録されていますが原文と一箇所だけ違っています。


 1943年3月号
 「八ツ當り」詰棋狂
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 次に十年前の作者の重(ママ)な人達を書いて見ると酒井先生を(ママ)瀧谷、今田、田代、清水、服部、田邊等々の諸氏が腕を奮って名局を發表してくれた
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 服部は服部安光。

 酒井桂史は1943年6月に亡くなりました。

 1943年9月号
 編輯後記
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◆終りに酒井桂史先生の遺徳は次號に於て詳細に偲びたく準備中であります。氏の御蔭にて今日あるを思ひ感無量御冥福を祈るものであります

酒井桂史氏 本名新十郎
六月二十六日急逝致しました。詰棋の先覺者也、其の他は一切不明の謎の功労者
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 「詰棋めいと」には月報の追悼文がすべて紹介されています。
 これらの寄稿文に「秘密の暴露」は殆どありませんが、一部引用します。

 1943年10月号
 「酒井先生の死を悼む」櫻井蘇月
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八月三十日午前七時、北熊井の凡棋先生より葉書二枚到着、其の一葉は六月二十八日酒井桂史氏逝去の報である。
…想起すれば酒井先生と文通を始めたのは、私が青山の金八段宅に在りて「將棋の友」を編輯して居た時からである。その詰將棋に於ける天賦の方は、常に撓(たゆ)まざる創作熱の努力によつて、古人の傑作の壘を摩する逸品數ふるに遑なきほどにて、詰將棋を談ずる者必らず氏を語らざる者無し。其頃先生創作五十題を製圖したものを一冊寄贈に預かつたが今は多くの書翰と共に遺品となつてしまつたことを悲しむ。
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 凡棋先生は淺川凡棋=阿部主幹です。死亡日は篠原昇氏の研究により、6月26日であることが分かっています。


 1943年10月号
 「噫酒井桂史先生」一記者
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…從來發表したかつた先生の作品殊に王玉篇五十題は至寳とも云ふべき傑作で、故山村兎月氏と共に屢々本誌へ登載或は出版をお勸めしたのでありましたが遂に成らず。
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 同年10月号
 「追悼作品鑑賞」有馬康晴
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…筆者が月報の讀者になつた時は既に酒井氏の作品は紙上に見られなかつたのですから随分古くから登場されて居た故で恐らく天壽を全うされた事と推察して居ります。
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 有馬は酒井を相当な年配だと思っていたようです。この時有馬は36歳。39歳で亡くなりました。


 同年10月号
 「盤側閑談」東京太郎
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 要するに、大駒使用禁止の結果は、以上の如き種々の弱点を生ぜしめ、流動美を缺き固定的なものたらしめて居るが、今回第二十四題として掲げた酒井桂史氏作は、さすが大家創作だけあつて、以上の如き短所を或程度まで拂拭して、大駒ありの作品に遜色なき程の成功を得て居る。
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 これは追悼文と関係なく、8月号と10月号に小駒図式を集めて紹介した中で1931年9月号作について触れた一文です。


 同年11月号
 「噫 酒井桂史先生」杉本兼秋
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…昨秋姫路より御手紙を差上げました處しばらくして近江より御返信があり御病氣の爲數ヶ月前より轉地療養中との由承りました
…その後の御手紙ではお元氣な事とのみ想像致して居り僅かの間に急逝され様とは夢想だにして居りませんでした
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 同年11月号
 「廻覽版」
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詰棋大家酒井さんの死は實に殘念である思ふこと多くして筆進まず拙文ながら早速追悼文を書いた、その遺された詰棋を輯編(ママ)月報社に於て單行本として發行して貰ひたいものである、それには愛詰棋家の酒井さん追悼文をものせて貰ひたい、編輯は有馬さん外詰棋大家を選定して其任に當られる事
(蘇月生)
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 1944年1月号
 「新春棋話」宮本弓彦
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…大正時代から昭和初年のあの生活は今考へると空恐ろしいやうな無茶な自由さだつた。さうだ、震災前に生れたわが「將棋月報」がやがて三十代の壯年に成るのだから、時の流れはまつたく早いものだ。山村さんや酒井さんが死んだ前田さんの下手の横槍も影をひそめた。里見兄弟が詰將棋欄から遠退(とおの)いた。佐賀さんや南出さんといつた多くの少年棋客が擡頭してくる。棋人有馬さんが活躍してゐる。…
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 佐賀は佐賀聖一。図研会の作品発表、解説で活躍していました。戦死したのではないかという説がありますが(『三百人一局集』解説・村山隆治)、旧パラ1951年11月号に土屋健が「現在詰棋界を離れた佐賀聖一君」と書いています。
 南出は南出岩樹。一時第五部の選者を務めていました。『象戯手段草』に関する論考を月報に発表しています。戦後北海道で発行された「将棋時代」に関わっていたという記事をどこかで読んだ記憶がありますが…。


 1944年2月号
 「思ひ出を綴る」丸山明歩
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酒井氏に私は一方ならぬお世話と云ふより教へを受けたものだつた自分が幾分でも詰圖式として創案發表せらるゝやうになつたのも氏の厚情により學ぶ点が尠くなかつた。勿論私のみでなく讀者諸氏の中にも相當私同様の方は在られる事と信じ同時に氏の天才的の偉大さと其の苦心努力に一層の敬慕を捧ぐるものである。拙著イロハ字詰圖式を發刊後も拙圖に對して懇篤な注意を戴き訂正再刊の際にはと今も大切にお手紙を保存して居る實に本誌上否現棋界の詰棋界に高段専門家と雖へ共斷然追慫を許さなかつた酒井氏、アゝ既に此の世の人でなし、自分の手許に殘る互ひの意見や圖式の事などに往復を重ねた手紙も今は全部尊ひ氏の遺稿となつてしまつた殊に圖式を公開せらるゝ事なく逝かれたのは未發表の妙局の數々を知つて居るだけに只々惜しい氣持で一ぱいであり謹んで深い哀悼の意を表する次第である。
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おわり

2016年9月24日 (土)

盗作 その2

 「桂詰」解答募集中です。締切9月25日。


 まず、田邊氏の年齢を確認しておきましょう。氏は1912年生まれ。中学4年生は15歳ですから1927、8年頃のことだと思われます。
 その頃の月報の第一部の作品はと。
 …見当たりません。おかしいな。
 第二部も見てみなければ…(第三部は1929年4月新設なのでまだ無い)。
 …ありません。

 範囲をさらに広げて、1925年から樋口四段存命中の1931年まで、懸賞詰将棋にこだわらず調べることにしました。
 …ありました。

1928年8月号

0494

29香、14玉、26桂、23玉、33龍、同歩、12馬、同銀、35桂、同金、
22飛成、同玉、34桂、31玉、22香成
まで15手詰

 『将棋妙案』第25番のほぼ左右反転図。完全な左右反転図は見当たりませんので、これでしょう。
 見つからないはずです。第一部でもなく、二部三部でもない。
 『現代棋客詰將棋佳作集』掲載作だったのです。

『誥將玉手箱 甲』(妙案)第25番
国会図書館所蔵の岡田丈太郎寄贈本です。乙は『将棋極妙』100番。
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1928年8月号『現代棋客詰將棋佳作集』第39番
39_2

 1928年10月号解答の部には作意手順のみ。

 誰?
 「月報社中の一流」でもなければ「大家の方」でもありません。月報に登場するのはこの一局だけなのですから。

 ………(落胆)。
 人間の記憶はアテにならないものです。
 

2016年9月23日 (金)

盗作

 「桂詰」解答募集中です。締切9月25日。


 田邊重信著『私と将棋』に次のような一節があります。

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 そんなある時、将棋月報特有の第一部懸賞詰将棋欄に、誰か将棋妙案の中の一局が、左右を反対に置きかえただけで、創作図として発表されて居るのを発見したのでした。
…そこで私の此の発見は、その盗作図の発表者が月報社中の一流であったが為に、社内では相当のサワガシサがあったというものだった。
 その結果として、誰も気付かなかった盗案図を発見した田辺という新読者は一体何者か? ということになったかして、まったく突然、将棋月報社主幹阿部吉蔵先生のご来訪に接したのでした。樋口兼尊四段を帯同されて。
 兎に角、先生が驚かれたというのは、私がまだクリクリ坊主の学生だったからでした。「ホォ、貴方が田辺さんですか? よくあれを見付けましたね。読者の中には詰将棋の大家が随分居ますが、あの図が古作物だったとは誰も気付きませんでした」、といわれ、私は何だか悪いことをしてしまったような、恥ずかしいような気持で、真っ赤になったことを覚えているのです。
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 次に「詰棋めいと」第2号(1985年2月)の田邊氏の寄稿。
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 今日では、例の日野秀男氏の古作物全集が出たことでもあり大抵の方は一応古作品に目通しされていることと思いますが当時はそうは行きません。ごく一部の方きり古作物はよう知らぬ頃でしたので、こんなこともありましたね。
 それは古作物そのものズバリを大家の方が堂々と、自作として発表したというものです。あるとき私がそれを発見して、その由を月報社に知らせたものでした。どこの馬の骨とも知れぬ一読者が、社の編集部員の誰も気付かなかった大指摘をして来たのですから、これはビックリであったことと思われます。
 そんなある日、まったく突然、五十才前後と、六十才を少し越された人品卑しからぬお二人の訪問を受けたのでした。…将棋月報の阿部吉蔵主幹と樋口兼尊四段のお二人だったのでした。…
「田辺さん、あの図が古作物であることがよく解りましたね。うちの者たちも誰も気付かず、また読者の方々からも何も云って来ておりません。危うく月報の信用を失うところでした。今日はそのご挨拶にお伺いしました」ということで、私はますます恐縮したことでした。
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古図鑑版のこと。

 樋口四段は月報の嘱託棋士でした。1923年二段、1927年三段、1931年四段。1932年1月死去。享年68歳。(月報1932年2月号より)
 阿部主幹の訪問は田邊氏にとって非常に印象に残った出来事だったようで、月報にも記事があります。


 1933年6月号
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主幹來訪せらる
田邊重信

櫻花漸く開く駘蕩たる四月八日突然主幹の來訪に接しました
却説主幹と私との初對面、それは今から足掛け四年前私が中學四年の時でした
其の前日です學校から歸つてみると机上に見馴れぬ二枚の名刺があるのです、阿部吉蔵、樋口兼尊と謂ふ
…將棋を學んで茲に僅か二年、まだ駒の動きより知らぬ若輩を棋誌一方の雄將棋月報の主幹并に高段棋客樋口先生がわざわざ御尋ね下さることは其の夜は深更まで睡り得なかつた事は諸賢にも容易に御想像下さる事と思ひます、私が兩先生と御對面の挨拶をすませて對座して居つたのは翌日の午後六時頃でした、燦然と美髭を蓄へ温顔に笑をたゝへ幾分前跼みの御姿にて恰も親が子に諭すが如く御話し下さる、御見受けした所七十才前後の御方、その御方は樋口先生でおいでだつたのです、一方御見受けした所五十前後羽織袴に威儀を整へられ諄々として有益なる棋談を御聞かせ下さる、それは實に敬愛してやまざる主幹その人であつたのでした
…その主幹が今亦突然御尋ね下さつたのです…
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 樋口四段の年齢に揺れがありますが、一番の違いは最初の訪問の趣旨が書かれていないこと。これは当事者が読むことを前提に、敢えて書かなかったのでしょう。


 さて、その盗作図とは、盗作したバカタレとは。
 今明かされる驚愕の事実。
 しばし続報を待て。

つづく

2016年9月21日 (水)

酒井桂史をめぐる言説 その11

「桂詰」解答募集中です。締切9月25日。


 1938年3月号
 「詰將棋對話」まぼろし
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「現代詰將棋界の名匠、酒井桂史先生。先生の高名。(ママ)は詰將棋を作る者誰しも知つてゐる筈」
「其の通り」
「酒井先生のあの精彩に富んだ流麗高雅の作品は君仲の上位に位すべき、作品、否、宗看、看壽と共に並び稱されるべき名品であらうと僕は信ずる…」
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 これは以前2回に分けて全文紹介しました。


 1938年11月号
 「酒井先生訪問記」前田三桂
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十月十日空には一點の雲影なく、風は暖かにして、太陽は燦として輝き、絶好の秋日和であつた。午前十時半頃久方振りに雲雀丘の丘上、風光明媚なる酒井先生の邸を訪問した私が以前に訪問したのは今から十年も前の事であるから、本當に久闊である。
酒井先生の動静は誌友諸君が常に關心をもたれ、齋(ひと)しく聞知すべく熱望せらるゝ所である。私が先生を訪問した動機といふのは先生が病身のため、久しき以前から將棋と絶縁され、爾來先生の高作に接する機會を失ふに至つたのみならず、今まで作爲された幾多の名作や傑作が散佚して漂滅に歸せん事を惜しみ、之を取り纏めて一冊の書物となし月報誌上に登載して、諸君と樂みを偕にしつゝ長く後世に傳へたいといふ考へから、酒井先生と相談すべく俄に訪問したのである。
…近時誌友の間に氏の妙作を要望する聲が頻發するので、私の貯藏する所の圖を整理編輯して公開しやうと思つて、籠から取り出して調べて見ると百数十局もあつた。君は温厚な紳士で、名聞を厭ふ質の謙遜家であるから、私が獨斷で世上に發表するのは君の意志ではないかも知れぬので豫め其承諾を求めて置く必要があるから、同意を求めに行つたのであるが、容易に承諾を與へられない。
…以前は君も得意の作圖百局を選する積りであつたらしい、五十番を集めて王玉編と稱した自筆の作圖を送られた事があつた。夫れにはイロハ詰形象圖が半分程載つて居る後の半分は、龍馬篇を作つて送つて下さるつもりであつたのが、不幸病の爲に中絶したものである。
…取り出して來られた桐の箱には、自作の作品がギツシリ詰つてあるのに私は吃驚しました。無慮三四百もあるかと思はれた。
…今日の會談の結果は不成功であつたが、併し絶望ではない一縷の望みはつながれて居る。遠からず渾然玉の如き先生の傑作を江湖に示す事が出來るであらうと信じて居る…
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 雲雀丘は川辺郡西谷村にあります。以前は武庫郡住吉村にいたので、引っ越したのでしょう。前田三桂は川辺郡長尾村です。現在は旧西谷村も旧長尾村も宝塚市です。
 「王玉編」はおそらく「王玉篇」の誤りでしょう。


 1938年12月号
 「偶感雜記」蒼門寺喬
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前號の前田氏の酒井先生訪問記は結構であつた。酒井先生の近況を知る事が出來て大變嬉しく思つた。
酒井先生の作圖集が出る事は詰棋愛好家の喜び大なるものがある。
酒井圖式の出版の一日も早からん事を祈る次第である。
酒井先生の名作が集成發刊されたなら詰將棋愛好家の現代詰將棋觀は可成變つて來る事だらう。
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 1939年6月号
 「詰將棋を語る」桂子
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「現在では一年數百局の作品が發表されてゐますが、是等の中での酒井先生とか其の他の人の名作……現今の最高位に位する作品と、享保の看壽とか宗看の作品との比較ですが……是れは今迄もしばしば論じられて來たものですが現代の作品、古作に劣らずと云ふ説や反對の説がありますが、果してどんなものでせうか」
「古今を通じての作品の中一番名作と云へば何と云つても看壽の圖巧九十九番の煙詰でせう、あの作圖に比肩する名作は他に無いと思はれます、あの作圖は、全部が作者の偉大なる構想によつて一貫してゐるのです。藝術の遊技とも云ふべき作品と思ひます。百番の六百十一手のものは古今最長手順として有名ではあるが、價値の上からは九十九番には劣るでせう、現今には是れと比肩するものは見當らない様に思はれます。宗看のは傑出したものは無く一定の水準作が揃つてゐる様ですが、百局あれだけの名作を揃へ様とすれば現在では先づ不可能でせう。
看壽の九十九番、百番を除いたもの、宗看の百番と現在の名作を數からでなく價値から比較すると優劣は如何とも云ひ難いと思はれます、現在と云つても是は大正昭和と云ふべきです、明治以後の詰將棋と云へばそれは殆んど酒井先生の作圖が代表してゐるので、近頃の様に酒井先生其の他今田、田代氏の作圖の發表が無いと詰將棋界は活氣が無いのです」
酒井先生は創作よりは遠がつて(ママ)ゐられる様ですが…」
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 1941年6月号
 「現代作圖論」杉本兼秋
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構成型作圖は享保の昔宗看看壽の天才に依つて既に其の構想を使ひ盡くされたの感があるがよく沈思考慮する時未だ未だ新分野のある事を發見する。然し此の種の作圖は其の構想が困難であると共に餘詰防止の點での努力は實戰型作圖の比でない。
この作圖の創作が一部の作家に限られてゐるのも又創作の困難からと云ふ事は解るが酒井田代今田等の諸代(ママ)の作圖に接し得ない今日殆んど是等構成型作圖を見る期(ママ)會がない。
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 1942年4月号
 「誌友前田三桂君を訪ふ」宮本弓彦
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兵庫縣川邊郡には酒井、前田の兩氏が住むとかねて承はつてゐる。
面白やいろとりどりの花椿。酒井新十郎詰手王酒井桂史氏が、面白やいろとりどりの花椿と十七文字で讀後感を述べておられる。櫻井蘇月二段の將棋随筆をまだお讀みでない方は是非お讀み下さい…
川邊郡の酒井、前田の兩君を訪ねやうと思つて、棋友上杉敏夫氏の先導をお希ひし雲雀ヶ丘の一つ確か手前で降りて…
…私に酒井桂史氏と會ふ紹介の勞をとつてくださつたのは外ならぬ前田三桂氏です「東京から宮本弓彦といふ將棋の好きな人が來たからお會ひになつたらどうです」と私の眼前で酒井桂史さんに通じてくれたのである。
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 このあとは前田三桂の話ばかりで、酒井桂史に会ったのかどうかも分かりません。
 櫻井二段の將棋随筆とは櫻井蘇月の『寺の庭を掃きつつ』(1941年9月・山田將棋所)を指しています。


 1942年8月号
 「月報主幹の顯彰を提唱す」田邊重信
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 實際、一箇の月報誌が存在致しましたが爲に果して如何なる貢献が具体化されたでありませうか、先年前田三桂先生に依り連月誌上に説破されましたる棋士の後段制の提案にして、遂に將棋大成會の採擇する處となりましたる如き、今田政一氏を、いだして「將棋龍光」をのこし、丸山正爲氏を助けて「イロハ字詰」の梓を起しましたるが如き、松井雪山氏、山村金五郎氏、酒井桂史氏等々あまたの偉材をして天下にあまねくその存在を明かならしめたるが如きはその極く一少部分でありませう。
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 1942年10月号
 「銀ずらし問答」有馬
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前號發表の自作に對し内藤、富川兩氏より御高評を頂いたので次に掲載しました。

自作「銀千鳥」修正圖

3524

15銀打、25玉、26銀打、16玉、17銀打、27玉、28銀、16玉、17銀引、25玉、
26銀引、14玉、15銀引、23玉、24銀、14玉、15銀上、25玉、26銀上、16玉、
17銀上、27玉、29飛、同成桂、28歩、同成桂、同銀、16玉、17銀上、27玉、
39桂、同飛生、28銀、16玉、17銀引、25玉、26銀引、14玉、15銀引、23玉、
24歩、32玉、42歩成、同香、54角、43歩、23歩成、同玉、24銀、14玉、
15銀上、25玉、26銀上、16玉、27銀
まで55手詰

内藤氏曰く「…本局は酒井氏、今田氏に次ぐ名作にして氏としては近來の大作でした…」
宮「兎月氏の編みし作集(ママ)九十七番に桂史作千鳥銀とありたり」
作「田代武雄(内藤)氏編、第一部集百番第九十七番の酒井桂史氏作の兎月先生の評に『本局初盤千鳥銀捨てと行く處妙味津々たり……』とあるけれど。之は作品の名前ではなく又内容も銀ズラシとは全然關係のないものですから内藤氏の云はれる酒井氏の作は他にある筈です」
内藤氏「お尋ねの酒井氏の作と云ふ意味は酒井氏級の作であると云ふ意味で内容の感ぢ(ママ)が似てゐると云ふ意味です」
作「其の後色々酒井氏の圖式を物色しましたが今田氏のと形の似たのは一つ有りましたが手筋は全然違つたもので遂に見出すことが出來ませんでした…」
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※原文に詰手順無し。動く将棋盤はここにあります。

 富川は富川甚七郎、宮本弓彦の筆名です。途中で「宮」になっています。「宮」の「兎月氏の編みし作集九十七番に桂史作千鳥銀とありたり」は「現代棋客詰將棋佳作集」と混同しているようで、これは第一部集(月報1937年2月号)です。

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 1942年10月号
 「前田三桂先生訪問記」片山正敏
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酒井桂史氏の「王玉篇」は、五十局詰將棋が載つて居たが、圖面は一々ペンで引いてあつたが、判と間違ふ位美しかつた。三桂先生が「酒井さんは作つたら私の所へ送つて來るが、今度快心の作六十局送つて來たが、私もわからんのがチヨイチヨイありますよ」。あの人は難しいのを作られるからねと言はれた。
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 60局?! それはどこに行ったのでしょうか。


 1942年11月号
 「詰將棋ひと昔」岩木錦太郎
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 扨て次は詰將棋方面だが、名人酒井先生は其の頃盛んに名作を寄せられ、我等をして三昧境に遊ばしたものだ。
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 1943年2月号
 「廻覽版」柴田龍彦
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酒井先生快心作六十局誌上御發表御願ひ致します
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 同感!

2016年9月20日 (火)

酒井桂史をめぐる言説 その10

「桂詰」解答募集中です。締切9月25日。


 1931年の発表作は16局(既発表作の9月号特別懸賞を除く)、32年は7局(既発表2局除く)、33年は1局、34年は6局、35年は2局。35年1月号作は「將棋新誌」1925年8月号作に序奏をつけたもの、2月号作はあぶり出し曲詰「ム」で、これは『王玉篇』にあった作品を山村兎月が誤って掲載してしまったものと思われます。
 これ以後の酒井自身による発表作はありませんが、43年に有馬康晴によって紹介された2局があります。


 1934年1月号
 「詰將棋三部集百番」

 「本書は月報詰將棋第三部開始以來五ケ年、此の期間中三十一名より寄稿された、貳百數拾題より佳作と認めるもの百題を選み登載したものである」とあります。巻頭を飾る第一番は酒井作49手詰(1931年9月号)です。これも含めて、酒井作は3局入っていいます。

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 1935年8月号
 「初めて月報を見て」蒐集狂生
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A作家としては酒井先生が第一だね
B酒井先生は前に將棋の國や新誌を借讀した時作圖を見たが妙局が多いと思ふたよ
B難解其の他の点からして第三位か第四位は降るまいと思ふね、最近の作家では右に出るものはないね、聞けば僕等と同年輩位だそ(ママ)うではないか、前田先生の様にどしどし書いてくれると良いんだが儘ならんものだね
Aこれは僕一人の考へだが第一宗看圖式第二圖巧第三酒井圖式第四九代宗桂圖式……等の順位を附けたいね
B最近では酒井先生の天馬空行、奥坂先生の豊秋等妙作があるね
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 冒頭に「僕が月報を讀み初めたのは本年一月からです」とありますが、かなり知識のある人です。誰なのでしょうか。1936年8月号から九代宗桂図式の紹介を始めています。
 1943年3月号から将棋妙案の解説を始めた蒐集生と名乗る人がいますが、こちらは「月報を師友とし得てから十六年」とあるので、別人のようです。
 11頁にわたる対話形式の記事ですが、関係のある所だけ。蒐集狂生の投稿文全体は何と35頁もあるのです。後半24頁分には「僕の所持する古局ですが好局と思ふのも澤さんあるのですが殘念な事に作者不詳なのです 月報の隅にでも登載させて戴いて作者名の御示教御願致したいのです」として『象戯綱目』から47局掲載されています。


 1936年2月
 「何や彼や」詰棋狂
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田代、里見、田邊、津田、吉田、日下、杉本等々諸氏の作圖が目に附く、淋しいのは酒井御大の出題が不足な事だ。十一年度一題、十三年度二題(十年、十二年は多いから書かぬ方が自分には便利だ)なんと淋しいではないか兒童が教師にあたゑ(ママ)る様に自分の我儘を許してくれるならば一ヶ年五題以上出題して下さい(少し我儘の度が過ぎるかな)
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 十一年度とは1933年のこと。月報の初年度を1923年と見ての表記ですが、これは正しいと思われます。(「詰棋めいと」第23号11頁中段・湯村光造「『将棋月報』で辿る戦前の詰棋界(一)」)
 ちなみにこの人は月報評に続いて、1926年1月から1935年12月までの発表数(第一部~第三部に限る)による「作圖家番附」(不完全作数も併記)や同期間の「解答者二十傑表」を披露しています。統計魔のようです。酒井桂史は「作圖家番附」の行司になっていて、38局発表、不完全作7となっています。
 私の調べたところでは、この期間の月報発表作は44局です。当然ながら条件に合わない佳作集1局、特別懸賞1局は外していますが、発見した取消不明作3局は数に入れています。



 1936年6月号
 「詰棋漫談」棋遊閑人
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詰圖出題者に酒井桂史氏の名の見られないのは言ひ得ない寂寥を感じます、獨得の趣向を取り入れ新鮮味躍動する同氏の名局は詰將棋黨の渇仰するものであらうと思ひます、毎月の出題は聞き入れて貰へないまでも未發表のものあらば逐次出題願ひ度くこれは自分一人の希望ではなく、詰棋黨全体の聲と思ひますから社の方でも是非之が實現に御努力を御願ひしたいと思います…
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 1936年7月号
 「思ひ出すまゝ」蘇月生
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大正十五年金八段が雜誌を創刊するに際し私は編輯人として金八段宅に寄寓する事になり「將棋の友」の發展に努力したが一年と續かず遂に廃刊して棋界に大なる貢献を寄與するに至らざりしも前田三桂氏と酒井桂史氏とを世に紹介し得たるを今でも誇りとしてゐる、或る時桂史氏から一封の書状到着披見すると十圓の爲替券同封しあり社の經費として使用して貰ひたいとの御厚志であつたが堅く誌上へ書く事を御斷りの言葉が添へてあつたので、當時御禮状のみ差上げて今日に及んだが今茲に發表したとて氏の御叱りも蒙るまいと思ひ、當時の御厚情を改めて感謝致します…
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 1937年1月2月号
 「詰將棋第一部集(上巻)」

 田代武雄による編集。酒井作は14局あります。「現代棋客詰將棋佳作集」との重複はありません。今田政一作は8局。
 酒井作の2局は左右反転されています。
 「終りに一言したいのは圖中なるべく王を對照(例第一圖一一玉第二圖九九玉)するので、圖式に幾分修正を加へたり、或は初手の數手を改作せし局二三あり、謹んで作者にお詫いたすと共に御寛恕の程を願上げます」というわけで、左右ひっくり返っているようです。感心しませんが。


 1937年1月号
 「現代名家圖譜考檢(新題)」

2248

71飛、72龍、同飛成、67玉、76龍、同玉、71飛、72飛、87金、67玉、
56銀、同玉、51飛生、同金、48桂、同と、45角、同玉、46金、34玉、
23銀生、同玉、22桂成、同飛、13角成、同玉、15香、24玉、35銀、23玉、
13香成、32玉、22成香、41玉、31飛、52玉、53歩、62玉、51飛成、同玉、
52金
まで41手詰


田邊重治
先頃發刊を見たる月報第一部集に於ても師の作に成るすべてこれ妙算也。宜しく模してわれらが範とすべきのみ。
本局七一飛打に對する七二龍、正に剽悍決死なり、次手直に八七金とせば後來一三角成同龍となりて不詰となる。

蒐集生曰 横綱の圖はやはり横綱であると思ふ(今月の出題中)然し氏の作品としてはさして難解ではないと思ふ。山とも云ふべきは七二(ママ)龍七二飛合の處と思ふ。
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 これは「將棋新誌」1926年8月号の傑作。ここにもあります。
 「現代名家圖譜考檢」は田邊重信の出題ですが、そもそもの趣旨はというと月報1936年4月号の記事

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…今日新聞雜誌に發表された所謂現代棋客の詰物を見たいものであると云ふ話が出た自分もかねがね然りといふ考へであつたので、早速誌友諸兄と共に之が研究をしてみる氣になつた譯である中にも既發表の圖を今更研究した所が仕方がないと云ふ方もあると思ふ、亦中には自分の家では東日より取つてないので土居八段の詰物は觀られるが他紙の物は一向にわからぬ、他のものも古くてもよいからみるだけもみたいものであると云ふ誌友も確にある事と思ふ
自分も此の後者の方々と共に研究してみたいと思つて居る次第である、自分として果してどこ迄やつてゆけるか今の所見通しも自信もない、成績は懸つて諸兄の御解答いかんにあるわけであるからして成可く多くの方より御同情ある答解(ママ)をよせられん事を御願ひする次第です
自分の出題竝に御解答下さるとの要用としては
一、諸紙に何某出題とあるも、總て何某作とみなして本誌に發表
一、餘詰早詰等の發見いかんに關せず正解は一題一点
一、發表圖式にして古作物の引用等なりし時之を誤指摘下さつた方には増点一点
一、一ヶ年の總得点最高の方には「氏名入り優勝カツプ」を私より贈呈します
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というものでした。1937年12月号までに全部で90題の出題があったそうですが、同氏の『私と将棋』には50題が抜萃されています。「棋界の大御所土居八段は人も知る軽妙の指手。然るを以てが亦よく古圖を剽窃するに軽妙也。切に同八段の覺醒を待つや切なり」とは手厳しい。
 こと本来の趣旨と違って、詰将棋版の下手の横槍の様相を呈したのですが、なぜ酒井作を圖譜考檢に出したのか不思議です。


 1937年3月号
 「思ひ出すまゝ」蘇月生
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…酒井君より寄贈された五十番の自作詰將棋筆寫本を更に調べ直してみたいと思ひながら本箱に秘藏したまゝである、氏の作品を看ると四十の駒悉く盤上に活躍し龍狂って雨を呼び虎吼えて風を生ずる變化極まり無き其傑作を鑑賞すれば其奇手妙計に思はず感嘆の聲を放つ時あり、詰め得たる後の快感は杖を頼りに喘ぎ苦しみ山の頂上に登り得たる時の愉快にも比すべし、猶氏の作品は最初の一手を選ぶに當り容易に手を下すこと能はず素人が鰻を捕へるにも似て摑んだと思へば逃げられるが如く其第一着手の發見に頗る苦心するが、詰物は總て最初の一手が容易く解るやうでは興味が薄く又詰物として此れは缺く可からざる必須の條件ではあるまいかと思ふ、猶その一小品を試みても數手に妙想湧くが如きもの尠なからず、恰も巧みに作られたる盆景を眺むるが如き面白さあり、氏の如きは實に我詰棋界の至寳と謂ふべきである…

2016年9月19日 (月)

酒井桂史をめぐる言説 その9

「桂詰」解答募集中です。締切9月25日。


 1931年4月号 懸賞詰将棋解説欄
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酒井先生御宅へ目下大病人ある由、先生作圖は今月號に限り一回丈け休載致します悪からず諒されよ
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 この年は3月号の後4月号が抜けただけで、12月号まで毎月発表しています。


 1931年9月号 清水清
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…尚詰棋界の權威酒井桂史氏の毎號の御出題月報に取つて此の上もない喜ばしいことゝ思ひます
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 1931年9月号 第三部

1094

41桂成、同玉、49香、51玉、42香成、61玉、52成香、71玉、62成香、81玉、
72銀、91玉、81金、同金、同銀成、同玉、72成香、同玉、83歩成、61玉、
72と、51玉、62と、41玉、52と、31玉、42と、21玉、32銀、11玉、
21金、同金、同銀成、同玉、32と、同玉、23歩成、41玉、32と、51玉、
42と、61玉、52と、71玉、62と、同玉、63金、51玉、52金打
まで49手詰


 解説10月号 丸山明歩(正爲)

本局は酒井先生の妙作駒配置の面白きのみならず居城を出で兩雪隠を廻り居城で詰むの趣向興味湧くが如くであります

田中氏曰く 桂成に依て香打を作り成香とと金の活躍にて玉を時計の振子の如く左右に振廻し結局元の鞘に納まり終る處面白し
駒數少なきに手數五十手に近く作者酒井先生獨特の妙棋と敬服の外ありません

鶴田氏曰く 珍らしき駒配置玄妙なる手順全く棋の境地に遊ぶの感がありました、巧妙なる名作只々敬服の外ありません

宮坂氏曰く 本局は四一桂成にて捨にて玉頭を開き香打にて兩方共袖下迄玉を追込み火花を散らしての終局は角力の大關にでも勝つたやうな氣持が致しました

木村氏曰く 成香とと金で王將を往復させる邊、將に千兩只々妙作との一言につきる

佐々布氏曰く 三部始まつて以來の最長手數確かに二部程度の難局です、曲詰としても斯様に五筋を中心に同様な詰方が二通りあるも一面興味津々たるを覺へ(ママ)ます

花木氏曰く 作者の苦心を感服の外ありません

河野氏曰く 酒井先生の御作の由是でも詰手があるかと思ひました、實に面白いものです金銀を懐中にして成香とと金の膝栗毛一幅の名畫のやうです
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 出題図には作者名がないのに解答者がなぜ酒井作と知っているかというと、9月号に「選者より 本圖及び第五十二番は詰棋界の權威酒井先生が本欄の爲め特に御創作を願ひしもの毎號出題します」と書いていたからです。
 しかし、7月2局、8月2局、9月号に本局、10月号(取消不明作)に発表しただけで、その後は第三部への登場はありませんでした。


 1933年8月号
 詰將棋大全集
 「ことば」酒井桂史
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初代宗桂作「將棋力草」より「將棋玄奥」に至る全二十一巻の上梓---これが詰將棋大全集刊行のプランださうである。誠に近來の快擧といふの外なく、我々詰將棋黨は其完成の一日も速かならん事を希ふのみである。
從來此種の企ての試みられた事は二三に止まらなかつたがいつも龍頭蛇尾に終るを常とした。これは此種書籍の讀者數が或少數範圍内に限定せられ、利得よりも損失の機會が多く加ふるに起畫者に利益を度外視する程の氣魄が欠けてゐたに因るものと推定する。然るに今回は然らず、岩木氏等の目的が斯界に貢献せん一念に在り、利損を無視し、如何なる障礙をも打破して通る底(ママ)の熱心さを持たるゝのであるから、此の難事業も案外易々と爲しとげらるゝのではないかと私かに思つてゐる次第である。
詰將棋圖式上梓には技術上特種の熟練を要し、而も校正の嚴密を必要とする事、他に其比を見ない一歩の脱落、一香の逆倒すらも圖式の生命を全然無にして了ふ。かゝる誤脱は作者に對する大なる非禮であり、併せて讀者に對する大なる非禮でもある。詰棋に造詣深き岩木氏等はこんな事は一日も二日もズント御承知であるから、萬に一つの誤も無き事と確信する。從來發行の詰棋書を見る毎に覺ゆる不快感から。(ママ)今度こそは完全に解放して頂き度いと呉々も希望するものである。
以上ほんの一言管見を記述した。
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「諸名家の言葉」として前田三桂、酒井、高橋與三郎、熊田藏之(岩木・小林氏の友人?)、丸山明歩の順に推薦の言葉が並んでいます。
 この試みは、「百部以上を刷らなければ算盤が取れ」ないところ、「我々は最少三十の時には後の部數は負擔しても宜しいと思つて居た」が申込者「十名内外」に終わり、大欠損のため断念せざるを得ない結果となり、第一回の『將棋妙案』を配本したのみでした。第二回は『將棋舞玉』が予定されていました。
 この『將棋妙案』は100部くらい刷ったのか、1934年5月号と6月号、9月号に広告が掲載されていました。

Photo_2

2016年9月18日 (日)

桂詰

 月報1925年12月号の懸賞詰将棋欄に掲載されていた図です。

Photo

 その後の月報を調べましたが、解答はありませんでした。
 桂を詰めよという問題なのでしょうが、果たして…。
 分かった! という人はコメント欄に書くか(非表示にします)、
botanmn@gmail.com へ。
 秀逸な解答には賞品を用意しています。最大5人分。所持している
僅かな詰棋書の中からいらないもの価値のあるものを差し上げます。(ショボイのもある)
 詰まないとかの解答は不可です。
 優秀解答が多い時は適宜抽選します。
 締切は9月25日です。

※コメントやメールをいただいた方へ(9月18日19時30分記)
いちいち返事は差し上げませんが、ご了承下さい。
ちゃんと見ておりますので。
なお、解答及びご芳名(ペンネームの方はそのまま)については公開させていただきますので、アカンという方はお知らせ下さい。

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