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2017年1月22日 (日)

「短篇詰将棋」の成立

 短篇詰将棋とはどんなものですか?
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 「手数の短い詰将棋のこと。13手詰めくらいまでの詰将棋をいう」
 『日本将棋用語事典』(2004/12東京堂出版)
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5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1616 馬法 1 4 3 11 12 9 40 80
1636 智実 1 6 8 4 15 65 1 100
1646 衆妙 1 2 5 8 12 5 66 1 100
1649 駒競 5 7 6 11 5 65 1 100
1669 手鑑 1 8 1 2 17 62 9 100
1700 勇略 1 2 6 2 87 2 100
1724 手段草 9 1 4 3 73 10 100
1734 無双 1 4 3 3 3 68 18 100
享保? 妙案 1 1 4 5 3 7 7 49 23 100
1755 図巧 1 1 5 4 5 70 14 100
1765 大綱 3 3 5 2 6 72 9 100
1786 舞玉 2 3 1 4 1 75 14 100
1792 玉図 2 6 6 72 14 100

 上記の表はおもな古典作品集の手数を短篇を中心にしてあらわしたものです。13手でなく、17手詰までを短篇とみなし、19手詰以上と分けたのは、詰将棋パラダイス誌(看寿賞)の区分に従っています。19~が中篇、51~は長篇です。同様に詰パラに倣っています。
 さて、短篇はいつ成立したか。
 表を見る限り草創期から短篇はあったといえるでしょう。
 しかしこれら短手数の作品は「短篇」として明確に認識されていたのかどうかが問題です。「長篇」の認識はあったか、と言っても良い。「長篇」という括りがなければ「短篇」は存在しないからです。

 こんにちでは、短篇、中篇、長篇はもっぱら手数により区分けされています。数字で境界を決めるのが分かりやすいためで、内容で分けるとなると甲論乙論花盛りで収拾がつかなくなるでしょう。
 その手数にしても、「近代将棋」では塚田賞の短篇の区分は当初「16手以内」でしたが、85期(1995年1月~6月)から19手までに変わりました。分かりやすいと思われる手数による区分でも変遷があったのです。上記事典の13手というのはどこから来たのでしょうか。ちなみに同書では中篇は15~29手、長篇は31手以上となっていました。
 江戸時代に手数の長短に触れた記述があれば、その時代の意識が検証できそうですが、不勉強のせいもあって今のところ確認できません。手数区分による括りがなかったとしたら詰将棋作品を分けていたものは何か。あるいはそもそも括りがあったのかどうか。


 江戸時代は措くとして、新聞や雑誌に詰将棋が掲載されるようになった明治時代はどうだったでしょうか。深田久弥氏の「新聞詰将棋のはじめから全国紙普及まで東西十五紙の初掲十八題を点検する」(『秀局懐古録』下巻1987年8月・田邊重信)に、1881年の有喜世新聞から1915年の大阪毎日新聞に至る15紙のはじめの出題作18局が紹介されていますが、その内訳は次の通りです。

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1 1 1 2 1 11 1 18

 19手以上の中には、30手台が3局あり、最長は73手詰です。これを見る限り、明治期においては新聞といえども短篇だけでなく中篇も掲載されていたことが分かります。
 では 時代が下って、将棋に関わる戦前の雑誌ではどうだったか。「將棋月報」以外の「將棋之友」(1924/11~1925/6?)、「將棋新誌」(1925/1~1928/12)、「將棊の国」
(1925/12?~1926/5?)などは私には見る術がないので月報の懸賞出題を中心に考えてみます。
「の」は能の変体仮名、「国」は「國」ではない。発行期間は『将棋の博物誌』(越智信義1995/10・三一書房)による)。
 月報創刊号以前の1924年4月号から1926年5月までの懸賞出題作の手数は次の通りです。局数は多少前後するかも知れません。

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
2 8 5 6 5 76 17 119

 明らかに中長篇偏重です。
 1926年6月号から第一部と第二部に分離されました。なぜ分かれたかというと、「讀者の聲」欄への投稿がきっかけです。

1926年3月号
---
難問を希望す
誌友の中には大分初心詰をといふ希望がある様ですが、成程實際には難問より應用の利く塲合が多いでせうけれど、興味本位としては矢張難問の方が實力養成にもなつて良いと思ひます、私はいつも誤る癖に宗看や酒井さんの作物を好んでやつて居る爲か平易なものには兎角興味が薄いのです…
(桂秋生)


これに対して直ちに翌月号で反論が掲載されました。
1926年4月号
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希望二三
三月號讀者の聲を讀みて二三希望を御願致します
第一菊地桂秋君の難問を希望すに付き實際君位の力量の人は難問も宜しきならん初心者には現在のにても難しき物 (中略) 故に今後二題或は三題位難物なれば後二題或は三題位易き物を掲出せられ…
小生も桂秋君同様難問を希望する一人なれども月報は多數の月報なれば難易折半が無易ならん
(池上大門前一力屋投)


 一力屋も解答強豪で、1926年9月号の解答番付では、菊地桂秋の東の大関に対し、一力屋は西の小結でした。


さらに翌月号に前田三桂登場。
1926年5月号
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平等利益
詰將棋黨の一方の旗頭として驕勇無雙の桂秋君が、頻りに難問を所望せらるゝのは非凡の力量ある勇士として當然の要求である、辨慶ならざる愚僧さへも、全く氏と同感であります (中略) さりながら難問によりて極樂の快樂を教授せらるゝ猛者は滄海の一粟にして他の恒河砂數の群生には譬へば猫に小判でニャンの面白味も起らず興趣をも惹かない (中略) 是に於て勇敢なる一力屋君がグッと一力を入れて、難易等分の折衷案を出し…

愚僧も亦桂秋君に黨せんか、一力屋君に從はんかと去就に迷ひ (中略) けれども其所は多年悟道に入つた丈けの修業の甲斐あつて、妙案を考へ付いた
◆詰將棋出題を甲部と乙部の二組に分つ
一甲部には重に難問を出題す
一乙部には平易なる問題を掲出す

 これが容れられて、6月号から二部制になったというわけです。正に即決。その結果、どうなったでしょうか。

第一部

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1 1 90 36 128

第二部

3 5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1 2 8 10 6 17 10 19 67 140

 これは第三部が登場する直前の1929年3月号までの懸賞出題を手数で区分したものです。第一部は中長篇、第二部は短中篇になりました。まだ「短篇」を認識するに至っていないと思われます。

 1929年4月に第三部が新設されますが、1941年9月までの手数区分は次の通りです(1941年10月に第四部新設)。なお、第三部新設に当たっては何の予告もなく、第一回の出題4局はすべて丸山正爲作でした。

第三部

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
7 17 34 57 64 49 52 125 405

 まだ短中篇が同居しています。しかし19手以上の125局の内訳を見ると、20手台がほとんどで、30手以上は6局だけです。この当時の「短い手数」の感覚は30手以内というものだったのかも知れません。
 実は既に、これ以前に短篇は明確な意識の下に成立していました。

 高橋與三郎が1927年6月から始めた「詰手幼稚園」というコーナーがそれです。以下は口上です。

Photo

 1929年5月まで続き、第三部と入れ替わるように終了しました。内訳は次の通りです。

5 7 9 11 13 15 17 19 21 23 27
5 6 4 2 1 1 1 1 1 1 1 24

 このうち、21手と27手は最終月1929年5月号。6月号に高橋は「近來駒數を増し手數も長くなりし様に思はるゝが元來愚老の意見も丸山君の出題さるゝ位のものを以て適度としてあるのです」として丸山正爲に後を託すというようなことを書いています。

 一般的に短手数のものは易しく、手數が長くなるほど難しいと思われているようで、第一部と第二部に分かれた理由も、詰手幼稚園の存在意義もその点に見出されています(実は難しいのは中篇で、長篇ではないと思われます)。
 つまり、短篇がそれとして定立されたのは、初心者向けの平易なものを、という発想であって手数ではなく難易度の問題に帰していたことが分かります。
 この当時の作品評価の基準を示すものとして、加藤文卓の「圖巧解説」の評言を挙げておきます。そこで強調されていることは、「駒の活動の甚だ複雜なる」、「詰め難き局面を呈して居り」、「駒の運用複雜せる」、などもっぱら難解性に触れています。「讀者の聲」欄でも問われていたのは手数の長短ではなく、難解性でした。


 月報を管見した範囲では、短篇、中篇、長篇などの用語があらわれるのは1936年7月号の「續詰將棋講座」(里見凸歩)が最初ではないかと思いますが、くまなく調べたわけではないので、さらに古い例がありそうな気
します。

 ここで終わっても良いのですが、短篇に特化することが短篇の成立と言えるなら、『待宵』はどうなのかという意見がありそうです。
 『待宵』の手数区分です。

5 7 9 11 13 15 17 19 23
4 8 7 10 7 4 6 2 2 50

 これ、短篇集ですね。(汗)
 『待宵』は1866年刊(?)、渡瀬荘次郎作といわれています。
 「『待宵』 研究の現状」 参照。
 同集には古図式が10局以上(改作含む)混じっており、作者についても判然としないところがあります。どれくらい流通したのかも疑問です。
 「やや堅い本の場合、初版・初刷りは百数十部から数百部」(『江戸の板本』中野三敏2015/12・岩波書店)。これは尾張の大板元だった永楽屋の話ですが、「月報四千の讀者」とは大分違います。もっとも、三千の讀者とか五千とかの記事もありますので、正確なところは分かりませんが。

 流通量もさることながら、『待宵』がどのように受け止められたかが皆目分からないので、短篇の成立とは言いにくいのです。例えばこんな話があります。
---

 「文表記の符号には、、。?!などがある。日本人がこれら文表記の符号について述べたのは、伴藁蹊の「国文世ゝの跡」(安永三年)が最初ではないかと思われる。しかし、この試みは一般化せず、明治一四年伊藤圭介が「日本人ノ雅俗文章ニ於ケル。句読段落ヲ表示スルヲ以テ必要トセサルハ。一欠事タルヲ弁ス。」(「東京学士院雑誌」第二編第一〇冊)を発表してから、文章の近代化・改良をめざして、いろいろな試みが行われた」
(『現代日本語講座』第6巻2002/05・明治書院)
---

 どうも、『待宵』は
伴藁蹊「国文世ゝの跡」と同様、一般化しなかったのではないかと思っています。受け容れられたのなら、もっと早く短篇が自立していたはずです。いわば、月の裏側にそっと置かれていたのではないかということです。

(つづく)

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