カテゴリー「「将棋月報」関連」の27件の記事

2017年3月26日 (日)

編輯後記

 月報の「編輯後記」は毎月掲載されていたわけではないが、当時の社会と月報をめぐる環境が窺われて興味深い。
 1925年3月号などはその最たるものである。

---
□二月は余りに淋しいことの多い月でありました、それもこれも不景氣の影響とはいひながら斯うも物質が人間の精神を左右するものかと思ふて底知れぬ悲しみに打たれました、現代の社會にマルクスの思想が延蔓(ママ)しつゝあることは不思議の現象ではありませぬ。
□本誌の經営は非常に困難で毎月多大の欠損をしてゐることは屢々申上げたことでございますが一向に御同情下さる方が少く僅か一ヶ月二十錢や廿五錢の誌代さへも拂込んで下さらぬ方の澤山あるには閉口です。
□一年も二年も送本してゐるのに一錢の送金もせず集金郵便を百出せば八十迄は不拂で戻つて來る有様です、この儘で行けば當然破綻の悲運を見るより外ありませぬ、愚痴ぽい話ですが申さずに居られない状態を御推察下さい。
□私(露秋)が甲府に行つたとき要件の序に誌代を集金したことがあります、その節×××××といふ人は幾らにマケルかといふやうな事を申しました、商人といふものはそんなこと位いふのは普通のことでせうけれ共、愚直な私には腹が立つて涙さへ出るやうな思ひでした。
□三月、四月といへば大抵の國は花の咲く氣候です、陰鬱な冬を過ごして華やかな春を迎へるやうに本誌も現在の窮境を脱して軈(やが)て華やかな盛況の時代に到達することもありませう、それは偏へに讀者諸君の御力です。
□今月號は聊か頁數は少いやうですけれども内容は充實してゐると思ひます。(露)
讀者の中には不徳義な人があります、一昨年五月から送本して居るのに無料だと思ふて居たが有料ならお斷りだとか三十錢を拂込んで二ヶ年餘の誌代を拂はぬ人は足利市の××××や宮崎縣の×××××群馬縣の×××××など本月定まつたのが二百幾人八ヶ月以上の只讀したのは東京府下の×××××や山形縣の者で百幾十人もありました。
---



 月報にマルクスが出てきたのは驚いた。
 この当時の誌代は25銭である。×××××は実名だが、差し障りがあるかも知れないので伏せ字にした。
 「余りに淋しいこと」が何をさしたものか判然としない。露秋は阿部露秋で、主筆という役職であったらしい(1925年1月号の名刺広告による)。阿部主幹とは別人。
 これに先立つ1924年12月号の「訪問旅行記」(編輯後記ではない)には「一昨年より昨年にかけ毎月百圓以上の欠損」があったと記されている。

2017年1月26日 (木)

「將棋月報」とプロ棋士

「失禮御免へたの横槍」始まる
 昭和3年6月号から前田三桂の「失禮御免へたの横槍」が始まる。これは当時の高段棋士の指し将棋で終盤即詰があるのに詰めなかった棋譜を示して横槍を入れてプロ棋士の詰に対する甘さを指摘したもので、その歯に衣を着せぬ論鋒に読者からは拍手喝采を浴びたが、プロ棋士からは当然ながら快く思われず、月報から離れる棋士が多かった」
湯村光造氏「『将棋月報』で辿る戦前の詰将棋界」1998/11「詰棋めいと」

 「將棋月報」とプロ棋士とは当初良好な関係にあったにもかかわらず、前田三桂の「へたの横槍」による執拗な詰抜け指摘によって離れていったというのは事実だったのでしょうか。

月報1931年5月号
「失禮御免へたの横槍」(三五)
前田三桂
---
ヘタの横槍が一時三歩居士からイヂメられて、随分手嚴しい攻撃を受けた
が、今では却て世人の注目を引き、大に歓迎せらるゝやうになつて來た。而して居士はモウ到底横槍の撃退を不可能と思つたのか、名刀を揮ふ事も斷念したらしい。其代りに爰に又陰儉なる勁敵が現はれて來た。其敵は堂々と誌上で爭ふといふ勇氣のある奴ではなく、蛇の如く執念くコソコソと蔭にあつて月報に迫害を加へんとするのであるソウナ
ヘタの横槍は正義の爲に揮ふのであるから、謂はれなき迫害が加へらるゝならば、其加へらるゝに反比例して益々峻烈に猛撃を加へてやるまでである。
玄人の将棋指し共は、其弟子達を戒めて月報を見るなと注意をする。毎々横槍に醜態を暴露されるのを愧づるが爲ではあるが、誠に智慧のない禁制である。
由来見るナと言ふほど見たがるのが人情である。此人心を利用して能く新聞雜誌等に男讀むべからずとか、或は女見るべからずの廣告が出て居る。スルト男なり女なりが貪り讀むものである。
師匠が見るなと排斥する横槍は、弟子達が殘らず讀んで知つて居るのである。否々師匠自身がコツソリ讀んでフンガイして居るのである。
夫れが證據に月報の御得意塲は、聯盟棋士のお膝元の東京が第一で、年々讀者は殖えて行くとのことである。
聯盟棋士の或る者が月報を仇敵の如く心得、常に之に壓迫を加へんとして居るのは事實である。而して是が今に始まつたのではなく随分久しい以前からの事である。
大正十四年十一月二十一日麹町區平河町關根名人方に於て聯盟會臨時總會が開催せられた、其席上で、信州松本市で發刊される「將棋月報」に土居聯盟會長の一身上に關し誹謗に類する記事あるに付き、東京將棋聯盟の決議を以て、之に戒告を與へ、若し其態度を改めざれば、將來聯盟加入の専門棋士は、一切同誌に寄稿しないことにしやうとの提議があつたのである。此會議の詳細は當時發行せられて居た金八段主宰の將棋の國なる雜誌上に明記せられて居る。
此問題が提起せられてから後間も無く各地方の棋士にまで手を延ばして専門棋士の月報への投稿を阻止したのである。月報誌上専門棋士の跡を絶ち、純然たる素人雜誌になつたのは是が爲である。

三歩居士の「名刀の切れ味」は、「へたの横槍」に対抗して、高段棋士の妙手を賞揚する内容でしたが、実はこれも前田の筆によるものでした。
---

 「へたの横槍」は1928年6月に始まり1933年8月までほとんど毎月掲載されていったん終了。1934年5月から再開され1943年7月までは断続的に掲載されました。ざっと数えたところ120回以上です。1933年8月までにどんな棋士が槍玉に挙げられたのか調べてみましたが、最も多かったのは溝呂木光治七段で10局以上ありました。次に多かったのが金子金五郎八段です。土居、花田、木村は二三局程度でした。大正時代の棋譜にまで遡って実戦の詰抜けを指摘されるだけでなく、著書に掲載した詰将棋にも余詰ありとして槍玉に挙げられてはたまったものではありません。

 前田三桂の書くところによれば、月報創刊以前の「道樂世界」から既に問題視されていて「各地方の棋士にまで手を延ばして専門棋士の月報への投稿を阻止」したとあります。
 ところが調べてみると、大阪号主幹だった木見金治郎八段は1928年12月まで定跡講義を掲載していますし、花田は1926年7月号まで、木村も1926年9月まで断続的に講義がありますが、月報創刊から2年近く経っています。「地方棋士」の時田慶三郎六段(中京)は1930年あたりは毎月、最終1936年4月まで寄稿していました。
 してみれば、前田三桂の言い分はかなり怪しいといわざるを得ません。

王将1954年5月号
「失禮御免へたの横槍」
前田三桂
---
 そもそも俺の横槍の由来と言うは、始め俺は名人上手達を将棋の神の様に崇拝し、その指手は一手一手を絶対至上動かすべからざるものと信じ切っていた。しかるに偶然花田七段対大崎七段の将棋に花田が詰を落しているのに出会った。俺はトンボの眼玉のようにクリクリと動かして吃驚した。花田七段は詰将棋の大家だ。もしか俺の錯覚かも知れんと、入念に棋譜を調べたが、俺の指した手はどこにも狂いはない。ナンダ神様も只の人間だね。では外の七段八段連中の棋譜も調べてやろうとその頃は棋譜は山ほど集めていたから朝から晩まで飯を食うのも忘れ、俺の狭い橘仙居に閉じこもり調べに調べて夜を徹する事もあった。出てくる出てくるソラ出た。又出た。パラッと出たという工合に伏死累々、惨状眼も当てられぬばかりであった。是を塩漬にして独り楽しむのは勿体無いと、月報へ登載し始めたから、サァ大変、芋畠へ野分きが吹き込んで来たように、東都棋壇は動揺して噪ぎ出した。そして俺の将棋の神様の崇拝熱も信仰心も、シャボン玉のようにフワフワと宙に浮いてスーッと音もなく消えてしまった。
 その頃東都棋壇の牛耳を執って居るものは土居八段でその声望は関根名人を圧して居た。土居は月報の行動を束縛せんとし月報誌上に定跡講義を載せる棋士に回章を廻して、投書をしてはならぬと厳命したとの噂が立った。その結果か花田や木見や木村等の高段の定跡講義が一斉に尻切れトンボとなって中絶してしまった。
 定跡講義が載せられなければ、将棋雑誌はこの致命傷のために自滅するより外はない。月報の読者は憤慨して月報擁護のために起ち上り、それぞれ得意の部署に付いて奮斗した。
 月報は東都棋士の迫害に逢い、孤立無援におちいったが、よく堪えて廃刊しなかった。どうした訳か却って東京でよく売れた。読むなと言うほど読みたがるのは人の情で、逆作用をなしたらしい。しかして月報は純詰将棋雑誌になった。月報は詰将棋鼓吹に力瘤を入れて次々に読者の詰図を発行した。このため詰将棋熱が素人間に燎原の火のように炎え拡がり詰将棋愛好家は翕然として月報の傘下に集ってきた。月報は倒れる所か却って隆盛になって、定跡講義はなくても、詰将棋雑誌として自立して行けるようになった。
---

 花田、大崎戦が連載第一回目の横槍です。
 これは戦後になってからの文章ですが、「花田や木見や木村等の高段の定跡講義が一斉に尻切れトンボとなって中絶してしまった」のは上述したように、「へたの横槍」の連載が始まってから中絶したのではなく、花田、木村はそれ以前に終わっていましたし、木見はそれ以後も連載していました。前田じしんが月報に書いたものとは違う内容になっています。
 ただし、土居八段の詰将棋は剽窃ぶりが読者からも再三批判を浴びていましたので、恨みを買っていたのは確かでしょう。

 何事も鵜呑みにしてはいけませんね。

---
2017年1月28日追記

 その後気がついたことを付け加えておきます。
 まず、1931年5月号の記事において、1925年11月、「聯盟會臨時總會が開催せられた、其席上で」月報に対する「提議」がなされたとありますが、決議するに至ったとは思われないこと。木見八段(当時、坂田八段派とは別個の、大阪の棋正会の首領でした。1926年には東京將棋聯盟と合流して日本將棋聯盟創立。木見は関西支部長に就任)や時田六段に対し「各地方の棋士にまで手を延ばして専門棋士の月報への投稿を阻止した」という事実があったのか疑わしい限りです。
 一方、「へたの横槍」の連載開始後の、1929年の年賀広告には、前年まであった土居、花田、木村の名前は消えています。一定の影響はあったのでしょう。關根、木見、時田は後々まで月報に年賀広告を出しています。
 月報1931年4月号では朝日新聞主催の松本市での将棋大会を大きく報じており、土居、木村など「日本將棋聯盟全員来松」という見出しになっているところから、月報社の側からプロ棋士を誌面から閉め出したということではなかったと思われますし、1934年5月号には大崎八段や金八段が執筆していた「将棋時代」の広告が掲載されており、曰く「『将棋時代』は飽まで研究的であり専門的である、『將棋月報』は批判的で、自由性に富んでゐる。(中略)この異なつた二つの雜誌は異なつてゐるが故に、各々の存在理由があると思ふ」と月報を立てながら宣伝に努めているところなど見ると、月報とプロ棋士の対立なるものは、前田三桂によって面白おかしく仕立てられた話のような印象を受けます。

2016年12月25日 (日)

將棋の比喩

 「將棋月報」1940年10月号に、「將棋の比喩」と題してソシュールの『一般言語学講義』が紹介されていたのには驚きました。大哲巳太郎という人の記事ですが、何者なのでしょうか。
 かつて大流行した構造主義を後追いでとりあえず知っておこうと思って入門書の類を買った記憶がありますが、さっぱり分かりませんでした。(笑)
 大哲は1939年5月「詰將棋拾遺」(詰棋欄出題作に対する山村兎月解説の誤りを衝いたもの)で月報に初登場。何度か記事を書いている論客で、作品は発表していないようです。蒐集家だったと見えて、1940年1月号の「昭和十四年度詰將棋界回顧」では前年に発行された新聞、雑誌に掲載された詰将棋作品数を細かく調べ上げています。これによると月報は88局、「將棋日本」は35局、「將棋世界」は32局(いずれも愛棋家作品の数)となっています。

 最近必要に迫られて一讀したものにソシユール原著、小林英夫氏譯『言語學原論』(昭和十五年三月岩波書店發行)がある。
 原著者フエルヂナン・ド・ソシユールは一八五七年ジユーネーヴに生れ、一九一三年にその比較的短い生涯を終るまで、郷里の大學に於て、比較言語學及び梵語學を講じて居た。没後その講義の草案と學生の筆記とを照合して編纂されたのが本書である
 本書は譯者の序に「一般入門書の如く常識の涵養を目差したものではなくして、著者が生涯をあげての沈潜熟思の結晶なのであるから、不用意な通讀によつて理解されうる如き書物ではない。と斷つてある様に、深遠難解を以て解せられ、精緻な理解力を用意してとりかからねばならぬ程、暗示的なまた象徴的な表現をとつて居るものであるが、併し、随所に剴切な比喩形容を挿入して讀者の理解力を援助して呉れるので、知らず知らずに讀まされてしまふ。就中、得意な比喩は將棋の駒の形容であるが、將棋に關する比喩を數個所に見受けたので、次に書きとめて置くことにする。

 『言語學原論』とありますが、これが最初の邦訳書名(1928年岡書院、原書は1916年)で、世界で初めての外国語訳でした。岩波は岡書院から版権を取得したのですが、現在の岩波版は1972年の改訳です。ソシュールと言えば、時枝誠記による批判を思い出しますが、時枝と小林は京城帝国大学の同僚でした。
 出版されたものは、編者によって恣意的に配列が変えられたり意見が差し挟まれたりして、実際の講義に忠実ではなかったことが明らかになっています。

 著者は、『言語の内的要素と外的要素』の一節に於て「言語に關する我々の定義は、我々が凡そ言語の組織、体系に關係なきもの、一言にしていへば『外的言語學の名稱をもつて示しうるものを惡(ママ=悉の誤字)く斥けることを豫定してゐる。と述べて併しこの外的言語を重要な事物を扱ふものであつて、言語活動の研究に著(ママ=着の誤字)手するに當り先づ想到するものは主として之であるとして、外的言語學に於ては、言語學が民族學や政治史に接觸する方面を考へるものであることに言及した後、「内的言語學にあつては、之と全く事情を異にする。それはいかなる手加減をも許さない。言語はその固有の秩序しか知らぬ体系である。」として、更に兩者の區別を明瞭に理解させるために、將棋を引用して居る。
 即ち將棋に於ては、「外的なものと内的なものとを見分けることが、比較的容易である、ペルシヤからヨーロツパに渡つたといふことは、外的事實である、之に反して体系及び規則に關することはすべて内的事實である。いま私が木製の駒を象牙の駒に変へたとしても、体系には毫末の變化も與へない(これは外的方面に就いての比喩である。)然るに駒の數を増減するときは、將棋の『文法』を根底から覆へすであらう(これは内的方面に就いての比喩である。)」(本書三六頁=38頁。尚ほ括弧内は筆者補足)と説明して呉れる。
 更に、斯様に將棋を説明の用に供して、讀者の行きづまりを展開させ、緊張した氣持をほご(ママ)せて居る個所を拾つてみやう。
 科學の對象となる領域の多くでは、例へば、動物學では動物といふものが始めから提供されて居る様に、單位の問題はおよそ問題にさへならず、一擧に與へられて居るのである。或る科學が直ちに認識出來る具體的單位を示さぬときは、それがそこに於て本質的でない證據であつて、例へば歴史にあつてはそれは個人か時代か國民が知らず知る必要ありやの点を明らかにせずとも史書を編むことが出來るのである。「然るに將棋の要領が全く諸種の駒の組合せにあると同じ」(本書一四二頁=150頁)様に、言語は完全にその具體的單位の對立を土臺とするものであつて、人はそれ等を知らずに濟ますわけにはいかず、それ等を手掛りとせずしては一歩も踏み出すことは出來ぬのであると述べて居る。
 又、言語の如く要素が一定の法則に從ひ互に均衡を保つところの記號學的體系に於ては、同一性の概念は價値の概念と本質的に異るものではなく、互に融合するものであつて、これを將棋と比較してみれば納得が行くものと思ふとして、此の場合にも將棋の例を引用している。即ち「桂馬をとつてみる。それは單獨で競技の要素であるか。確かにさうでない。それはその置かれた番の目やその他の競技條件から外に出てその純粋の資料性においてある時は、指手にとつては何んらの意味をもたらさず、それが實在的、具體的要素となるには、苟もその價値を身につけ、それと一体にならねばならぬ。いま勝負の最中に此の駒を割つたとか紛失したとか、したとする。その時は他の等價の駒と代へることができやうか。差支ない。もう一つの桂馬でよいのみか、同じ價値をもたせさへすればそれと似ても似つかぬ恰好のものでも同じものと看做されやう。」(本書一四六頁=154頁
 因に、勿論これは自明のことで、特にお斷りする必要はないかも知れないが、原著者の比喩に好んで提供される將棋は、西洋將棋即ちチエスの場合をさすのであつてこれは日本將棋と少しく趣きを異にする。両者の差異はこまかい点を擧げれば種々あるが、原則として敵から奪取した駒を味方のそれとして使用することのない點が西洋將棋の著しい特徴であらう。又、西洋將棋に使用せられる駒は、日本將棋のそれが平面的であるのに對して、立体的にしてなかなか贅澤なものが多く、象牙に緻密な彫刻を施した美術的なものもある。
 前掲に、著者が「駒を割つたとか紛失したとか」場合に「同じ價値をもたせさへすればそれと似ても似つかぬ恰好のものでも同じものと看做されやう。」と述べて居る個所に就いては、たまたま紛失した『歩』の駒の代用として、燐寸軸或は煙草の箱の一片を急場の間に合せて勝負を争ふのを普通として何人も疑はぬ。かの縁臺將棋の如き光景が想ひ浮ぶであらう。
(中略)
 一九世紀の思想全体を風靡した進化論は、直接間接に言語學にも影響して、ただ發生的角度からのみ言語學を考察し、言語の生の進化法則を見出すこと以外に、何等なすところがなかつたが、著者は、言語の機構そのものは、時間の作用を一應無視し、各辭項の相互依存の關係を直視することに依つて、始めて認識せられるものであり、言語は、その詰(ママ=話ヵ)手にとつては史的事實である前に先づ意識事實であつて、この兩者の秩序を支配する法則は、その性質を異にするが故に、これまた相異る二學科を要請せねばならぬとして、從來の史的言語學即ち著者の所謂『通時言語學』に對して、言語機構の認識たる『共時言語學』の存在を力説して居る。
(中略)
 共時論的なものと通時論的なものとの自律性と相互依存とを同時に示さうと思ふならば……著者は、最も適切なる比喩は、言語の働きと將棋の勝負とのそれであり、いづれの場合にも、人は價値体系に當面し、價値の變更に参加するが、將棋の勝負はいはば言語が自然的形式の下に示すものの人工的實現であるとして詳細な將棋の比喩を示して居る。この部分が、本書中最も將棋の比喩を巧妙に提供して居るから、少し長くなるが、そのまま御紹介して置かう。
 「第一に、競技の一状態は、言語の一状態に該當する。駒のそれぞれの價値は盤上におけるそれらの位置に依存する、同じく言語にあつても各の辭項の價値は、爾餘のすべての辭項との對立によつて定まる
 第二に体系は決して瞬間以上に持ちこたへない、それは場面ごとに變化する。尤も價値はまた主に不易の制約、即ち勝負の始まらぬ前から存在し、指しても指しても存續するところの、競技規則に依存してをりはする。このやうな永久に動かない規則は恒常的原理がそれである。
 最後に、一の均衡状態から他のそれへ、又は ─ 我々の用語法に從へば ─ 一の共時態から他のそれへ移るには、駒を一つずらせばよい、家中の引越騒ぎは起らない。そこに通時論的事實と微細に互(ママ=亘の誤字)つて異るところの對照物がある。詳言すれば
(イ)将棋の一手は唯一つの駒を動かすに過ぎない、同じく、言語にあつても變化は單獨要素の上にしか行はれぬ。
(ロ)それにも拘らず、その一手は体系全体にひびくものである、その効果の限界を精密に豫見することは、指手といへども不可能である。それから生ずる價値の變化はその場次第で、無に等しかつたり甚だ重大であつたり、或はその中間であつたりしやう。某の手が勝負全体の形勢を一變せしめ、それまで死んでゐた駒を俄かに生かすこともある。言語にあつても、之と同然なことは、既に見た通りである。
(ハ)駒の移動は、以前の均衡状態とも以後の均衡状態とも全然別個の事實である。生じた變化はこれら二つの状態のいづれにも属しない。ところで、重要なのは、状態のみである。
 將棋の勝負では、與へられた随意の場面は、それに先立つ場面から解放されてゐるといふ、妙な性質がある。そこへどの道を通つて達しやうが、全然かまはない。勝負を始まりから觀てきた者も、危急の情勢を覗きにきた野次馬に比し、いささかの特典も有しない。その時の場面を記述するには、十秒まへに起つたことを想浮べる必要は毛頭ない。このことはそつくり言語にも當嵌まり、通時論的なものと共時論的なものとの根本的區別を裏書するものである。言は一つの言語状態にしか作用せず、状態と状態との間に入來る變化は言の中に入りこむすきまはない。
 比較が當を得ない場合は、ただ一つある。將棋の指手は初から意圖を抱いて駒の移動を行ひ、体系の上に働きかけやうとする。然るに言語には、前後の考へがない、言語の駒が位置を変へ──否、むしろ變更するのは、自生的であり偶生的である。…將棋の勝負があらゆる点で言語の働きに似るためには、無意識の、又は無知の指手を想定せねばならぬであらう。」(本書一一七頁 ─ 一一九頁=124~125頁

 さて、これまで將棋を引用して説明されたものには數多く接して居るが、學術的な著論中に而もこれ程巧妙に用ひられた例を知らぬし、又本書の如きは、一般の方々にはおよそ縁遠いことと思はれるので、僭越乍ら、以上の如く御紹介させて戴いた次第である。(後略)

 果たして、この記事をどれだけの月報読者が読んだでしょうか?(笑)
 文中、點と点、體と体が混在していますが、原文通りです。太字は現在の岩波版の該当頁です。
 ソシュールはチェスが好きだったようで、「ホイットニー追悼」という公表されなかった原稿(1894年)にもチェスの比喩がありますが、腕前のほどは分かりません。
 『明治事物起原』(1993年1月・日本評論社=1944年改訂増補版の復刻本)によると1860年の遣米使節が持ち帰った物品の中にチェスの本が3冊あり、1868年には『西洋將棋指南』と題するチェス本が出版されたそうですが、「三將棋書に何等か關係が有りさうに思はる」と慎重な書き方をしています。また「將棋の名人小野五平、曾て書生をして西洋將棋法を翻譯せしめ、其差し方を了解し、以來如何なる人と對局するも遂に負けたることなし。依て門前標して日本西洋將棋指南所といふ。惜むらくは、翁の生前、その時代を尋ねざりし」とあります。

2016年9月26日 (月)

「桂詰」結果発表

「桂詰」への解答は14名の方々からいただきました。
ありがとうございました。


解答はおよそ4種類に分けられました。


良識派

賞品不要の名無しさん まず、6手目に桂がいける位置が2七・4七・6七・8七しかないことに着目。
そして、6手目に桂馬が移動した場合に7手目に歩で取られる状態であれば、それは5手目で詰んでいるという判定になるのであろうと推測。
そうであれば、6手目の移動先をなくすように持駒である3枚の歩を配置していけばよいということになる。
そうなる回答は複数あるため、全て記載していく。
(4手目までの応手の結果、5手目にどの手を指しても詰んでいる状態は、桂方の移動間違いとして省略する)

      
      ・▲2八歩△4三桂▲4八歩△5五桂▲6八歩
      ・▲2八歩△4三桂▲6八歩△3五桂▲4八歩
      ・▲2八歩△4三桂▲6八歩△5五桂▲4八歩
      ・▲2八歩△6三桂▲6八歩△5五桂▲4八歩
      ・▲2八歩△6三桂▲6八歩△7五桂▲8八歩
      ・▲4八歩△4三桂▲2八歩△5五桂▲6八歩
      ・▲4八歩△4三桂▲6八歩△3五桂▲2八歩
      ・▲4八歩△4三桂▲8八歩△3五桂▲2八歩
      ・▲4八歩△4三桂▲8八歩△5五桂▲6八歩
      ・▲4八歩△6三桂▲6八歩△7五桂▲8八歩
      ・▲4八歩△6三桂▲8八歩△5五桂▲6八歩
      ・▲4八歩△6三桂▲8八歩△7五桂▲6八歩
      ・▲6八歩△4三桂▲2八歩△3五桂▲4八歩
      ・▲6八歩△4三桂▲2八歩△5五桂▲4八歩
      ・▲6八歩△4三桂▲4八歩△3五桂▲2八歩
      ・▲6八歩△6三桂▲2八歩△5五桂▲4八歩
      ・▲6八歩△6三桂▲2八歩△7五桂▲8八歩
      ・▲6八歩△6三桂▲4八歩△7五桂▲8八歩
      ・▲6八歩△6三桂▲8八歩△5五桂▲4八歩
      ・▲8八歩△4三桂▲4八歩△3五桂▲2八歩
      ・▲8八歩△4三桂▲4八歩△5五桂▲6八歩
      ・▲8八歩△6三桂▲4八歩△5五桂▲6八歩
      ・▲8八歩△6三桂▲4八歩△7五桂▲6八歩
      ・▲8八歩△6三桂▲6八歩△5五桂▲4八歩

      
以上、24通りの桂の詰まし方が考えられる。
ISOさん 打歩ばか詰、王手義務なし(このルール都合よすぎ、没ですね)
28歩、43桂、48歩、35桂、36歩まで5手
原田椅子さん 48歩63桂88歩75桂68歩まで5手
最初の桂が跳ねる方向で88歩にするか28歩にするか決まる。
ゆめぎんがさん 48歩63桂68歩75桂88歩でしょうか。
divDさん 48歩、63桂、76歩、55桂、68歩迄。
ルールがよく分からないのでステイルメイトにしました。
EOGさん 後手に持駒がないと仮定して
56歩、43桂、48歩、35桂、28歩まで
3手目と5手目は手順前後可
桂花さん プロブレム風の非王手可、玉方持駒なしと解釈すると、48歩、43桂、68歩、35桂、28歩まで。ちょっと先を読んで捉えにいくのが良い感じかも。

エコ派

解答欄魔さん 後手(桂方)は、持駒なしで桂が跳ねるしかないという前提で。
56歩、43桂(63桂)、36歩(76歩)まで3手詰。
ただ、これが作意だとすると、歩は2枚で足りるわけで…。
あまりにも見当違いなら、掲載は見合わせてください(笑)。
攻めダルマンさん 56歩、43桂、36歩、パス?、44歩みたいな感じしか思いつきませんね。(2手目63桂なら76歩)

暴走派

KSさん あまりに面白い問題だったので、初めてですが投稿します。
いろいろ考えたのですが、3手連打という答えはどうでしょうか。(笑)
先手、4四歩、6四歩、5二歩、まで。
もはや詰将棋のルールでも何もないのですが…。
解答、楽しみにしています。
昔の本も面白いですね。
奥鳥羽生さん 44歩、64歩、52歩迄3手。(連続詰&打歩詰)
非王(桂)手・交互着手で成桂をと金3枚で詰上げる順を考えるも・・・脳力不足であきらめ。
単なる連続詰なら最終が53歩、52歩成も、あえて短手数の方を。
機知に富んだ答を考えつかず、ショボイ解答となってしまった。


無頼派

たくぼんさん こんな時代から「ボカスカ詰」ってあったのですね。
ちょっと感激しました。
44歩、52歩、64歩 迄 1手詰
って思ったのですが、ボカスカルールを確認すると歩は同時に打てないと判明。ありゃりゃ。
ステイルメイト狙いの順もあるけどまあ「桂詰」とあるので・・・。
ボカスカ詰ではないけどよく似たルールでということにしてください。
谷川幸永さん 「受先(王手義務なし)ロイヤル桂ばか詰」ルールで
43桂 24歩35桂 23歩成27桂成 24と17圭 26歩16圭
17歩15圭 25と 迄 12手


個人的には変寝夢さんの解答が気に入りました。無理なく詰めているのがポイント高いです。よって最優秀賞。

変寝夢さん 面白そうなので解答してみます。桂=ナイト&協力詰で52歩、32桂、33歩、13桂、14歩、21桂、32歩成まででいかがでしょうか。
玉方の駒を強くすることで早く詰むようになる、というココロです。
正解なら協力詰と異玉詰の最古の作品となりますね。

ISOさんの最初の解答もこれでした。出し直ししない方が良かったのに、惜しい。
あとは解答をくれた人はみんな優秀と認め(笑)、4人の方に賞品を差し上げます。
厳正に抽選しました。

Dsc03658_3

↑(谷川幸永さんの字が間違っておりました。失礼しました)

細かく折る

Dsc03660_2

さらに折る

Dsc03662_2

さらに折って、ランダムに引きました。

Dsc03669_3

厳正な抽選の結果、変寝夢さんの他は

KSさん
解答欄魔さん
奥鳥羽生さん
divDさん

と決定致しました。

変寝夢さんには、この詰2015+極光II
4名の方には

詰棋めいと第4号+第17号
詰棋めいと第20号+第26号
詰棋めいと第27号+第32号
北斗+Blue Film

のどれかが行きます。持ってるよという方は、知り合いにあげて下さい。

Dsc036891

いずれの方もご住所と本名をコメント欄にお願い致します。非表示にしますのでご心配なく。

2016年9月24日 (土)

盗作 その2

 「桂詰」解答募集中です。締切9月25日。


 まず、田邊氏の年齢を確認しておきましょう。氏は1912年生まれ。中学4年生は15歳ですから1927、8年頃のことだと思われます。
 その頃の月報の第一部の作品はと。
 …見当たりません。おかしいな。
 第二部も見てみなければ…(第三部は1929年4月新設なのでまだ無い)。
 …ありません。

 範囲をさらに広げて、1925年から樋口四段存命中の1931年まで、懸賞詰将棋にこだわらず調べることにしました。
 …ありました。

1928年8月号

0494

29香、14玉、26桂、23玉、33龍、同歩、12馬、同銀、35桂、同金、
22飛成、同玉、34桂、31玉、22香成
まで15手詰

 『将棋妙案』第25番のほぼ左右反転図。完全な左右反転図は見当たりませんので、これでしょう。
 見つからないはずです。第一部でもなく、二部三部でもない。
 『現代棋客詰將棋佳作集』掲載作だったのです。

『誥將玉手箱 甲』(妙案)第25番
国会図書館所蔵の岡田丈太郎寄贈本です。乙は『将棋極妙』100番。
25_2

1928年8月号『現代棋客詰將棋佳作集』第39番
39_2

 1928年10月号解答の部には作意手順のみ。

 誰?
 「月報社中の一流」でもなければ「大家の方」でもありません。月報に登場するのはこの一局だけなのですから。

 ………(落胆)。
 人間の記憶はアテにならないものです。
 

2016年9月23日 (金)

盗作

 「桂詰」解答募集中です。締切9月25日。


 田邊重信著『私と将棋』に次のような一節があります。

---
 そんなある時、将棋月報特有の第一部懸賞詰将棋欄に、誰か将棋妙案の中の一局が、左右を反対に置きかえただけで、創作図として発表されて居るのを発見したのでした。
…そこで私の此の発見は、その盗作図の発表者が月報社中の一流であったが為に、社内では相当のサワガシサがあったというものだった。
 その結果として、誰も気付かなかった盗案図を発見した田辺という新読者は一体何者か? ということになったかして、まったく突然、将棋月報社主幹阿部吉蔵先生のご来訪に接したのでした。樋口兼尊四段を帯同されて。
 兎に角、先生が驚かれたというのは、私がまだクリクリ坊主の学生だったからでした。「ホォ、貴方が田辺さんですか? よくあれを見付けましたね。読者の中には詰将棋の大家が随分居ますが、あの図が古作物だったとは誰も気付きませんでした」、といわれ、私は何だか悪いことをしてしまったような、恥ずかしいような気持で、真っ赤になったことを覚えているのです。
---

 次に「詰棋めいと」第2号(1985年2月)の田邊氏の寄稿。
---
 今日では、例の日野秀男氏の古作物全集が出たことでもあり大抵の方は一応古作品に目通しされていることと思いますが当時はそうは行きません。ごく一部の方きり古作物はよう知らぬ頃でしたので、こんなこともありましたね。
 それは古作物そのものズバリを大家の方が堂々と、自作として発表したというものです。あるとき私がそれを発見して、その由を月報社に知らせたものでした。どこの馬の骨とも知れぬ一読者が、社の編集部員の誰も気付かなかった大指摘をして来たのですから、これはビックリであったことと思われます。
 そんなある日、まったく突然、五十才前後と、六十才を少し越された人品卑しからぬお二人の訪問を受けたのでした。…将棋月報の阿部吉蔵主幹と樋口兼尊四段のお二人だったのでした。…
「田辺さん、あの図が古作物であることがよく解りましたね。うちの者たちも誰も気付かず、また読者の方々からも何も云って来ておりません。危うく月報の信用を失うところでした。今日はそのご挨拶にお伺いしました」ということで、私はますます恐縮したことでした。
---
古図鑑版のこと。

 樋口四段は月報の嘱託棋士でした。1923年二段、1927年三段、1931年四段。1932年1月死去。享年68歳。(月報1932年2月号より)
 阿部主幹の訪問は田邊氏にとって非常に印象に残った出来事だったようで、月報にも記事があります。


 1933年6月号
---
主幹來訪せらる
田邊重信

櫻花漸く開く駘蕩たる四月八日突然主幹の來訪に接しました
却説主幹と私との初對面、それは今から足掛け四年前私が中學四年の時でした
其の前日です學校から歸つてみると机上に見馴れぬ二枚の名刺があるのです、阿部吉蔵、樋口兼尊と謂ふ
…將棋を學んで茲に僅か二年、まだ駒の動きより知らぬ若輩を棋誌一方の雄將棋月報の主幹并に高段棋客樋口先生がわざわざ御尋ね下さることは其の夜は深更まで睡り得なかつた事は諸賢にも容易に御想像下さる事と思ひます、私が兩先生と御對面の挨拶をすませて對座して居つたのは翌日の午後六時頃でした、燦然と美髭を蓄へ温顔に笑をたゝへ幾分前跼みの御姿にて恰も親が子に諭すが如く御話し下さる、御見受けした所七十才前後の御方、その御方は樋口先生でおいでだつたのです、一方御見受けした所五十前後羽織袴に威儀を整へられ諄々として有益なる棋談を御聞かせ下さる、それは實に敬愛してやまざる主幹その人であつたのでした
…その主幹が今亦突然御尋ね下さつたのです…
---
 樋口四段の年齢に揺れがありますが、一番の違いは最初の訪問の趣旨が書かれていないこと。これは当事者が読むことを前提に、敢えて書かなかったのでしょう。


 さて、その盗作図とは、盗作したバカタレとは。
 今明かされる驚愕の事実。
 しばし続報を待て。

つづく

2016年9月18日 (日)

桂詰

 月報1925年12月号の懸賞詰将棋欄に掲載されていた図です。

Photo

 その後の月報を調べましたが、解答はありませんでした。
 桂を詰めよという問題なのでしょうが、果たして…。
 分かった! という人はコメント欄に書くか(非表示にします)、
botanmn@gmail.com へ。
 秀逸な解答には賞品を用意しています。最大5人分。所持している
僅かな詰棋書の中からいらないもの価値のあるものを差し上げます。(ショボイのもある)
 詰まないとかの解答は不可です。
 優秀解答が多い時は適宜抽選します。
 締切は9月25日です。

※コメントやメールをいただいた方へ(9月18日19時30分記)
いちいち返事は差し上げませんが、ご了承下さい。
ちゃんと見ておりますので。
なお、解答及びご芳名(ペンネームの方はそのまま)については公開させていただきますので、アカンという方はお知らせ下さい。

2016年9月10日 (土)

「將棋之友」と「將棊の国」

 「将棋之友」と「將棊の国」については月報にいくつか記事がありましたので、ここで脱線して「将棋之友」と「將棊の国」をめぐる言説。実物は見たことがありません。この二誌になぜ興味があるかというと、もちろん酒井桂史作が掲載されていたからです(「將棊の国」は未確認)。
 二誌についての簡単な説明。
---
「(10)(11)の主幹は『香落三四銀定跡』の創始者として、将棋の学者といわれた金易二郎八段で『将棋の友』には、同氏はじめ木村六段、花田七段、小泉五段、根岸四段の定跡講義、大道詰将棋の元祖として有名な萩野龍石氏の「将棋の遊戯」「支那将棋談」「素人銀盃勝継手合」などが掲載された。根岸勇四段は木村名人の少年時代からの好敵手で天才棋士といわれた人である。
「将棋の国」も金、木村、花田、宮松、の諸氏の定跡講義が主であった。
(『将棋の博物誌』1995/10越智信義・三一書房)
---
(10)は「将棋之友」(11)は「
將棊の国

 同書には発行期間が書いてあって、「將棋之友」は1924/11~1925/06まで八号?、「將棊の国」は1925/11~1926/05まで六号?とあります。


 1924年12月号
 「将棋の友創刊號を見て」
---
東京赤坂區青山北町將棋の友社より發行せられた棋道雑誌創刊號を一見する、紙質のよいのが何より好感を與ふるが巻頭に雜誌の體裁を飾りてその賣行を主とするのでないから徒らに紙數を多くして散漫なる記事にて紙面を満たすことは好みませぬと宣言してあるに廣告二十三頁一寸面喰ふ、目的は主として定跡講義にありと其講義は根岸四段と花田、金兩氏が述べてある外に棋譜が二種、象戯の話が中心をなして居る、懸賞詰將棋等があり毎月一回發行で定價は別紙廣告の通り
---
 「將棋之友」は一部25銭、一年分2円50銭、「將棋月報」は一部20銭、一年分は前金で2円20銭でした。
 月報1924年12月号の広告です。

192412_2

 こちらは1925年11月26日付の官報!に掲載された『將棋之國』の広告。

2_2

 「將棋之國」になっていますが、実物の写真を見ると「將棊の国」です。


 1925年7月号(再掲)
 
「ハガキ集」 秋田縣十八庵
---

將棋の友六月號の詰將棋第六は高濱禎著詰將棋精選第五十三(古作物作者不詳とあり)と殆ん同様です小生は此圖と桑原君仲著將棋玉圖第三十一との類似(…此程度の類似…)をも不快に感じます即ち將棋精選第五十三と將棋玉圖第三十一とは兩立を許し難い圖式と思ひます同誌第五は矢張り詰將棋精選の第五十五圖に作者不明として記されて居るものと同様ではありませんか二題も古作物を出したのは仝誌の爲めに遺憾に存じます尚同誌第一の都詰とありますが玉は四五に詰むやうです…
---


 1926年1月号
 「大正十四年 棋界回顧録」一記者
---
 新春を迎へて、想起するは昨年の我が將棋界の出來事である。…八段金易二郎氏は櫻井三桂氏と共に将棋の友を創刊し…然るに將棋の友は六月限り廃刊の運命に逢着した、これが原因は將棋新誌と殆んど同一タイプで存在の價値を疑わ(ママ)るゝ比較的損な立場であつたからであらう
…重ねて曰ふ將棋の友の廃刊は棋道の爲に遺憾である…
---


 1926年1月号
 「讀者の聲」
---
●悉く古作物
將棋の國十一月號の懸賞詰將棋新題として四題出て居りますが皆んな古作物だと思つて調べて見たら悉く初代宗看作であつた
(秋田縣準初段)

●將棋の國
將棋の友は六月限り廃刊してしまつたが此頃將棋の國として改題して發行した其の二號を見たが外観は立派になつた内容も大体同じで四拾六頁に増加して定價は四拾錢一ヶ年四圓六拾錢だ…
(借讀生)

●お答へします
將棋の友は近頃參りませんが何うなりましたか筋違ひながら貴社に御伺ひします
(月歩)

將棋の國と改題して發行して居るそうですが本社へは到着しません、木見先生も見ないそうです本社では著名の棋士へは全部贈呈して居る殊に將棋の友發行の時廣告を出して呉れと原稿を送つて來たので毎號無料で廣告し多數讀者を募集した關係もあるので一部位は送つて來るものと思つて居ました…新聞や雜誌は同業者間には交換的に發受するのは普通であるのに木見八段へも送つて居ないといふ、土居八段へは交換的に新誌毎號五部から拾部寄贈されて居るので本社では之れを無料で有志に配つて居る
---
新誌は將棋新誌

 木見八段の名が出てくるのは、月報大阪号の責任者だったからです。大阪号といっても大阪版というような別の誌面があったわけではなく(ここは推測、以下は事実)、範囲を決めて発送や購読料の受け取りなどの事務を担当していたのです。1924年12月号によれば、大阪号は「大阪府市一圓、京都市、神戸市の三都であります。依つて右三都市の愛讀者は配本も通信も代金徴収も一切木見先生方より願ひます」とあります。


 1926年2月号
 「江戸兒と田舎者」土百姓棋士
---
…東都で發行する將棋の國や新誌が純粋な江戸兒とすれば日本アルプスを誇つて居る信州の松本で生れる雜誌は田舎者だ…
月報の生命は詰將棋にありといえ(ママ)ば聊か語弊あるかも知れんが雜誌の懸賞出題としては上乗なものだ、將棋雜誌としてこんな立派な出題は以前にあつたかどうか少くとも僕は知らない
…田舎者でさえも此位ひな詰將棋の新題を出すのに江戸兒の將棋の國といふ雜誌はカビノ生へ(ママ)そうな古題ばかり出して居る江戸兒の體面もなにもありやしない、僕はこの頃友人から第三號を借りて見ると、掲載の詰將棋は二題とも將棋圖巧から持出して居る、第一は圖巧第十九番、第二は圖巧第十八番だ、第一號にも圖巧二十三番と二十四番が出題してあるのを見た、第二號は四題とも初代宗看作が新題として載せてある、作者の名を記してないのは故名人に對して無禮である…
---


 1926年4月号
 「所感片々」菊地桂秋
---
余輩曾て將棋の友を購讀す廃刊後誌代の殘餘は新刊將棋の國に充當すべしと發刊と聞き再度配本を促したるも故意かあらぬか遂に配本も返金もなし來らず本誌友中同一の目に遭ふの士此際鼓を鳴らして大いに其の不正を叫斷(ママ)しては如何
---


 1926年4月号
 「讀者の聲」愛棋生
---
◆照會
大崎八段主幹月刊雜誌新棋戦はどうなりましたか一ヶ年分代金前納した讀者に對し何等の通知がありません若し各人に通知が出來なければ専門雜誌上に其顛末を發表する様お願ひします金八段主幹の將棋の友は廃刊と同時に一ヶ年分前納の誌代は將棋の國の方へ廻して下さいました
---

2016年9月 7日 (水)

滑稽詰將棋

1925年4月号の月報にこんな図がありました。

Photo

これまでにも出てきた筋です。完全限定以外の手順は不可。
当時、懸賞出題は6局ですが、この月の顔ぶれは三代宗看、堺(酒井)桂史、加藤温水、長井善吉、佐田眞作。に混じって、こんなのがあるのです。
解答審査はなかった模様。

2016年6月11日 (土)

この○は? その2

 それでは、「この○は?」の正解発表です。
 正解は「読者の投書欄」でした。詰パラの「読者サロン」のページに当たるもので、似たようなことを書いてあれば正解にしようと思ったのですが、
難しすぎたのか正解者はありませんでした。
 1924年4~6月号は「ハガキ便り」、7月号から1925年7月号まで「ハガキ集」、8月号から「讀者の聲」、1935年11月は「ポスト」、1942年6月号から「回覽板」と
名称を変えます。
 「讀者の聲」に変わったのは、十八庵を名乗る秋田県の読者の「本誌に對する私の希望」(1925年8月号)と題する一文がきっかけでした。
-----
…「ハガキ集」も極めて必要に思ひますが寧ろ之を「讀者の聲」又は「讀者倶樂部」等と改稱する方が讀者本位の大方針を表示する上に好都合かとも思はれますが…
-----
 読者本位を標榜していた月報に、読者の投書欄が無い時期が多いのは意外ですが、投稿と思われるやや長めの記事はたくさんあります。ただし、短文の感想や要望をまとめたコーナーが常時設置されていたわけではありませんでした。

 「回覽板」は
櫻井蘇月の「讀者欄を」との提案を実行したもの。時局を反映した名称で、大政翼賛会の末端の組織である隣組の連絡手段として位置づけられていたものです。

とんとんとんからりと 隣組
格子を開ければ 顔なじみ
廻して頂戴 回覽板
知らせられたり 知らせたり
(作詞・岡本一平「隣組」)

 あらためて問題です。 賞品は継続。
 表内の○は1926年5月号以前及び1933年12月号以後の「将棋月報」とはあることが変わっていた期間を示しています。12月号以後は元に戻ります。
 さて、この期間は何が変わっていたのでしょう。
 これはさらに難問かも知れません。

 答えはコメント欄またはtwitterのメッセージを
@_karineko へどうぞ。メッセージ以外のつぶやきは応募とはみなしません。
 個々に返事は差し上げません。(期限6月20日、翌日にブログで答えと当選者を発表)
 コメント欄はこの件の答えに関しては非表示にします。表示希望の方はその旨も書いてください。
 住所の記入はとりあえず不要です。正解者にはこちらから連絡します。
 応募は一度限りとしますが、当選者が本当に現れないときは、さらに手だてを考えるかも。ww

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
1924
1925
1926
1927
1928
1929
1930
1931
1932
1933
1934
1935
1936
1937
1938
1939
1940
1941
1942
1943
1944 廃刊

黄色のマスは臨時号のみ(通常号と同じ月に臨時号がある場合は着色せず)
緑色のマスは国会図書館に無い号

黒色のマスは休刊

サイト内全文検索

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ