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2016年12月25日 (日)

將棋の比喩

 「將棋月報」1940年10月号に、「將棋の比喩」と題してソシュールの『一般言語学講義』が紹介されていたのには驚きました。大哲巳太郎という人の記事ですが、何者なのでしょうか。
 かつて大流行した構造主義を後追いでとりあえず知っておこうと思って入門書の類を買った記憶がありますが、さっぱり分かりませんでした。(笑)
 大哲は1939年5月「詰將棋拾遺」(詰棋欄出題作に対する山村兎月解説の誤りを衝いたもの)で月報に初登場。何度か記事を書いている論客で、作品は発表していないようです。蒐集家だったと見えて、1940年1月号の「昭和十四年度詰將棋界回顧」では前年に発行された新聞、雑誌に掲載された詰将棋作品数を細かく調べ上げています。これによると月報は88局、「將棋日本」は35局、「將棋世界」は32局(いずれも愛棋家作品の数)となっています。

 最近必要に迫られて一讀したものにソシユール原著、小林英夫氏譯『言語學原論』(昭和十五年三月岩波書店發行)がある。
 原著者フエルヂナン・ド・ソシユールは一八五七年ジユーネーヴに生れ、一九一三年にその比較的短い生涯を終るまで、郷里の大學に於て、比較言語學及び梵語學を講じて居た。没後その講義の草案と學生の筆記とを照合して編纂されたのが本書である
 本書は譯者の序に「一般入門書の如く常識の涵養を目差したものではなくして、著者が生涯をあげての沈潜熟思の結晶なのであるから、不用意な通讀によつて理解されうる如き書物ではない。と斷つてある様に、深遠難解を以て解せられ、精緻な理解力を用意してとりかからねばならぬ程、暗示的なまた象徴的な表現をとつて居るものであるが、併し、随所に剴切な比喩形容を挿入して讀者の理解力を援助して呉れるので、知らず知らずに讀まされてしまふ。就中、得意な比喩は將棋の駒の形容であるが、將棋に關する比喩を數個所に見受けたので、次に書きとめて置くことにする。

 『言語學原論』とありますが、これが最初の邦訳書名(1928年岡書院、原書は1916年)で、世界で初めての外国語訳でした。岩波は岡書院から版権を取得したのですが、現在の岩波版は1972年の改訳です。ソシュールと言えば、時枝誠記による批判を思い出しますが、時枝と小林は京城帝国大学の同僚でした。
 出版されたものは、編者によって恣意的に配列が変えられたり意見が差し挟まれたりして、実際の講義に忠実ではなかったことが明らかになっています。

 著者は、『言語の内的要素と外的要素』の一節に於て「言語に關する我々の定義は、我々が凡そ言語の組織、体系に關係なきもの、一言にしていへば『外的言語學の名稱をもつて示しうるものを惡(ママ=悉の誤字)く斥けることを豫定してゐる。と述べて併しこの外的言語を重要な事物を扱ふものであつて、言語活動の研究に著(ママ=着の誤字)手するに當り先づ想到するものは主として之であるとして、外的言語學に於ては、言語學が民族學や政治史に接觸する方面を考へるものであることに言及した後、「内的言語學にあつては、之と全く事情を異にする。それはいかなる手加減をも許さない。言語はその固有の秩序しか知らぬ体系である。」として、更に兩者の區別を明瞭に理解させるために、將棋を引用して居る。
 即ち將棋に於ては、「外的なものと内的なものとを見分けることが、比較的容易である、ペルシヤからヨーロツパに渡つたといふことは、外的事實である、之に反して体系及び規則に關することはすべて内的事實である。いま私が木製の駒を象牙の駒に変へたとしても、体系には毫末の變化も與へない(これは外的方面に就いての比喩である。)然るに駒の數を増減するときは、將棋の『文法』を根底から覆へすであらう(これは内的方面に就いての比喩である。)」(本書三六頁=38頁。尚ほ括弧内は筆者補足)と説明して呉れる。
 更に、斯様に將棋を説明の用に供して、讀者の行きづまりを展開させ、緊張した氣持をほご(ママ)せて居る個所を拾つてみやう。
 科學の對象となる領域の多くでは、例へば、動物學では動物といふものが始めから提供されて居る様に、單位の問題はおよそ問題にさへならず、一擧に與へられて居るのである。或る科學が直ちに認識出來る具體的單位を示さぬときは、それがそこに於て本質的でない證據であつて、例へば歴史にあつてはそれは個人か時代か國民が知らず知る必要ありやの点を明らかにせずとも史書を編むことが出來るのである。「然るに將棋の要領が全く諸種の駒の組合せにあると同じ」(本書一四二頁=150頁)様に、言語は完全にその具體的單位の對立を土臺とするものであつて、人はそれ等を知らずに濟ますわけにはいかず、それ等を手掛りとせずしては一歩も踏み出すことは出來ぬのであると述べて居る。
 又、言語の如く要素が一定の法則に從ひ互に均衡を保つところの記號學的體系に於ては、同一性の概念は價値の概念と本質的に異るものではなく、互に融合するものであつて、これを將棋と比較してみれば納得が行くものと思ふとして、此の場合にも將棋の例を引用している。即ち「桂馬をとつてみる。それは單獨で競技の要素であるか。確かにさうでない。それはその置かれた番の目やその他の競技條件から外に出てその純粋の資料性においてある時は、指手にとつては何んらの意味をもたらさず、それが實在的、具體的要素となるには、苟もその價値を身につけ、それと一体にならねばならぬ。いま勝負の最中に此の駒を割つたとか紛失したとか、したとする。その時は他の等價の駒と代へることができやうか。差支ない。もう一つの桂馬でよいのみか、同じ價値をもたせさへすればそれと似ても似つかぬ恰好のものでも同じものと看做されやう。」(本書一四六頁=154頁
 因に、勿論これは自明のことで、特にお斷りする必要はないかも知れないが、原著者の比喩に好んで提供される將棋は、西洋將棋即ちチエスの場合をさすのであつてこれは日本將棋と少しく趣きを異にする。両者の差異はこまかい点を擧げれば種々あるが、原則として敵から奪取した駒を味方のそれとして使用することのない點が西洋將棋の著しい特徴であらう。又、西洋將棋に使用せられる駒は、日本將棋のそれが平面的であるのに對して、立体的にしてなかなか贅澤なものが多く、象牙に緻密な彫刻を施した美術的なものもある。
 前掲に、著者が「駒を割つたとか紛失したとか」場合に「同じ價値をもたせさへすればそれと似ても似つかぬ恰好のものでも同じものと看做されやう。」と述べて居る個所に就いては、たまたま紛失した『歩』の駒の代用として、燐寸軸或は煙草の箱の一片を急場の間に合せて勝負を争ふのを普通として何人も疑はぬ。かの縁臺將棋の如き光景が想ひ浮ぶであらう。
(中略)
 一九世紀の思想全体を風靡した進化論は、直接間接に言語學にも影響して、ただ發生的角度からのみ言語學を考察し、言語の生の進化法則を見出すこと以外に、何等なすところがなかつたが、著者は、言語の機構そのものは、時間の作用を一應無視し、各辭項の相互依存の關係を直視することに依つて、始めて認識せられるものであり、言語は、その詰(ママ=話ヵ)手にとつては史的事實である前に先づ意識事實であつて、この兩者の秩序を支配する法則は、その性質を異にするが故に、これまた相異る二學科を要請せねばならぬとして、從來の史的言語學即ち著者の所謂『通時言語學』に對して、言語機構の認識たる『共時言語學』の存在を力説して居る。
(中略)
 共時論的なものと通時論的なものとの自律性と相互依存とを同時に示さうと思ふならば……著者は、最も適切なる比喩は、言語の働きと將棋の勝負とのそれであり、いづれの場合にも、人は價値体系に當面し、價値の變更に参加するが、將棋の勝負はいはば言語が自然的形式の下に示すものの人工的實現であるとして詳細な將棋の比喩を示して居る。この部分が、本書中最も將棋の比喩を巧妙に提供して居るから、少し長くなるが、そのまま御紹介して置かう。
 「第一に、競技の一状態は、言語の一状態に該當する。駒のそれぞれの價値は盤上におけるそれらの位置に依存する、同じく言語にあつても各の辭項の價値は、爾餘のすべての辭項との對立によつて定まる
 第二に体系は決して瞬間以上に持ちこたへない、それは場面ごとに變化する。尤も價値はまた主に不易の制約、即ち勝負の始まらぬ前から存在し、指しても指しても存續するところの、競技規則に依存してをりはする。このやうな永久に動かない規則は恒常的原理がそれである。
 最後に、一の均衡状態から他のそれへ、又は ─ 我々の用語法に從へば ─ 一の共時態から他のそれへ移るには、駒を一つずらせばよい、家中の引越騒ぎは起らない。そこに通時論的事實と微細に互(ママ=亘の誤字)つて異るところの對照物がある。詳言すれば
(イ)将棋の一手は唯一つの駒を動かすに過ぎない、同じく、言語にあつても變化は單獨要素の上にしか行はれぬ。
(ロ)それにも拘らず、その一手は体系全体にひびくものである、その効果の限界を精密に豫見することは、指手といへども不可能である。それから生ずる價値の變化はその場次第で、無に等しかつたり甚だ重大であつたり、或はその中間であつたりしやう。某の手が勝負全体の形勢を一變せしめ、それまで死んでゐた駒を俄かに生かすこともある。言語にあつても、之と同然なことは、既に見た通りである。
(ハ)駒の移動は、以前の均衡状態とも以後の均衡状態とも全然別個の事實である。生じた變化はこれら二つの状態のいづれにも属しない。ところで、重要なのは、状態のみである。
 將棋の勝負では、與へられた随意の場面は、それに先立つ場面から解放されてゐるといふ、妙な性質がある。そこへどの道を通つて達しやうが、全然かまはない。勝負を始まりから觀てきた者も、危急の情勢を覗きにきた野次馬に比し、いささかの特典も有しない。その時の場面を記述するには、十秒まへに起つたことを想浮べる必要は毛頭ない。このことはそつくり言語にも當嵌まり、通時論的なものと共時論的なものとの根本的區別を裏書するものである。言は一つの言語状態にしか作用せず、状態と状態との間に入來る變化は言の中に入りこむすきまはない。
 比較が當を得ない場合は、ただ一つある。將棋の指手は初から意圖を抱いて駒の移動を行ひ、体系の上に働きかけやうとする。然るに言語には、前後の考へがない、言語の駒が位置を変へ──否、むしろ變更するのは、自生的であり偶生的である。…將棋の勝負があらゆる点で言語の働きに似るためには、無意識の、又は無知の指手を想定せねばならぬであらう。」(本書一一七頁 ─ 一一九頁=124~125頁

 さて、これまで將棋を引用して説明されたものには數多く接して居るが、學術的な著論中に而もこれ程巧妙に用ひられた例を知らぬし、又本書の如きは、一般の方々にはおよそ縁遠いことと思はれるので、僭越乍ら、以上の如く御紹介させて戴いた次第である。(後略)

 果たして、この記事をどれだけの月報読者が読んだでしょうか?(笑)
 文中、點と点、體と体が混在していますが、原文通りです。太字は現在の岩波版の該当頁です。
 ソシュールはチェスが好きだったようで、「ホイットニー追悼」という公表されなかった原稿(1894年)にもチェスの比喩がありますが、腕前のほどは分かりません。
 『明治事物起原』(1993年1月・日本評論社=1944年改訂増補版の復刻本)によると1860年の遣米使節が持ち帰った物品の中にチェスの本が3冊あり、1868年には『西洋將棋指南』と題するチェス本が出版されたそうですが、「三將棋書に何等か關係が有りさうに思はる」と慎重な書き方をしています。また「將棋の名人小野五平、曾て書生をして西洋將棋法を翻譯せしめ、其差し方を了解し、以來如何なる人と對局するも遂に負けたることなし。依て門前標して日本西洋將棋指南所といふ。惜むらくは、翁の生前、その時代を尋ねざりし」とあります。

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