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2017年3月 6日 (月)

忘れられた論客 その19

 1943年6月号「詰將棋問答」。

質問者 棋塵庵
應答者 杉本兼秋

質問
 詰將棋を大作品とか小作品とかに區別してゐる人のうちには、形が大きく手數が長ければ、其れで大作だ、と斯う思つてゐる人があるが、其れは間違つてゐると思ふ。今昔を問はず大作品と銘打てるやうな作品はさうザラにあるものではない。私の觀方からすれば、昔の物で宗看、看壽作の大部分と其の他の作家に依る或る部分、現今では酒井桂史氏作の大部分と其他數氏に依る少數作品、之等が大作の部類に入る作品だと思ふ。
 よくある例だが、如何に圖柄や手數が大掛りでも、内容が空疎で、其の意が何處に在るのか分らないやうな物や、又は唯だ單に龍や馬を以て玉將を追ひ廻すと云つたやうな物では、之を以て大作と云へぬのは勿論、鑑賞的價値に於て又低位たるを免かれないのである。
 私のやうな作圖に經驗の少い者では、作者の心理を描出すると云ふ事は困難かも知れぬが、少くとも次のやうな事は云へると思ふ。
 (一)作者は創作に當つて、自己の想を活かすべく萬全の努力をする。(二)軈(やが)て詰將棋の原型が出來上るが、まだまだ不備の點が多い。餘早詰や變化の方が手順が長かつたり、又は手順が前後しても詰んだりするのは此の時である。(三)圖の不備を修整しやうとしても、銀や桂が五枚欲しくなつたりして思ふやうに行かないものである。そして圖は何時の間にか大模様となり、自己の力では収拾する自信がなくなる。(四)此處で努力すれば洗練された味の良い圖が出來るのだが、多くの人は遂ひ屁古垂れて了ふ。併して易きに就くと云ふか「これで充分だ」と云ふ氣を起したが最後、もう其の圖は浮ばれないので、良くいつてスラスラしたる好局位で終つて了ふのである。
 以上此のやうにして屁古垂れた結果出來上つたやうな代物では、それに魂のあらう道理がないので、さうした作品は如何に大柄でも、如何に手數が長くとも、決して大作とは云ひ得ないのである。
 此の大作云々に關し、先輩であり理論家である杉本兼秋氏の御説を賜り度いものである。

應答
 詰將棋に於ける作品價は客觀的事項たる妙手及詰手數(單に詰手數そのものも妙手に對し五分の一乃至十分の一の價値を有する)及主觀的事項たる構成形態詰手順其の他(客觀的事項が増價事項として扱はれる事に對し主觀的それは同時に減價事項をも含む)に依つて決定されるその一部分たる手數のみを以つてされるは長篇、短篇の區別であり單に夫のみを以つて大作云々の區別は出來ない。
 作品價を決定する主要事項たる妙手價値がその作品の手數との此に依つて決定されるのではなく加算的に評價されるとせば短篇作の持つ妙手價には限度があり又構成に於てもその表現の範圍が限定される。(註 妙手價を等うする場合の長篇作が短篇作に劣つて見へ(ママ)る事があるのは手數の持つ作品價より他の作品減價事項が大であるに依る)
 故に又反對に手數を無視して他の事項のみを以つて大作云々と稱するは理論的にも不可能であり、又名稱的にも不自然な點がある。
 外觀的事項(手順及夫に必然的に併ふ形態)及作品の持つ内容(構成及妙手の相乗價)が共に或る水準に達してゐる作品を大作品と稱するのだと思ふ。
---

 棋塵庵は岩木錦太郎。
 これも今一つよく分かりません。
 質問は、ただ長いだけの作品を大作と持ち上げるのはいかがなものかという趣旨なので、「その通り」と答えておけば良いのです。(笑)
 妙手が客観的で、「構成形態詰手順」が主観的という杉本の考えはおかしいし、長手数作は短手数作に優るという先入見があるようです。

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