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2017年2月26日 (日)

「短篇詰将棋」の成立 再考

:このあいだの「『短篇詰将棋』の成立」 には納得いかないんですが。
:そうでしょうね。私も同意見です。
:反論しないんですか? ブログが3行で終わってしまいますけど。
:そりゃいかん。では、何が納得いかへんねん! ボケ!
  これでよろしゅうございますか?
:いや、ことばを荒げて欲しいなんて言ってませんので。
  昭和初期の段階でようやく短篇詰将棋が成立したというのは相当な暴論ではないかと思うのです。
:暴論はたいてい相当ですからね。謙虚な暴論とかは普通ないわけでして。
  いいですか。私が主張しているのは短篇詰将棋が1927年頃に初めて現れたということではないのです。
  草創期から存在していたと書いたでしょう。しかし、短篇という分野が定立されたのはその頃なのだと言っているのです。
  「知られていることは知られているからといって認識されていることにはならない」。
:聞いたようなセリフだなあ。
:つまりこういうことです。認識の三項図式で説明しましょう。認識は意識対象、意識内容、意識作用で成立する、ここまではいいですか?
:カビの生えそうな図式ですね。
:そう言いなさんな。分かりやすいのでね。この場合、意識対象は実在する図面(作品集、手順...)、意識内容は知覚として捉えられた像である図面(作品集、手順...)です。意識作用はそこへ意味を付与する心的な働きです。詰将棋であるとか、これはくだらない作品だなとか、余詰があるやんとか。
:手数が長い、短いという意味は付与されないんですか?
:長い短いは当然把握されるでしょう。しかし、明治・大正までは、短篇という概念がないからそれを短篇であるという認識が持てないのです。一人二人の先行する認識はあったかも知れませんが、その認識は共有されていないというわけです。つまり意味付与には極私的な部分(これはこの前発表に先立って見せてもらったなという感想とか…)もありますが、その背後にその時代の歴史的・社会的な了解事項が聳えているのです。
:短篇ということばがまだないので、短篇という概念もないと?
:そうではありません。大作とか小品とかの呼び名はあったと思います。少し時代は下りますが、杉本兼秋は大作品、小作品と呼んでいます。
:私が不満に思うのは、明治・大正のわずか十数例で、この時期は未だ短篇成立せずと言い切るのは検証不十分だという点です。
:まさに私が「同意見」だと言ったのはその点です。明治・大正時代の新聞雑誌にどのような懸賞問題が出題されていたのか、もう少し材料が欲しいのですがね。
:詰パラに「明治詰物考」という連載があったのではありませんか?
:もちろん承知しています。1973年です。明治後半に各新聞で活躍した小松三香という人がいますが、紹介された7題を見ると9、13、9、27、27、25、25手でした。こんにちでいう短篇からははみ出ています。
:現代的な短篇の手数になっていないというだけで、それは既に短篇という認識なのではありませんか?
:なるほどそうかも知れません。こんにちの短篇の手数区分に捕らわれていました。杉本兼秋の「私の古名作鑑賞」を見ると、勇略の69番(25手)、72番(19手)を短篇、図巧74番(21手)を小作品と言い、無双34番(33手)、67番(33手)、91番(31手)、図巧46番(43手)を中篇、玉図62番(61手)を大作と言っています。
さらに、1943年6月号に「名局に觀る」という記事を書いていますが、副題は「圖巧短篇作品鑑賞」。そこで掲げられた作品は21、27、17、23、23、21、21、25、15、13手です。前回の「成立」にもチラッと書きましたが、30手位までは短篇という認識ですね。
:杉本だけでは不十分ですので、例えば加藤文卓や山村兎月はどうですか?
:加藤は駒数の少ない作品にはよく言及していますが、短手数には特に触れていないようです。もっとも、第一部と第二部に分かれる以前の懸賞詰将棋は中長篇主体ですから短い作品はほとんどなく、分離後まもなく解説を降りましたのでね。「圖巧解説」で手数に触れているのは第36番の13手詰に「手數少なき」とあるだけです。山村は『将棋勇略』解説で「僅少なる」15手詰、27手詰、第一部の解説では「僅僅参拾餘手詰」と書いていますので、短篇の範囲はやはり広いです。
また、里見義周ですが、1941年1月号の「新任の辯」の中で、「一部は長篇、二部は中篇、三部に於ては短篇作品を夫々扱ふ」と明確に書いていますが、里見選者時代の三部の最長手数は29手です。これは杉本の「短篇」とほとんど同じです。
:その頃の新聞詰将棋はどうですか?
:戦前の名古屋新聞の詰将棋ならデータがあります。1936年5月から1940年1月に至る出題作を田代邦夫氏が詰パラ誌上で1971年から72年にかけて紹介しています。手数は7手から53手です。全188局の内17手以内が101局、19手以上が87局です。
:それは誰が出題していたのですか?
:一般の投稿を受け付けていたので、特定の出題者がいたわけではありません。といっても、選題を担当していた飯島正郎との縁が深かった山田芳久の出題が多く49局、飯島が37局というところです。
:新聞詰将棋でも戦前の段階では短篇の範囲が広かったということですね。
:そういうことになります。担当者の飯島が月報1937年4月号に「詰將棋創作懸賞募集」という記事を書いていますので、一部紹介しましょう。
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 作品は概して大きいものが集りやすい状勢にある。しかし私はその反對に小さい物を求めてゐる。
 これは重大な点であって、専問(ママ)雜誌に載せる詰將棋と、新聞紙上に載せるものとでは相當範圍に違った点のあることを認識しなくてはならないことだ。
(中略)
 私は長くて二十手、いゝ處は十一、二手位のものと思ってゐる。
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:これは里見、杉本より範囲を狭めていますね。現代の感覚に近いと思いますが、出題作としては「大きいもの」が多くならざるを得なかったのでしょうか。
:募集要項では手数について触れていないのです。ところで第一回の看寿賞の手数区分はどうだったか、知っていますか?
:現在と同じ、17手以内が短篇、49手以内が中篇、ですか?
:短篇は19手以内で、中篇は21手以上49手以内なので、ほんの少し違います。旧パラ1951年3月号に明記してあります。
:ということは短篇30手以内説が、20手以内説に敗れたと。
:勝ち負けの問題ではありませんが、戦後になってそういうところへ収斂したのですね。しかし、同じ時期の詰将棋学校を見ると、手数区分は現在とかなり違います。当時は厳然たる区別はありませんが、小学校19手、中学校27手、高校は55手といった出題もありました。
:要するに、短篇といい、中篇といっても、手数区分は不変のものではないということですね。
:それで、前回から再考した結果ですが、こんにちの手数区分に近い考え方はやはり高橋與三郎の「詰手幼稚園」あたりが嚆矢ではないかと思われます。しかし呼び方は小品であれ短篇であれ、30手位までを「より短い作品」とする認識は明治の時点で成立していた、と言えると思います。

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