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2017年6月の5件の記事

2017年6月25日 (日)

江戸文芸に見る「将棋」その3

 こういう意味のないことに時間を取られるのは実に楽しい。(笑)

 今回は中川喜雲『しかたはなし』(1659年刊ヵ)。『假名草子集成』
第33巻(2003年3月 東京堂出版)。

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先祖の年忌に、僧俗よびあつめ、斎(とき)の調菜(てうさい)に、しるにもふ、にものにも、ふ、さしミにも、ふ、さかなにも、ふを出したれハ、俗の中より、いふやうハ
 僧衆の御経を、とらやとらや、と、よませらるゝゆへ、ふか、たくさんな
と、いふ
僧の、いはく
 いや、さやうてハない、わうしやうも、ふのもの也
と、いはれし

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 巻一第48話。
 引用した『假名草子集成』は、現在も未翻刻の仮名草子を翻刻・出版中だが、語義の注釈などは一切ないので困る。括弧内は原文にあるルビ。
 「ふ」は麩である。「とらや」は禅宗系で読まれる「大悲心陀羅尼」をさしているのだろうか。
 「わうしゃうも、ふのもの」は「王将も歩のもの」と「往生も麩のもの」を掛けているのだろう。それにしても「とらや」ゆえに「ふ」、という意味が分からない。
 虎の斑の意か。そうすると将棋には関係がなかったかも。

※「王将も歩のもの」という諺?があることを知らなかった。
「方策が尽き運命が窮まっては、勇将もあえなく敵の一兵に倒される。王将も最も弱いこまの歩のえじきとなる。強者も場合によっては、弱者に打ち負かされることのたとえ。一説に「往生もふのもの」の誤りともいう」(『日本国語大辞典』)

※2017年7月2日記
この話の解が『江戸時代語辞典』(2008年11月 角川学芸出版)にあった。
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往生も符のもの
死する時・所も人々の運によって定まるとの意。「王将も歩のもの」と解するのは誤り。
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として、この話を例示し、「斎に麩が多く出たので言った洒落」とある。結局、将棋には関係のない話だった。

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むかしむかし、きやうげんの番くミに、いぐゐと有を見て
 これハ、中将棊(ちうしやうぎ)の事を、きやうけんに、するか
と、いふ
 いかに
と、いへハ
 中しやうぎに、獅子(しゝ)のいくひ
といふ

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 巻二第2話。
 『しかたはなし』は全5巻197話を収めるが、読んでただちに面白さが分かる咄とそうでない咄がある。この咄は分かりやすいが結末が想像できる分、つまらない。
 狂言の「いぐゐ」とは「居杭」という演目。透明人間化した者のいたずらの話。
 中将棋の駒である獅子は玉と同じ利きを持つが一手で二回動けるので、利きの範囲の敵駒を取って元に戻ることもできる。これを居食いという。

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かくをわつらふ者有
友たち、見まひにきたりける時
 いしやハ、なにと、いはるゝそ
と、とひけれハ、膈(かく)と、いふ事を、わすれて
飛車(ひしや)と、いふ煩(わつらひ)じや、と、いはれた

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 巻四第15話。
 膈は、飲食物が胸につまるように感じる病症であるらしい。

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かふきの子共をあつめ、将棊さし侍る者あり
何とやらん名を、いひし、かふき子、そはに見物してゐけるに、まだ手あきの人々おほけれハ、かつ手より今一めん、盤(ばん)を持て出ぬるに、かの見物のかふき子、心のうちに、食を、まちかねける、と見えし色、外にあらハれたり
持出る、しやうぎのばんを、しりめにかけ「膳(ぜん)か出る」と思ひ、人のさしてゐる、しやうぎを、そはから、くつし
 膳かでた まづ、しやうきを、くつしたか、よい
と、いふて、上座に、なをりけるに、そハへ持来るを見れは、しやうきの盤にてそ有し
是ほと、そつしのいたり、せうしなる事て、あつた

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 巻四第16話。
 「かふき」は「傾奇」で、ここでは不良少年といった意味か。
 「かつ手」は勝手。「そつし」は卒爾で、軽率の意。「せうし」は笑止。
 食事の時は、指し掛けた将棋を崩す慣習でもあったのだろうか。

2017年6月11日 (日)

江戸文芸に見る「将棋」その2

 くどいようだが「将棋」を探しているのではなく、知りたいのは別の語句なのであるが。

『新撰犬筑波集』(山崎宗鑑 1524年以降)
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碁うち双六しやうぎさすなり
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『犬子集』(松江重頼編 1633年)
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さか馬にいられて後はつめにくし 貞徳
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 えのこしゅうと読む。
 『新撰犬筑波集』だの、『古今犬著聞集』だのと「犬」が付くのはそれぞれ本家『新撰菟玖波集』や『古今著聞集』に対する卑称である。
 『犬子集』の本家は何かといえば、序文に「犬子集といふ事、犬筑波をしたひて書(かき)たる」とある。


『塵塚誹諧集』(斎藤徳元 1633年)
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将碁さすかたへにうてる碁寸五六(すごろく)
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 管見の範囲では、碁や双六は将棋より出現度合いが高い。特に「碁」は一音ですむので、17音という限られた文字数しかない俳句では重宝されるのである。


『新増犬筑波集』(松永貞徳 1643年刊)
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まけかたの馬はかひなし中将碁
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 中将棋を詠んだ句は珍しいのではないだろうか。


『正章千句』(安原正章 1647年)
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様々の手ある将棊のこまかさよ
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『崑山集』(鶏冠井(かえでい)令徳編 1651年刊)
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将棊さしの上手(じやうず)にみせな金銀花 
喜多正友
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 金銀花は漢方薬らしい。


『紅梅千句』(有馬友仙編 1653年ヵ)
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天道よかたせてたまへ此将棊 可頓

まけさうに成ても強き中將棊 友仙
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『懐子』(松江重頼編 1660年刊)
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自慢めきさせる将棊ハ位詰め 宗立
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 ふところご。国会図書館のデジタルライブラリーを眺めていて見つけた。
 影印本は「近世文學資料類従」にあるらしいが、翻刻はされていないようだ。上記は合っていると思うが自信はない。
 ところで「くらいづめ」は将棋用語ではなく、「敵を身動きできないようにすること」(『日本国語大辞典』)。
 名前を見て、五代宗桂との棋譜が遺っている森田宗立かと思ったが、別の誹諧集に大坂之住 川崎宗立とあるらしく(『貞門談林俳人大観』 1989年 中央大学出版部)、別人なのだろう。
 森田宗立は『京羽二重』(1685年刊)の「諸師諸藝」の「將棊」の部に鎰(かぎ)屋重兵衛として登場し、『象戯綱目』(1707年 赤縣敦庵編 竹村新兵衛刊)では「江戸 森田宗立 鎰屋十兵衛事」と掲載されている。


『宗因千句』(西山宗因 1673年刊)
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将棊をもさす月影のさやかにて
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 指すと射すを掛けている。

 このほか、歩三兵にやられたという句もあったが、メモを取らなかったので思い出せない。『
誹風柳多留』ならありそうだが、初期誹諧集で見たのである。
 歩三兵とは上手方盤上玉一枚で持駒歩三枚。24歩、同歩、23歩で角を取られるというアレ。

2017年6月 5日 (月)

西鶴と詰将棋

 前回は芭蕉の将棋の句に触れたので、今回は西鶴。
 芭蕉と西鶴は同時代人で生まれは西鶴が二年早く、没年も西鶴が一年早い。
 西鶴には『懐硯』(1687年)という短篇集があり、その中に「後家に成ぞこなひ」という作品がある。
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…かくて年月かさなりある時甚九郎つれづれなる雨の日淋しく。日比(ころ)將棊好にてむつかしきつめものの圖を案じける程に。朝の四つより七つ半まで詠(なが)め入。さても今合点(がつてん)が往(い)たこれでつむものをと。吐息つきながらうめきける音したるに。何事と女房かけ付て見れば。はや目を見つめて寒汗(ひへあせ)瀧のごとく。…
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(『定本西鶴全集』第三巻 1955年 中央公論社)

 朝の四つより七つ半は、午前10時から午後5時まで。詰将棋を長時間考えて、解けたと思った途端絶命するのである。実に詰キストの鑑ではないか。(笑)
 亡くなって直ちに、弟二人と女房がそれぞれに欲心を起こして財産を狙うが、絶命と思ったのが実は仮死状態で、息を吹き返したあと三人は勘当、離縁とさんざんな目に遭う。
 詰将棋の部分は話の発端に過ぎないのだが、詰物とは何かといった説明は全くなく、こういう風景が読者にも特に違和感なく受け入れられていたと思われることに注目したい。
 この当時、刊行されていた(詰)将棋書は「新増書籍目録」(1681年 山田喜兵衛刊)によると
 將碁教 宗固
 同大本 宗桂
 同首書 宗閑
 同鈔
 同仲古 久須見
 同鏡 同
 同作物 宗閑
 同中象戯

となる。宗固は宗古、宗閑は宗看であることは言うまでもない。
將碁教は將棊(新板將棊經 二代宗古 1654年 本屋甚左衛門刊)か。五代宗桂の『圖式 象戯手鑑 指南抄』(1669年 柏原屋清右衛門刊)などもあったはずだが。
 西鶴が実際に将棋を嗜んでいたかどうかは分からない。芭蕉の書簡は二百通以上遺っているので年譜はかなり克明だが、西鶴は十通も遺っていないので、動静がよく分からないのである。

2017年6月 4日 (日)

洗濯と大矢数

 洗濯というと、坂本龍馬の姉宛書簡(1863年6月)にある「日本を今一度せんたくいたし申候」を思い浮かべる向きもあると思うが、ここでの主題はもちろん詰将棋である。

 『象戯洗濯作物集』(1706年 周詠編 風月荘左衛門刊)という詰将棋撰集があるが、いかにも奇妙な書名である。清水孝晏は「近代将棋」1970年5月号の「知られざる詰将棋」に本書を採りあげ、「題名が変っているだけでなく、内容も従来の詰将棋書とは異っている。(……)発行人が風月荘左衛門といういかにも人を喰った名前で、今日でいう海賊版ではなかろうか」と書いているが、風月堂は京師書林の老舗なのである。京都観光案内である『京羽二重』(1685年)にも「書物屋」10軒の中に名前がある。名古屋にも出店があったようで、芭蕉『笈の小文』途次の、「書林風月と聞きしその名もやさしく覚えて、しばし立ち寄りて休らふほどに、雪の降り出でければ いざ出でむ雪見にころぶ所まで 丁卯臘月(
1687年12月)初、夕道何某に贈る」という真蹟懐紙が現存する。夕道は京都の風月堂で修業した長谷川孫助の俳号。
 「詰棋めいと」第3号(1985年8月)に掲載された田代達生の論考によると、氏は『将棊詰方指南』と書名を変えた再版本(1854年以降・河内屋新次郎刊)を所持していた由。野田市立図書館電子資料室の
『象戯洗濯作物集』と「詰棋めいと」の『将棊詰方指南』は同じ板木のように見える。彫り直したのではなく、求板である。後の板元が書名を変えたのは、「洗濯」の語は似つかわしくないと思ったからなのだろう。
 ところで、「日本古典籍総合目録データベース」で検索したところ、江戸時代に「洗濯」を書名に含む本が、これに先立って一件だけあった。『俳諧洗濯作物』という俳諧の6巻本で寛文六年(1666年)の序文があるが、実際に刊行されたのは寛文十年以降にまで下るらしい。各地に零本があるが、6巻すべて所持していたのは正岡子規で、法政大の子規文庫にある。題簽の剥落もないらしい。編者は椋梨一雪という京出身の貞門派の俳諧師である。当時そこそこの実力者であったらしく、あちこちの撰集に入集している。序文を書いたのは加藤磐斎。貞門派は中世文学の知識の要求が厳しく、一派からは源氏物語や
枕草子の注釈書を著した北村季吟が出ているが、磐斎も実作より伊勢物語や方丈記の注釈書で知られている。初めて刊行された将棋の実戦集である『仲古將棊記』(1653年 久須見九左衛門刊)の序文を書いた加藤盤斎と同一人物であろう(盤はおそらく誤り)。

 さて、いかなる理由で「洗濯」と称したのか。
 その前に、今さら聞くまでもないと思われるかもしれないが「洗濯」の語義を明らかにしておこう。
 大漢和辞典に、「洗ひすすぐ。衣服に限らず、汚穢を去ること」として『後漢書』礼儀志上「是月上巳、官民皆潔於東流水上、曰洗濯祓除」を例示してある。是月は三月を指していて、「三月上巳の日、官民こぞって東へ流れる川のほとりで禊をするが、これを洗濯祓除という」ほどの意味だろう。三月上巳の日は後に三月三日に固定され、桃の節句となる。
 『俳諧洗濯作物』の跋文に一雪がいう。
 「釘の頭の出過ぎたるに、きぬの袖のかゝりかましく、もめん布このえり垢深くよこれたる心をすゝかましく、やがて洗濯物すなる盥の底の浅く敷、ミつから灰汁(あく)桶のたれたれの句数年月ため置しかと」云々。灰汁は文字通り灰を溶かした水の上澄みで、当時の洗剤である。
 また、磐斎が序文にいう。
 「洗濯物ハ、人びとの手をへてひねり出せる、思ひの糸のすゝけぬるにて、手織にしける言葉の花の錦のきれぎれをあらひすすぎて、色よきをえらびあつめてはたバりひろき一まきとつゞりたる、針手のきゝたるしわざなるべし」。「はたバり」は端張りで、幅を広くすること。灰汁は藁灰が良いとされるが、
斎はわざわざ「いかなる水にてあらへるや。わらの灰汁に非ず。……是ハこれ雪げの水なり」と雪解けの水として一雪に掛け、編者としての手腕を持ち上げている。
(引用は『俳諧洗濯物 洗濯碪』1995年「古典文庫」581より)

 一方
『象戯洗濯作物集』の序文は次のようにいう。
 「有る人が問ひて云く、此の作物象戯洗濯と名付くること、家の撰集其の外素人の作の粗誤を見出して抄に顕はせり。剰(あまつさ)へ先図を借るのみにあらず、我が侭に洗ひ濯ぐと云ふ事は、其の家の衆にさも似たり。如何と。答ふらく。分浄水を以て之を洗ふが故に洗濯と号す。譬へば並家の衣を洗ふが如し。後者も極清水を以て余が垢穢を濯ぎたまへと」
(田代氏読み下し文のまま)
 『俳諧洗濯作物』の書名、序跋文が
『象戯洗濯作物集』に何らかの影響を与えたかどうかは分からない。余談だが、「洗濯」は当時「せんだく」と読んでいたと思われる。1603年刊の『日葡辞書』にXendacuとあり、Qirumonouo xendacu suru.(着る物を洗濯する)と例文がある。『俳諧洗濯作物』については『誹家大系図』(1838年 生川春明)の一雪の項に著書として「せんだくもの」と記す。

 
『象戯洗濯作物集』は、福岡瀬平という人が古今の作品集についての評価や誤りを記して所持していたものを周詠が抜き書きして紹介するという体裁を取っている。瀬平は、蒐集した好作を記した本も持っていたと序文にあるが、こちらは「是記すに及ばず」とそっけない。『象戯洗濯作物集』は福岡瀬平が欠陥のある作品を指摘した問題作集という側面と周詠が集めた好作集という面を合わせ持った撰集なのである。
 福岡瀬平も周詠も他の文献に名を見ることが出来ない謎の人物であるが、序文中に「上方咄」について触れた部分があることから、周詠は京・大坂に関わりがある人物かもしれない。その「上方咄」だが、芭蕉の曲水宛1692年9月の書簡に「昨夜五つ前上方咄」とあり、そこでは膳所の珍碩が午後8時前に深川の芭蕉庵に着き、上方の俳人仲間の土産話をしたという意味に取れるので、
『象戯洗濯作物集』の序文の「上方咄」が上方落語に限定されることはないと思われる。

 田代は詰パラ1980年11月号の「無住仙良と宥鏡」のなかで、「洗濯作物集も亦、同一人物によるものではないかと推定している」と書いている。無住仙良=宥鏡=周詠という説であるが、正鵠を射ていると思う。
 宥鏡『象戯大矢數』(1697年)の「大矢數」も俳諧の書名から来たのかもしれない。大矢数は、京都の三十三間堂で日暮れから翌日の日暮れまで24時間に何本の矢を射通すことができるかという競争で、記録を破るため次々に挑戦者が現れ、世間の耳目を集めたらしい。『遠碧軒記』(1675年 黒川道祐)には最初の記録51から当時の記録8000まで、記録の変遷が細かく記されている。最終的に1686年の8133本が記録となった。これをめざとく誹諧の興行にしたのが井原西鶴で、一昼夜に1600句を吐き
1677年西鶴俳諧大句數」と題して出版した。初めて「大矢数」の題簽を持った「誹諧大矢数 千八百韵」(1678年 中村七兵衛刊)を著し西鶴の記録を塗り替えたのは月松軒紀子である。もっとも、証人不在で極めて疑わしいと西鶴は難じている。西鶴は1684年に宝井其角を後見として23500句という気の遠くなるような記録を打ちたて、競争にピリオドを打った。
 『象戯大矢數』は言うまでもなく「番外」の391手詰を大矢数に見立てたのだろうが、正編でなく番外作を念頭に書名としたのは不思議ではある。

170001

72馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、
55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、
73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、
45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、
63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、
46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、
64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、
36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、
54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、
同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、
55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、
73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、
45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、
63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、
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55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、
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46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、
64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、
36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、
54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、
同馬、91玉、73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、
55馬、81玉、45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、
73馬、81玉、63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、
45馬、91玉、46馬、81玉、36馬、72歩、同馬、91玉、73馬、81玉、
63馬、91玉、64馬、81玉、54馬、91玉、55馬、81玉、45馬、91玉、
46馬、81玉、36馬、91玉、37馬、81玉、27馬、91玉、37馬、81玉、
36馬、91玉、46馬、81玉、45馬、91玉、55馬、81玉、54馬、91玉、
64馬、81玉、63馬、91玉、73馬、81玉、72銀生、92玉、84桂打、同龍、
同桂、同金、91飛、同龍、同馬、同玉、71飛、82玉、81飛成、73玉、
75香、64玉、61龍、55玉、46金、同玉、66龍、45玉、46歩、54玉、
57龍、55角、53成香、64玉、63成香、75玉、55龍、86玉、66龍、97玉、
96龍、88玉、77銀、同玉、33角、78玉、98龍、79玉、88龍、69玉、
68龍
まで391手詰


 歩が17枚余る。『象戯大矢數』の番外頭書に「凡四百度」とあり、これが作意なのだろうが、ここまで駒が余るのは解せない。72歩合を省略すれば駒の余らない85手詰となる。当時の長手数記録は67手(『近來 象戯記大全』
(1695年)第3番  田代市左衛門作)なので、85手でも新記録である。
※神無七郎氏より、377手詰が成立することを教えていただきました。コメント欄を参照して下さい。

 「洗濯」、「大矢数」という書名が、ともに俳書に由来するというのは私の推察なのだが、宥鏡=周詠であればおかしくはない。『諸國象戯作物集』(1700年 宥鏡編 永田調兵衛刊)には俳句が四句紹介されている。このうち二句は芭蕉作とされていて、京作から招来されたものと書かれている。京作は『諸國象戯作物集』に詰将棋が二局採録されている人物である。「京作は盤上の工夫のみならず風雅の心さしもうとからぬにや」と評しているが、
宥鏡=周詠も風雅に疎からぬ人であったのだろう。蕉門では風雅は俳諧を指す言葉だった。

やま櫻將棊の盤も片荷かな
夏の夜や下手の將棊の一二番

 引用された芭蕉作とされる句は田代が「詰棋めいと」に書いた通り岩波文庫の『芭蕉俳句集』
(1970年)では存疑扱いになっているが、その後出版された『芭蕉句集』(1982年 新潮日本古典集成)では「やま櫻」の句は存疑に残り「夏の夜や」は消えている。「やま櫻」は宝暦年間に成立したと言われる『俳諧百歌仙』(小栗旨原編)にも若干字句を変えて収録されていることが物を言ったのだろう。さらに『芭蕉全句集』(2010年 角川ソフィア文庫)には存疑の部がなく、二句とも見られない。
 『諸國象戯作物集』に「是ノ百有余條ハ京江戸大坂備後長崎美濃尾張伊勢三河加賀越中信濃奥州其外在在所所ヨリ集作物」とある。「百有余條」は正確には102局である。ここに掲げられた地名におおむね共通するのは俳諧が盛んだったことである。
宥鏡=周詠は各地の俳人と文通しながら、その地の詰将棋作品も蒐集していたのではないかと想像するのである。

2017年6月 2日 (金)

加藤文卓の「圖巧解説」その25

月報1929年1月号

圖巧解説
二峯生

第七拾貳番

0072

48銀、同龍、79龍、69銀、58金、同龍、68龍、同玉、77馬、57玉、
47と、同龍、48金、同玉、39金、同玉、66馬、38玉、39金、27玉、
17成香、36玉、26成香、46玉、38桂、同香成、45成香、同玉、35と、46玉、
36と、同龍、56馬(33手詰)


變化
48同龍の所
(一)同玉ならば49金、57玉、56と也
(二)69玉ならば79金以下容易也

69銀間の所69馬ならば
同龍、同玉、79金、58玉、68金打也

58同龍の所同玉ならば
68金、59玉、58金打、同龍、同金、同玉、49金、57玉、56とにても詰む

68同玉の所同歩ナルならば
49金、同龍、同馬也

48同玉の所同龍ならば
66馬同玉、56金、75玉、87桂、同馬、85金也
66同玉の所68玉ならば
79金、59玉、48馬、同玉、49金、57玉、56飛也

39同玉の所57玉ならば
49桂、同龍、56金、58玉、49金也


第七拾參番

本局は原圖の儘では詰がない様に思はれるので假に「玉方28と」を追加して見たのである

0073

58金、同金、48銀打、同金、58銀、同玉、57金、同玉、56馬、58玉、
57金、68玉、67金、79玉、57馬、78玉、69龍、87玉、77金、同玉、
67龍、86玉、68馬、85玉、87龍、94玉、95馬、同玉、84銀、94玉、
96龍、84玉、85香、74玉、94龍也(35手詰)


變化
48同金の所
(一)48同とならば58銀()39と右、49金也
39との所58同玉ならば
57金、同玉、56馬、58玉、57金、68玉、78金也
(二)48同馬ならば58銀()39馬、69馬、48玉、59金、37玉、17龍()27間、26銀、46玉、47飛、同金、56金、36玉、47銀也
39馬の所49馬にて同手順にて可なり
27間の所46玉ならば43飛にて詰み又36玉ならば33飛にて容易に詰む
39馬の所に58同玉ならば
69馬、57玉、67金、同金、56金也

○此圖に於て28とを缺く時は前記
の變化の場合即58金、同金、48銀打、同馬、58銀、39馬と指るる時は以下詰手不明となる

---
 門脇芳雄編『詰むや詰まざるや』ではこの図を採用している。


第七拾四番

0074

57馬、59玉、48銀、同龍、49飛、同龍、86角、68歩、同馬、48玉、
57馬、37玉、59角、同龍、36金、同玉、46馬、25玉、35馬、16玉、
27金、同歩成、17銀、15玉、26銀、同と、16歩、同と、25馬也(29手詰)


變化
59玉の所
(一)49玉ならば58銀、同龍、48飛、39玉、58飛、29玉、19飛にても詰む
(二)69玉ならば58銀、同龍、79飛


第七拾五番

此局は本手順と思はるゝものより變化の手順と思はるゝものの方却つて手數が多い

0075

57金、同玉、
59香、同馬、77飛、同馬、55飛、同馬、58金、56玉、
47馬迄(11手詰)

之れは原書記載の解答で龍馬が37より59、77、55と玉將の周圍を一週(ママ)する手順甚だ巧妙であり之を以て本詰の手順と見做すが作者の意であらうと推察される


變化
57同玉の所49玉ならば
19飛()29金間、58馬、38玉、49金、28玉、18飛打、27玉、17飛、26玉、27香、同馬、同飛、同玉、38角以下容易
29金間の所
(一)19同馬ならば59飛、38玉、16馬、27銀間、39金、37玉、38香の手順あり
(二)39銀間ならば58馬、38玉、29金、27玉、17飛
、26玉、16飛、27玉、17飛也
(三)39金間ならば58馬、38玉、49金、27玉、17飛
、26玉、27香、同馬、同飛、同玉、38角、同金、同金、同玉、47馬にて詰む
(四)29銀間ならば同飛、39金間(銀間にても同様)16馬、27間、58銀、38玉、39飛、同玉、49飛なり

59同馬の所
(一)58間ならば同馬、56玉、54飛、同銀、66金也
(二)67玉ならば58馬、77玉、86銀、88玉、98飛、同玉、93飛也

77同馬の所
(一)67間ならば58飛、同馬、35馬也
(二)56玉ならば54飛、同銀、66金

○本局に於て「玉方51香」の意味を一考する必要があらう、此香を缺く時は次の餘詰を生ずる即ち
57金、同玉、58飛、67玉、68金、76玉、77飛、85玉、52馬、イ94玉、
97飛、83玉、84香、72玉、92飛成、82香、83香成、71玉、53馬、62金、
63桂也

94玉の所74桂間ならば
同馬、同銀、同銀94玉、85銀打、93玉、53飛成、73間、94香、82玉、73銀也
94玉の所95玉ならば
96香、同玉、85銀打、95玉、97飛也

故に此51香は必要な駒であり又此香を配置してある所から推察するに作者の意は57金、同玉の手順を本詰と見做す積りと思はれる

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 この図には
58金の余詰があるが、駒場和男の補正図がある。

 図巧解説は第75番で終わっている。加藤文卓はこの年11月に亡くなった。
(了)

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