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2017年1月の7件の記事

2017年1月30日 (月)

実戦型と創作型

(1)
0270

23角、51玉、73角、62飛、42金、61玉、52金、同飛、62金、同飛、
同角成、同玉、92飛、73玉、93飛成、64玉、53龍、55玉、46金、同香、
45角成、66玉、67馬、55玉、64銀
まで25手詰


(2)
0271_2

71銀、同玉、72歩、61玉、53桂、同金、71歩成、同玉、72銀、同玉、
73金、81玉、82銀、92玉、93桂成
まで15手詰


(3)
0272

14桂、同歩、13銀、同香、12金、同玉、24桂、22玉、12金、31玉、
32桂成、同角、22銀、42玉、33銀成、同桂、同馬、同龍、同香成、51玉、
61飛、同玉、53桂、51玉、41桂成、同角、53龍、52歩、42成香、61玉、
71金、同銀、52成香、同角、71香成、同玉、72銀、同玉、73歩成、81玉、
91歩成、同玉、92歩、81玉、82歩、92玉、83と、91玉、92と、同玉、
84桂、82玉、62龍、83玉、72龍、94玉、95歩、同玉、75龍、94玉、
95歩、83玉、72龍、84玉、75龍、83玉、84香、92玉、72龍、91玉、
82龍
まで71手詰(銀が余る)


 (1)(2)はいずれも実戦型の作品、(3)は創作型です。
 なぜなら、作者がそう書いているからです。

Photo_3 Photo_4

 作者は田代武雄、「將棋世界」1939年4月号の作品合評會より。
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詰將棋創作苦心談

 詰將棋には御承知の如く實戰中よりヒントを得た實戰型と古圖よりヒントを得た創作型そして一歩進んで曲詰等であります。
 先づ創作に當つて私は實戰中たまたま終局面に於て好手を以て詰めたる時の圖を筆記してみます。そして之を一個の詰圖として夫れから次の考慮を加へます。
 一、盤上無意味の駒を取捨てる事。
 二、持駒を定め、適當の駒を入れかへて見る事。(例へば金を飛にと云ふ様に)
 三、餘詰早詰の有無を調査する事。
 此の内特に第三の餘詰早詰の調査は、一朝一夕には出來兼ねます故、數日後或は一ヶ月後に調査して意外の缺陥を發見する事は往々あります。
 實戰型としては、之に妙手を加へる事に努力すれば、一の詰圖とする事は難事でないと存じます。次に創作型に就いて述べて見ます。
 古圖の暗示と云ひますか、此の方法にて傑作を得るのも難事ではありません。併し充分の注意を拂つて創作しないと名作も徒勞に終る事がなきにしも非ずです。
 尚創作型には妙手として不成、或は遠打捨駒等々あり。一局の詰圖中、數手に一手は此の好手を取入れる事にしたならば、名作が生れると存じます。亦詰將棋は初手の一手が複雜してゐるこそ難局と思ひます。
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 実に不思議な説明で、「御承知の如く」というのはこの当時の常識だったのでしょうか?
 次に塚田六段(当時)の説明。「將棋世界」1937年11月号。

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實戰型詰將棋に就いて

 一口に詰將棋と云つても、興味本位の物と實戰的と云ひますか、二つの色調があります。
 興味本位の物とは、奇手、妙手、好手等を含んだ所謂詰將棋らしい、詰將棋の事であります。又、
 實戰的と云ひます物は比較的奇手、妙手と云つた手段が少く、かへつて俗手段に妙味が感じられる、詰將棋なのであります。
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 これも釈然としませんが、いずれにしても、ここでいわれている実戦型は必ずしも玉方桂香がある詰将棋を指しているのではなさそうです。
 次に杉本兼秋。「將棋世界」1939年5月号。
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詰將棋の作り方

 詰將棋は其の作品の持つ性質に依
て實戰型作品と創作型作品に分類する事が出来ます。前者の實戰型の場合は或る原型に創作的技巧を加へて順次作品的に形成して行くのであるから豫じめ作品の基礎となるべき素材を得て置く事が必要であります。
(中略)
 創作型作品の構想の困難なる事は到底實戰型の比ではありません。
 從來創作型作品に使用されて來た方法には遠打連續不成、玉方の打歩詰強要、攻方の打歩詰廻避の不詰應用種々ある。
(中略)
 宗看看壽の創始せる創作型は我々平凡人の眼では創始者たる彼等に依
て既にその構想の全部を用ひ盡されたかの感が致しますが、酒井先生の名作等を拝見すると未だ未だ新境地開拓の餘地ある事が解ります。
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 同号には杉本作が5局掲示されていますが、「實戰型作品とは單獨妙手に依りて形成されたる作品」と註をつけられたその四と「創作型作品とは連續妙手によりて形成されたる作品」と註されたその五を紹介します。

その四
0299

25桂、同龍、24銀、同龍、25桂、同龍、35角、22玉、33金、同香、
11飛成、同玉、13香、21玉、12香成、31玉、13角成、41玉、23馬左、32歩、
31馬、同玉、22成香、41玉、51銀成、同玉、33馬、61玉、51馬、同玉、
63桂、61玉、71桂成、同玉、62金、81玉、83香、91玉、82香成
まで39手詰


その五
0300

12銀生、同玉、13歩、11玉、12香、同角、同歩成、同玉、24桂、11玉、
23桂、同馬、12歩、同馬、同桂成、同玉、45角、同金、13歩、11玉、
21歩成、同玉、54角、同香、12歩成、同玉、42飛成、同龍、13歩、11玉、
12金、同龍、同歩成、同玉、13飛、21玉、22歩、同銀、同銀成、同玉、
33飛成、21玉、22銀、12玉、13桂成
まで45手詰


 上記の杉本の一文の舞台裏が月報1939年6月号に掲載されています。
 宮本弓彦から原稿の依頼があったこと、「詰將棋創作に付いて」という題名にしたのに「詰將棋の作り方」という題名に変えられて誌面に載ったことなどが書かれています。
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田代氏も實戰型と創作型に分類されて詳述されてゐたが、氏が實戰型は實戰より暗示を得て作
た作品であると述べられてゐるのに對し自分のは實戰型は氏と同様の場合と又實戰よりの素材に依らない全部創作せる作品でも遠打不成其他の複妙手を含まない實戰の終局面に應用出來る所謂所謂單妙手形成の作品は實戰型に入れてある。
(中略)
創作型に付いては田代氏は古圖より暗示を得た場合と云
てゐられるが、是は自分のとは表現の方法が異なてゐるが意味に於ては同一であると思ふ。
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 三者三様ですが、いずれも妙手の存在を中心にして実戦型を捉えていることが分かります。
 即ち、実戦型とは、田代は「妙手を加へる事に努力」すべきこと、塚田六段は「比較的奇手、妙手と云つた手段が少」いこと、杉本は「単独妙手によつて形成され」る作品なのです。

 実戦型というごく普通のことばでも、このように込められた意味が違うことに留意しなければなりません。
 ちなみに酒井桂史は高橋與三郎が紹介するところによれば、書簡中に「凡そ詰將棋作物には實戰の結果得たるものと作者の趣向より出でたるものとの二大別これあり候やう存じ候 前者を仮りに實戰型と名つけ得べくんば後者を趣向型と名付け申すべく候」と書いています。(月報1926年11月「將棋眞田に就きて」)

2017年1月26日 (木)

「將棋月報」とプロ棋士

「失禮御免へたの横槍」始まる
 昭和3年6月号から前田三桂の「失禮御免へたの横槍」が始まる。これは当時の高段棋士の指し将棋で終盤即詰があるのに詰めなかった棋譜を示して横槍を入れてプロ棋士の詰に対する甘さを指摘したもので、その歯に衣を着せぬ論鋒に読者からは拍手喝采を浴びたが、プロ棋士からは当然ながら快く思われず、月報から離れる棋士が多かった」
湯村光造氏「『将棋月報』で辿る戦前の詰将棋界」1998/11「詰棋めいと」

 「將棋月報」とプロ棋士とは当初良好な関係にあったにもかかわらず、前田三桂の「へたの横槍」による執拗な詰抜け指摘によって離れていったというのは事実だったのでしょうか。

月報1931年5月号
「失禮御免へたの横槍」(三五)
前田三桂
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ヘタの横槍が一時三歩居士からイヂメられて、随分手嚴しい攻撃を受けた
が、今では却て世人の注目を引き、大に歓迎せらるゝやうになつて來た。而して居士はモウ到底横槍の撃退を不可能と思つたのか、名刀を揮ふ事も斷念したらしい。其代りに爰に又陰儉なる勁敵が現はれて來た。其敵は堂々と誌上で爭ふといふ勇氣のある奴ではなく、蛇の如く執念くコソコソと蔭にあつて月報に迫害を加へんとするのであるソウナ
ヘタの横槍は正義の爲に揮ふのであるから、謂はれなき迫害が加へらるゝならば、其加へらるゝに反比例して益々峻烈に猛撃を加へてやるまでである。
玄人の将棋指し共は、其弟子達を戒めて月報を見るなと注意をする。毎々横槍に醜態を暴露されるのを愧づるが爲ではあるが、誠に智慧のない禁制である。
由来見るナと言ふほど見たがるのが人情である。此人心を利用して能く新聞雜誌等に男讀むべからずとか、或は女見るべからずの廣告が出て居る。スルト男なり女なりが貪り讀むものである。
師匠が見るなと排斥する横槍は、弟子達が殘らず讀んで知つて居るのである。否々師匠自身がコツソリ讀んでフンガイして居るのである。
夫れが證據に月報の御得意塲は、聯盟棋士のお膝元の東京が第一で、年々讀者は殖えて行くとのことである。
聯盟棋士の或る者が月報を仇敵の如く心得、常に之に壓迫を加へんとして居るのは事實である。而して是が今に始まつたのではなく随分久しい以前からの事である。
大正十四年十一月二十一日麹町區平河町關根名人方に於て聯盟會臨時總會が開催せられた、其席上で、信州松本市で發刊される「將棋月報」に土居聯盟會長の一身上に關し誹謗に類する記事あるに付き、東京將棋聯盟の決議を以て、之に戒告を與へ、若し其態度を改めざれば、將來聯盟加入の専門棋士は、一切同誌に寄稿しないことにしやうとの提議があつたのである。此會議の詳細は當時發行せられて居た金八段主宰の將棋の國なる雜誌上に明記せられて居る。
此問題が提起せられてから後間も無く各地方の棋士にまで手を延ばして専門棋士の月報への投稿を阻止したのである。月報誌上専門棋士の跡を絶ち、純然たる素人雜誌になつたのは是が爲である。

三歩居士の「名刀の切れ味」は、「へたの横槍」に対抗して、高段棋士の妙手を賞揚する内容でしたが、実はこれも前田の筆によるものでした。
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 「へたの横槍」は1928年6月に始まり1933年8月までほとんど毎月掲載されていったん終了。1934年5月から再開され1943年7月までは断続的に掲載されました。ざっと数えたところ120回以上です。1933年8月までにどんな棋士が槍玉に挙げられたのか調べてみましたが、最も多かったのは溝呂木光治七段で10局以上ありました。次に多かったのが金子金五郎八段です。土居、花田、木村は二三局程度でした。大正時代の棋譜にまで遡って実戦の詰抜けを指摘されるだけでなく、著書に掲載した詰将棋にも余詰ありとして槍玉に挙げられてはたまったものではありません。

 前田三桂の書くところによれば、月報創刊以前の「道樂世界」から既に問題視されていて「各地方の棋士にまで手を延ばして専門棋士の月報への投稿を阻止」したとあります。
 ところが調べてみると、大阪号主幹だった木見金治郎八段は1928年12月まで定跡講義を掲載していますし、花田は1926年7月号まで、木村も1926年9月まで断続的に講義がありますが、月報創刊から2年近く経っています。「地方棋士」の時田慶三郎六段(中京)は1930年あたりは毎月、最終1936年4月まで寄稿していました。
 してみれば、前田三桂の言い分はかなり怪しいといわざるを得ません。

王将1954年5月号
「失禮御免へたの横槍」
前田三桂
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 そもそも俺の横槍の由来と言うは、始め俺は名人上手達を将棋の神の様に崇拝し、その指手は一手一手を絶対至上動かすべからざるものと信じ切っていた。しかるに偶然花田七段対大崎七段の将棋に花田が詰を落しているのに出会った。俺はトンボの眼玉のようにクリクリと動かして吃驚した。花田七段は詰将棋の大家だ。もしか俺の錯覚かも知れんと、入念に棋譜を調べたが、俺の指した手はどこにも狂いはない。ナンダ神様も只の人間だね。では外の七段八段連中の棋譜も調べてやろうとその頃は棋譜は山ほど集めていたから朝から晩まで飯を食うのも忘れ、俺の狭い橘仙居に閉じこもり調べに調べて夜を徹する事もあった。出てくる出てくるソラ出た。又出た。パラッと出たという工合に伏死累々、惨状眼も当てられぬばかりであった。是を塩漬にして独り楽しむのは勿体無いと、月報へ登載し始めたから、サァ大変、芋畠へ野分きが吹き込んで来たように、東都棋壇は動揺して噪ぎ出した。そして俺の将棋の神様の崇拝熱も信仰心も、シャボン玉のようにフワフワと宙に浮いてスーッと音もなく消えてしまった。
 その頃東都棋壇の牛耳を執って居るものは土居八段でその声望は関根名人を圧して居た。土居は月報の行動を束縛せんとし月報誌上に定跡講義を載せる棋士に回章を廻して、投書をしてはならぬと厳命したとの噂が立った。その結果か花田や木見や木村等の高段の定跡講義が一斉に尻切れトンボとなって中絶してしまった。
 定跡講義が載せられなければ、将棋雑誌はこの致命傷のために自滅するより外はない。月報の読者は憤慨して月報擁護のために起ち上り、それぞれ得意の部署に付いて奮斗した。
 月報は東都棋士の迫害に逢い、孤立無援におちいったが、よく堪えて廃刊しなかった。どうした訳か却って東京でよく売れた。読むなと言うほど読みたがるのは人の情で、逆作用をなしたらしい。しかして月報は純詰将棋雑誌になった。月報は詰将棋鼓吹に力瘤を入れて次々に読者の詰図を発行した。このため詰将棋熱が素人間に燎原の火のように炎え拡がり詰将棋愛好家は翕然として月報の傘下に集ってきた。月報は倒れる所か却って隆盛になって、定跡講義はなくても、詰将棋雑誌として自立して行けるようになった。
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 花田、大崎戦が連載第一回目の横槍です。
 これは戦後になってからの文章ですが、「花田や木見や木村等の高段の定跡講義が一斉に尻切れトンボとなって中絶してしまった」のは上述したように、「へたの横槍」の連載が始まってから中絶したのではなく、花田、木村はそれ以前に終わっていましたし、木見はそれ以後も連載していました。前田じしんが月報に書いたものとは違う内容になっています。
 ただし、土居八段の詰将棋は剽窃ぶりが読者からも再三批判を浴びていましたので、恨みを買っていたのは確かでしょう。

 何事も鵜呑みにしてはいけませんね。

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2017年1月28日追記

 その後気がついたことを付け加えておきます。
 まず、1931年5月号の記事において、1925年11月、「聯盟會臨時總會が開催せられた、其席上で」月報に対する「提議」がなされたとありますが、決議するに至ったとは思われないこと。木見八段(当時、坂田八段派とは別個の、大阪の棋正会の首領でした。1926年には東京將棋聯盟と合流して日本將棋聯盟創立。木見は関西支部長に就任)や時田六段に対し「各地方の棋士にまで手を延ばして専門棋士の月報への投稿を阻止した」という事実があったのか疑わしい限りです。
 一方、「へたの横槍」の連載開始後の、1929年の年賀広告には、前年まであった土居、花田、木村の名前は消えています。一定の影響はあったのでしょう。關根、木見、時田は後々まで月報に年賀広告を出しています。
 月報1931年4月号では朝日新聞主催の松本市での将棋大会を大きく報じており、土居、木村など「日本將棋聯盟全員来松」という見出しになっているところから、月報社の側からプロ棋士を誌面から閉め出したということではなかったと思われますし、1934年5月号には大崎八段や金八段が執筆していた「将棋時代」の広告が掲載されており、曰く「『将棋時代』は飽まで研究的であり専門的である、『將棋月報』は批判的で、自由性に富んでゐる。(中略)この異なつた二つの雜誌は異なつてゐるが故に、各々の存在理由があると思ふ」と月報を立てながら宣伝に努めているところなど見ると、月報とプロ棋士の対立なるものは、前田三桂によって面白おかしく仕立てられた話のような印象を受けます。

2017年1月22日 (日)

「短篇詰将棋」の成立

 短篇詰将棋とはどんなものですか?
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 「手数の短い詰将棋のこと。13手詰めくらいまでの詰将棋をいう」
 『日本将棋用語事典』(2004/12東京堂出版)
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5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1616 馬法 1 4 3 11 12 9 40 80
1636 智実 1 6 8 4 15 65 1 100
1646 衆妙 1 2 5 8 12 5 66 1 100
1649 駒競 5 7 6 11 5 65 1 100
1669 手鑑 1 8 1 2 17 62 9 100
1700 勇略 1 2 6 2 87 2 100
1724 手段草 9 1 4 3 73 10 100
1734 無双 1 4 3 3 3 68 18 100
享保? 妙案 1 1 4 5 3 7 7 49 23 100
1755 図巧 1 1 5 4 5 70 14 100
1765 大綱 3 3 5 2 6 72 9 100
1786 舞玉 2 3 1 4 1 75 14 100
1792 玉図 2 6 6 72 14 100

 上記の表はおもな古典作品集の手数を短篇を中心にしてあらわしたものです。13手でなく、17手詰までを短篇とみなし、19手詰以上と分けたのは、詰将棋パラダイス誌(看寿賞)の区分に従っています。19~が中篇、51~は長篇です。同様に詰パラに倣っています。
 さて、短篇はいつ成立したか。
 表を見る限り草創期から短篇はあったといえるでしょう。
 しかしこれら短手数の作品は「短篇」として明確に認識されていたのかどうかが問題です。「長篇」の認識はあったか、と言っても良い。「長篇」という括りがなければ「短篇」は存在しないからです。

 こんにちでは、短篇、中篇、長篇はもっぱら手数により区分けされています。数字で境界を決めるのが分かりやすいためで、内容で分けるとなると甲論乙論花盛りで収拾がつかなくなるでしょう。
 その手数にしても、「近代将棋」では塚田賞の短篇の区分は当初「16手以内」でしたが、85期(1995年1月~6月)から19手までに変わりました。分かりやすいと思われる手数による区分でも変遷があったのです。上記事典の13手というのはどこから来たのでしょうか。ちなみに同書では中篇は15~29手、長篇は31手以上となっていました。
 江戸時代に手数の長短に触れた記述があれば、その時代の意識が検証できそうですが、不勉強のせいもあって今のところ確認できません。手数区分による括りがなかったとしたら詰将棋作品を分けていたものは何か。あるいはそもそも括りがあったのかどうか。


 江戸時代は措くとして、新聞や雑誌に詰将棋が掲載されるようになった明治時代はどうだったでしょうか。深田久弥氏の「新聞詰将棋のはじめから全国紙普及まで東西十五紙の初掲十八題を点検する」(『秀局懐古録』下巻1987年8月・田邊重信)に、1881年の有喜世新聞から1915年の大阪毎日新聞に至る15紙のはじめの出題作18局が紹介されていますが、その内訳は次の通りです。

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1 1 1 2 1 11 1 18

 19手以上の中には、30手台が3局あり、最長は73手詰です。これを見る限り、明治期においては新聞といえども短篇だけでなく中篇も掲載されていたことが分かります。
 では 時代が下って、将棋に関わる戦前の雑誌ではどうだったか。「將棋月報」以外の「將棋之友」(1924/11~1925/6?)、「將棋新誌」(1925/1~1928/12)、「將棊の国」
(1925/12?~1926/5?)などは私には見る術がないので月報の懸賞出題を中心に考えてみます。
「の」は能の変体仮名、「国」は「國」ではない。発行期間は『将棋の博物誌』(越智信義1995/10・三一書房)による)。
 月報創刊号以前の1924年4月号から1926年5月までの懸賞出題作の手数は次の通りです。局数は多少前後するかも知れません。

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
2 8 5 6 5 76 17 119

 明らかに中長篇偏重です。
 1926年6月号から第一部と第二部に分離されました。なぜ分かれたかというと、「讀者の聲」欄への投稿がきっかけです。

1926年3月号
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難問を希望す
誌友の中には大分初心詰をといふ希望がある様ですが、成程實際には難問より應用の利く塲合が多いでせうけれど、興味本位としては矢張難問の方が實力養成にもなつて良いと思ひます、私はいつも誤る癖に宗看や酒井さんの作物を好んでやつて居る爲か平易なものには兎角興味が薄いのです…
(桂秋生)


これに対して直ちに翌月号で反論が掲載されました。
1926年4月号
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希望二三
三月號讀者の聲を讀みて二三希望を御願致します
第一菊地桂秋君の難問を希望すに付き實際君位の力量の人は難問も宜しきならん初心者には現在のにても難しき物 (中略) 故に今後二題或は三題位難物なれば後二題或は三題位易き物を掲出せられ…
小生も桂秋君同様難問を希望する一人なれども月報は多數の月報なれば難易折半が無易ならん
(池上大門前一力屋投)


 一力屋も解答強豪で、1926年9月号の解答番付では、菊地桂秋の東の大関に対し、一力屋は西の小結でした。


さらに翌月号に前田三桂登場。
1926年5月号
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平等利益
詰將棋黨の一方の旗頭として驕勇無雙の桂秋君が、頻りに難問を所望せらるゝのは非凡の力量ある勇士として當然の要求である、辨慶ならざる愚僧さへも、全く氏と同感であります (中略) さりながら難問によりて極樂の快樂を教授せらるゝ猛者は滄海の一粟にして他の恒河砂數の群生には譬へば猫に小判でニャンの面白味も起らず興趣をも惹かない (中略) 是に於て勇敢なる一力屋君がグッと一力を入れて、難易等分の折衷案を出し…

愚僧も亦桂秋君に黨せんか、一力屋君に從はんかと去就に迷ひ (中略) けれども其所は多年悟道に入つた丈けの修業の甲斐あつて、妙案を考へ付いた
◆詰將棋出題を甲部と乙部の二組に分つ
一甲部には重に難問を出題す
一乙部には平易なる問題を掲出す

 これが容れられて、6月号から二部制になったというわけです。正に即決。その結果、どうなったでしょうか。

第一部

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1 1 90 36 128

第二部

3 5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
1 2 8 10 6 17 10 19 67 140

 これは第三部が登場する直前の1929年3月号までの懸賞出題を手数で区分したものです。第一部は中長篇、第二部は短中篇になりました。まだ「短篇」を認識するに至っていないと思われます。

 1929年4月に第三部が新設されますが、1941年9月までの手数区分は次の通りです(1941年10月に第四部新設)。なお、第三部新設に当たっては何の予告もなく、第一回の出題4局はすべて丸山正爲作でした。

第三部

5 7 9 11 13 15 17 19~ 51~
7 17 34 57 64 49 52 125 405

 まだ短中篇が同居しています。しかし19手以上の125局の内訳を見ると、20手台がほとんどで、30手以上は6局だけです。この当時の「短い手数」の感覚は30手以内というものだったのかも知れません。
 実は既に、これ以前に短篇は明確な意識の下に成立していました。

 高橋與三郎が1927年6月から始めた「詰手幼稚園」というコーナーがそれです。以下は口上です。

Photo

 1929年5月まで続き、第三部と入れ替わるように終了しました。内訳は次の通りです。

5 7 9 11 13 15 17 19 21 23 27
5 6 4 2 1 1 1 1 1 1 1 24

 このうち、21手と27手は最終月1929年5月号。6月号に高橋は「近來駒數を増し手數も長くなりし様に思はるゝが元來愚老の意見も丸山君の出題さるゝ位のものを以て適度としてあるのです」として丸山正爲に後を託すというようなことを書いています。

 一般的に短手数のものは易しく、手數が長くなるほど難しいと思われているようで、第一部と第二部に分かれた理由も、詰手幼稚園の存在意義もその点に見出されています(実は難しいのは中篇で、長篇ではないと思われます)。
 つまり、短篇がそれとして定立されたのは、初心者向けの平易なものを、という発想であって手数ではなく難易度の問題に帰していたことが分かります。
 この当時の作品評価の基準を示すものとして、加藤文卓の「圖巧解説」の評言を挙げておきます。そこで強調されていることは、「駒の活動の甚だ複雜なる」、「詰め難き局面を呈して居り」、「駒の運用複雜せる」、などもっぱら難解性に触れています。「讀者の聲」欄でも問われていたのは手数の長短ではなく、難解性でした。


 月報を管見した範囲では、短篇、中篇、長篇などの用語があらわれるのは1936年7月号の「續詰將棋講座」(里見凸歩)が最初ではないかと思いますが、くまなく調べたわけではないので、さらに古い例がありそうな気
します。

 ここで終わっても良いのですが、短篇に特化することが短篇の成立と言えるなら、『待宵』はどうなのかという意見がありそうです。
 『待宵』の手数区分です。

5 7 9 11 13 15 17 19 23
4 8 7 10 7 4 6 2 2 50

 これ、短篇集ですね。(汗)
 『待宵』は1866年刊(?)、渡瀬荘次郎作といわれています。
 「『待宵』 研究の現状」 参照。
 同集には古図式が10局以上(改作含む)混じっており、作者についても判然としないところがあります。どれくらい流通したのかも疑問です。
 「やや堅い本の場合、初版・初刷りは百数十部から数百部」(『江戸の板本』中野三敏2015/12・岩波書店)。これは尾張の大板元だった永楽屋の話ですが、「月報四千の讀者」とは大分違います。もっとも、三千の讀者とか五千とかの記事もありますので、正確なところは分かりませんが。

 流通量もさることながら、『待宵』がどのように受け止められたかが皆目分からないので、短篇の成立とは言いにくいのです。例えばこんな話があります。
---

 「文表記の符号には、、。?!などがある。日本人がこれら文表記の符号について述べたのは、伴藁蹊の「国文世ゝの跡」(安永三年)が最初ではないかと思われる。しかし、この試みは一般化せず、明治一四年伊藤圭介が「日本人ノ雅俗文章ニ於ケル。句読段落ヲ表示スルヲ以テ必要トセサルハ。一欠事タルヲ弁ス。」(「東京学士院雑誌」第二編第一〇冊)を発表してから、文章の近代化・改良をめざして、いろいろな試みが行われた」
(『現代日本語講座』第6巻2002/05・明治書院)
---

 どうも、『待宵』は
伴藁蹊「国文世ゝの跡」と同様、一般化しなかったのではないかと思っています。受け容れられたのなら、もっと早く短篇が自立していたはずです。いわば、月の裏側にそっと置かれていたのではないかということです。

2017年1月11日 (水)

加藤文卓の「圖巧解説」その9

月報1926年9月号

圖巧解説
二峯生

第十六番

0016

此局は駒數少なきに妙手に富める好局であります、そして之は單に小生の感じに過ぎないかも知れませんが此局と第三十一番との間に駒の排(ママ)列の上に或種の類似が認められ興味深く感ぜられます

24角、14玉、13飛、24玉、34飛生、13玉、14歩、23玉、15桂、22玉、
21金、同玉、23香、11玉、22香成、同玉、13歩成、同玉、33飛成、14玉、
13龍、同玉、23角成也(23手詰)


變化
14玉の所
(一)24同とならば12飛成、同玉、11飛、同玉、21香成也
(二)24同玉ならば34飛成、15玉、14飛、26玉、36龍

13同玉の所21玉ならば
12と、同玉、32飛成也

○此局に於ける43桂は必要なる駒であつて之れが若し歩ならば次の餘詰を生ずる即ち
46角、35歩間、同角、同と、12飛成、24玉、36桂、33玉、32飛也

變化
35歩間の所24桂ならば
同角、14玉、26桂、同歩、13飛、24玉、34飛成、13玉、25桂也


第十七番

0017

71角生、84玉、62角生、73桂、96桂、同香、73角生、93玉、94歩、83玉、
95桂、同と、72角成、同玉、95角成、61玉、71龍、同玉、62銀、81玉、
82歩、同玉、73馬、81玉、63馬、72飛、同馬、同玉、73銀打、63玉、
64飛、52玉、61銀生、同龍、同飛成、同玉、63飛、71玉、62飛成、81玉、
72龍迄(41手詰)


變化
84玉の所
(一)82間ならば73龍、同銀、94角成也
(二)83玉ならば72角成、同銀、74銀にても容易なり

73桂間の所
(一)他の間駒を打てば同角にて容易
(二)93玉ならば94歩、82玉、72角成、同銀、73銀也

96同香の所
(一)93玉ならば71角成、83玉、72角成、同銀、94銀
(二)96同とならば73角成、93玉、85桂也

93玉の所83玉ならば
72角成、同玉、64桂、同銀、同角成、76と、73銀、61玉、62銀打、52玉、53歩にても詰む
64同銀の所71玉ならば
72歩、同銀、62銀、81玉、82角成、同玉、72桂成、93玉、94銀にても容易なり

61玉の所76銀ならば
73銀、71玉、62銀生、81玉、82歩、同玉、73馬となりて前記の手順に合す、原書には此方を本文に記載してあつて其れでも勿論差支はないが71龍と捨てる手順が本筋かと思ふので改めて見たのである

72飛間の所72桂間ならば
82銀、同玉、73銀成にて容易に詰む

○盤面に香を四枚並べてあるのは此72飛間の所72香間にては詰がないからである

○71玉の所原書には52玉と記してあるが其れでは二手短くなるから改めたのである

---
 
73同角生は、93玉、94歩、83玉、72角成、同玉、95角成、76と、73銀、71玉、62銀生、81玉、82香、同玉、73馬、81玉、63馬、72香合で逃れ。『詰むや詰まざるや』では76銀となっていますが、それでは以下73銀、71玉、62銀生、81玉、82香、同玉、73馬、81玉、63馬、72香合、73桂、82玉、71銀打、同龍(玉方銀が動いているので83玉とできない)、同銀生、同玉、61桂成、82玉、74桂打で詰みます。
 本局を初めて見たときはとにかく驚きました。の紛れでは持駒銀桂桂香になるのに詰まず、作意なら持駒銀歩で詰む、しかも打歩詰には関係がないというのですから。


第十八番

0018

15桂打、同と、24歩、13玉、14歩、同と、23歩成、同玉、15桂、13玉、
23桂成、同玉、45角、13玉、12角成、同玉、22飛、13玉、24飛成、同と、
31馬、23玉、22馬迄(23手詰)


變化
15同との所
(一)15同飛ならば同桂、同と、22飛也
(二)13玉ならば14歩、同と、23桂成、同玉、15桂、13玉、23桂成、同玉、45角にて本文に準じ詰上り歩一つ殘る

13玉の所15同とならば
45角、13玉、12角成、同玉、22飛、13玉、24馬也

○此局に於て詰方35歩を缺く時は早詰を生ずる即ち
35桂、同と、24歩、13玉、25桂、同と、23歩成、同玉、45角、13玉、12角成、同玉、22飛の詰手順をも生ずる

◎圖巧八番に逃れありと思ひ「91と」を追加したのは大過失でありました、43歩、同玉、33金、同桂ならば34銀と打つて詰があります此手順は兵庫縣今田政一氏からの注意によつて知りました詳しき手順は次號に掲載します

2017年1月 8日 (日)

加藤文卓の「圖巧解説」その8

月報1926年8月号

圖巧解説
二峯生

第十三番

0013

此局も何れの手順を本詰とすべきかは議論の餘地がありませう先づ原書載の手順を假りに本文とは做す事に致します

81飛、
同玉、92銀、82玉、72銀成、同香、73銀、同玉、64銀、同金、
74歩、
同金、84角、同金、74角成、同玉、64金也(17手詰)


變化

81同玉の所73玉ならば
72角成、同香、84金にて容易

73同玉の所他の駒にて取れば

81金にて直ちに詰む

74同金の所84玉ならば
94金、同歩、同角成、74玉、83角、73玉、72角成、74玉、83馬の手順あり

84同金の所同玉ならば
94金、73玉、74角成、同玉、64金迄

◆此變化
の部は本文に記せしものより二手延びる此手順を以て本文となすも或は可ならむか但原書の手順には74角成り捨ての好手が現れて居るが此變化の部には其れが缺けて居る斯かる場合何を本詰とすべきかは議論の分るゝ所と思ふ

◆此局に於て玉方85香は桂であつても差支はないが歩では餘詰を生ずる即ち前記72銀成の所に91銀打と指しても詰となり左に其手順を略記せば
72銀成の所
91銀打、73玉、72銀成、
84玉、94金、同歩、
同角成、74玉、83銀生、同龍、64と、同金、83馬、
同玉、82飛、74玉、
84飛成、
65玉、64龍、76玉、66龍、87玉、88歩、97玉、77龍、98玉、
87角、99玉、98金、89玉、78龍也

變化

84玉の所72同香ならば
64銀、同金、82角、84玉、94金也

83同玉の所63玉ならば
33飛、52玉、43角也

65玉の所84同玉ならば
73角、93玉、82角也、84玉、73馬、93玉、82銀生、92玉、91銀成、93玉、92成銀の手順あり

76玉の所56玉ならば
38角、47香間、66龍、45玉、46龍、34玉、44龍、23玉、33金以下詰なり

47香間の所47角間ならば
46金、57玉、47金、58玉、59歩、同玉、77角也

23玉の所25玉ならば
16金、36玉、46龍也

97玉の所98玉ならば
87角、89玉、69龍、79金間、99金の手順あり

98玉の所96玉ならば
87龍、95玉、96金、84玉、85龍也
作者が85へ歩を置かずに香を配置したのは餘詰に備へたものと思ひます

---

 本手順の変化84玉だと、94金、同歩、同角成、74玉、83角以下23手で、6手変長駒余りです。
 しかし、85歩では余詰を生じるので香にしたというあたり、実によく調べています。


第十四番

0014

此局は玉稍もすれば中原に逸出せむとする形勢なるに詰方は飛龍を犠牲として巧妙に之を防ぎ次に四桂を捨てゝ玉を雪隠に追ひ詰める手段實に巧なる好局と思ひます

22飛成、
同玉、34桂、12玉、21龍、同玉、31歩成、11玉、22銀、12玉、
24桂、同馬、21銀生、11玉、22桂成、同玉、32馬、11玉、23桂、同馬、
12銀成、同馬、23桂、同馬、21馬迄(25手)



變化

22同玉の所同馬ならば
24桂、11玉、12銀、同馬、同桂成、同玉、24桂、22玉、44角、33間、31馬、23玉、13馬、同玉、16龍、23玉、14龍、22玉、12龍也

11玉の所23玉ならば
34銀、24玉、42馬、33桂間、25歩、15玉、17龍、16間、27桂也

22玉の所23玉ならば
12角、24玉、34角成、15玉、42馬にて容易なり

33間の所23玉ならば
31歩成、24玉、42馬にて容易なり

11玉の所12玉ならば
24桂、同馬、22桂成、同玉、32馬、12玉、23銀、同馬、21馬也

12同玉の所22同馬ならば
同桂成、同玉、32馬、12玉、23角にても詰む

◆此図に於て玉方「55と」を缺く時は餘詰を生ずる其手順を略記せば次の如くである
24桂、同馬、23銀、同馬、同飛成、同玉、31歩成、
33玉、22角、43玉、
47龍、53玉、44角成、64玉、56桂、
73玉、77龍、83玉、74馬、94玉、
86桂、93玉、71馬、82間、97龍にても詰む

33玉の所24玉ならば
42馬、33間、15角、同玉、33馬にても詰む

73玉の所75玉ならば
77龍、85玉、86龍にても詰みあり

83玉の所82玉ならば
71馬、91玉、97龍、92間、83桂也

◆筆者所持の將棋新報社發行の將棋圖巧には此図の55とを詰方の駒として記し、註に「原書55とは玉方の駒としてあり然る時は22飛成、同玉とせず22飛成、同馬、24桂、11玉、12銀、同馬、同桂成、同玉にて此時55と詰方のとにあらざれば詰手なし故に改む」と書いてありますが之れは大なる誤と思ひます


第十五番

0015

本局は詰方の86香が玉方の94桂に狙はれて居る爲め詰め難き局面を呈して居り且つ稍々もすれば打歩詰とならむとする形勢も見えますが92桂のなり捨て72龍51角不成等の妙手を以て巧みに成功する所巧妙なる局と思ひます

84桂、
83玉、92桂成、同玉、82香成、同金、91飛、83玉、72龍、同玉、
63歩成、同玉、64歩、同と、53金、
72玉、73角成、同玉、51角生、72玉、
71飛成、83玉、84歩、93玉、82龍、同玉、73角成、同玉、83金迄(29手詰)



變化

83玉の所93玉ならば
92桂成、同玉、91桂成、93玉、84角成、同龍、63龍、73間、同龍、同龍、92金也

93玉の所
(一)91同玉ならば82香成、同玉、71龍也
(二)91同龍ならば93歩、同玉、71角成、同龍、83金也

92同玉の所86桂ならば
82成桂、同金、84飛、93玉、91龍、92間、82飛成也

72同玉の所同金ならば
84歩、82玉、81桂成也

72玉の所53同香ならば
同角右成、72玉、71飛成、83玉、85香也

72玉の所62歩間ならば
同角生、72玉、71飛成、83玉、84歩、93玉、82龍、同玉、73角成、同玉、83金迄
にて本文より二手延びるも詰上り歩一つ残る且つ此手順にては前記73角成の所73金、91玉、92歩と指しても詰を生ずる

◆原書及將棋新報社發行の圖巧には皆51角成と記されてあるが其れでは62歩間と指されて逃れとなる且此51角不成と指す事が原作者の意であらうと思はれるから斯く改めたのである

◆玉方94桂を歩とせば種々の餘詰を生ずる即ち
(一)91桂成、同龍、84桂、83玉、72龍、同金、同桂成にても詰み 又
(二)84桂、83玉、72龍、同龍、同桂成と指しても詰となる

---
 収束、73角成に同玉と取るのが妙手説です。現在なら92玉で変長駒余りとされます。

2017年1月 3日 (火)

加藤文卓の「圖巧解説」その7

月報1926年7月号

圖巧解説
二峯生

第十一番

0011

此局は駒の活動可なり複雜して居りますが一駒を捨てゝは一駒を寄せつゝ玉を遂に九筋に追撃して窮地に陥らしむる手順巧妙なる好局と思ひます

63香成、同桂、61銀、同玉、73桂、同成銀、62銀、72玉、73銀成、同玉、
74歩、同玉、85銀、73玉、64龍、同と、同角、72玉、73角成、同玉、
74歩、72玉、64桂、71玉、81歩成、同玉、72角、71玉、82桂成、同玉、
73歩成、同玉、63金、82玉、74桂、92玉、83角成、同玉、84歩、92玉、
82桂成、同玉、72桂成、92玉、83歩成、同玉、73金、92玉、82成桂迄(49手詰)


變化
61玉の所73玉ならば
74歩、同玉、85銀にて容易なり

73同成銀の所72玉ならば
61銀、73玉、74歩、同玉、85銀、73玉、64角也

○此圖に於ける玉方52歩は一見不要駒の如く見えるが之を缺く時は次の早詰を生ずる即ち
63香成、同桂、64桂打、同と、同桂、同成銀、62金、同玉、53銀、61玉、62銀打、72玉、73銀成、同玉、64龍、72玉、73銀也
62同玉の所73玉ならば
74歩、同成銀、64銀、同成銀、同龍、62玉、53銀、61玉、62銀打也


第十二番

0012

本局は駒數少なきに妙手に富める好局でありますが何れの詰手順を以て本詰となりますが至當かに就いては議論の餘地がある事と思ひます此所には假に原書記載の手順を本詰と看做して掲載する事と致しました

23飛、32玉、13飛生、21玉、23飛生、22銀、13桂、11玉、12歩、同玉、
24桂、11玉、21桂成、同玉、33桂、11玉、12桂成、同玉、13馬、同銀、
21飛成也(21手詰)


變化
21玉の所23歩間ならば6
同飛成、42玉、54桂、52玉、64桂、61玉、63龍也

22銀の所22桂間ならば
13桂、32玉、53飛成、14桂、34飛、22玉、21桂成、同玉、23龍、22間、13桂也

11玉の所33同香ならば
22飛成、同玉、23銀、21玉、32桂也、同龍、同銀成、11玉、21飛、12玉、23馬也

○此變化はの部の手順は本文より6手長く之を以て本詰と看做す方がより至當かと思はれる。但此所に遺憾に思はれる事は此手順に於ては32同銀成以下種々の詰手順のある事である

○此圖に於て玉方34歩を缺く時は餘詰を生ずる其手順は稍稍複雜して居るが之を略記すれば
23飛打、32玉、24飛成、43玉、55桂、53玉、63桂也、同玉、41馬、52角間、同馬、同玉、54龍、53歩間、63角、42玉、41飛、32玉、43龍、22玉、31飛成、同玉、34香也

變化
43玉の所42玉ならば
44龍、52玉、41馬、61玉、51飛、72玉、64龍也

52角間の所
(一)52へ金銀の間ならば全く同様の手順にても詰む
(二)52へ桂香歩の間ならば75桂と指して容易に詰む

53歩間の所53金間ならば
51飛、同玉、53龍也

---
 作意は21手ですが、27手の長手数
変化があります。
 4×4のコンパクトな構図に桂の打ち換えが入って、現代風ですが、6手変長は痛い。第75番は8手変長、無双第1番は16手の大変長ですが、いくら妙手説の時代といっても、それなりの許容範囲はあったと思うのですが。

2017年1月 2日 (月)

命名

 戦前の「將棋月報」の出題作で命名された作品は2局しかありません。作者自ら名付けたことが確実なのは、1924年10月の奥坂金次郎作「豐秋」。出題欄の余白に「駒悉くを盤上に配置し『豐秋』と題したり月報社の隆盛を祝す爲め之を寄贈す」とあります。

伊勢 五段 奥坂金次郎氏作

3230

84成香、同桂、同角、92玉、93金、同桂、同角成、同玉、85桂、92玉、
84桂、同歩、93桂成、81玉、83龍、71玉、82龍、61玉、51歩成、同玉、
33角成、同歩、53香、41玉、52龍、31玉、21と、同玉、11歩成、31玉、
23桂生、同金、32銀、22玉、23銀成、同玉、12龍、24玉、14金、25玉、
23龍、36玉、37銀上、47玉、57と、38玉、49金、同玉、29龍、同と、
48飛、59玉、58と、69玉、68と、79玉、78金、89玉、49飛、98玉、
97と、同玉、99飛、98角、89桂、96玉、98飛、85玉、77桂、75玉、
76歩、同玉、96飛、86角合、同飛、75玉、57角、66桂合、同角、同銀、
76飛、同玉、88桂、75玉、86角
まで85手詰


 
23桂生の手順前後はありますが、収束の捨合など良くできていると思います。

 もう一局は酒井桂史の「天馬空行」ですが、こちらは1931年9月の山村兎月の「前號詰將棋解説」中に「本局は酒井先生一大作物なり二枚馬の活動を主眼として作爲したるものにして一名『天馬空行』と題す」とあり、名付けたのは酒井のように取れますが、山村かも知れません。

 図巧第99番の「煙詰」は誰が名付けたのか判然としませんが、第100番の「寿」は「戦前、将棋世界で本局の愛称を募集し」た結果決まった名前だそうです(古図式全書第六巻・門脇芳雄解説)。
 詰将棋作品に命名することは現在では珍しくありませんが、これを始めたのは「将棋評論」で、「一般投稿の新作すべてに命名を…と募集要項に明記して実行された」そうです(「詰棋めいと」第23号川崎弘氏による)。そういえば柏川悦夫作に「鎖鎌」(将棋評論1952年2月・『駒と人生』第34番)という中篇がありました。
 黒川一郎氏が命名に熱心だったことはよく知られていますが、名前があろうとなかろうと良い作品は生き残り、そうでない作品は消えていくのではないでしょうか。

 題名は固有名詞であり、固有名詞とは特定の事物に付けられた名前です。『鏡の国のアリス』にはこんなやりとりがあります。
 「そんな突っ立って一人でブツブツ言ってるんじゃない。名前と用件を述べたまえ」
 「あたしの名前はアリスですけど、でも――」
 「聞くからに間抜けな名前だ!」とハンプティ・ダンプティは、短気そうに口をはさみます。「それでどういう意味?」
 「名前って、意味がなきゃいけないんですか?」アリスは疑わしそうにたずねます。
 「いけないに決まってるだろうが」ハンプティ・ダンプティはちょっと笑いました。「わたしの名前はといえば、これはわたしの形を意味しておる――しかも、すてきでかっこいい形であるな。あんたのみたいな名前では、ほとんどどんな形にだってなれそうじゃないか」
<(C) 2000 山形浩生 プロジェクト杉田玄白正式参加作品>

 ハンプティ・ダンプティはずんぐりむっくりという意味です。名は体を表さなければならないというのがハンプティ・ダンプティの信念なのです。

 さらにブヨとの次のような会話もあります。
 「――だったらきみは、昆虫はみんなきらいなの?」とブヨは、なにごともなかったかのように、静かにつづけました。
 「しゃべれると昆虫も好きよ。あたしがきたところだと、話す昆虫なんかぜんぜんいないもん」
 「どういう昆虫に熱狂するの、きみのきたところだと?」とブヨがたずねます。
 「あたし、昆虫に熱狂したりはしないわよ。ちょっとこわいんだもの――特に大きいのは。でも、名前なら少しはわかるけど」とアリスは説明します。
 「もちろん昆虫は、名前を呼ばれたら答えるんだよね?」とブヨはなにげなく言います。
 「あたしはそういうおぼえはないけど」
 「呼ばれて答えないんなら、その子たちは名前なんかあってもしょうがないじゃないの」とブヨ。
 「そりゃ昆虫には役に立たないだろうけど、でも名前をつけた人間には役にたつんだと思うな。だってそうでなきゃ、なぜそもそもいろんなものに名前なんかついてるのよ」とアリス。

 ここでは固有名詞と普通名詞が一緒くたになっているようですが、「名前をつけた人間には役にたつ」というのはその通りですね。
 こんなナゾナゾがありました。
 「自分のものだけど自分より他の人がよくつかうものはなあに?」
 答えは「自分の名前」というものですが、人間以外の事物の場合は自分が使うことはそもそもできず、呼ばれるしかありません。命名は一方的なものです。人間の場合でも、生まれてきたこどもは本人に相談もなく、一方的に命名されるわけです。(笑)

 生れ来て父の投網に屈しけり(永田耕衣)

 名は体を表さなければならない(人の名前は別ですが)、役に立たなければならない、この二つが命名の意義だとすると詰将棋作品にも適用できそうです。
 つまり、容易に想起できない事物を参照するような命名は褒められないということです。橋本孝治作「イオニゼーション」(近代将棋1985年12月、789手詰)は玉方香歩の位置を順次変えていく論理的であると同時に幻想的な作品で当時の新趣向ですが、まず、イオン化という現象が分からない上に、題名の由来である「イオニゼーション」という曲も今に至るも聴いたことがない、というわけで困ったものです。(笑)   一方、作品名を聞けば、それがどんな作品か思い出すことはできる。この場合、作品を知っているから長々しい説明は不要なためで、題名が作品を指示する役目を果たしていることは確かですが、それでも題名によってこの作品が理解できるわけではない。しかし作品を知らない場合は、いくら耳元で題名を叫ばれても知らないものは思い出せないのです。
 命名が必ずなくてはならないとも、これはという作には命名した方が良いとも思わないので、一度も命名したことはありません。
 「徳島の住人ならではの命名で、作品価値にプラス・アルファが生じました」。これは近藤孝作「阿波踊」(近代将棋1974年9月)に対する森田正司氏の解説、「この巧妙な趣向手順にふさわしい命名があれば、もっと評価が高まっていたのではないでしょうか」。こちらは上島正一作(
近代将棋1975年10月)に対する同氏の解説(いずれも『近代将棋図式精選』1983年1月)ですが、命名によって作品価値が増すというのはとても信じられません。およそ作品に合わない命名をしてマイナスになることはあると思いますが。
 命名に反対はしませんが、作品の側からすれば拒む術がないわけですから、見るものをして納得せしめるような命名をして欲しいと思います。
 くどいようですが、上田吉一作「モザイク」や「モビール」は、題名がなくても名作であることに何ら影響はなく、
題名が価値を高めたわけではないことは強調しておきたいと思います。

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