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2016年9月25日 (日)

酒井桂史をめぐる言説 その12

 「桂詰」解答募集中です。本日で締切


 1942年1月に櫻井蘇月は『將棋随筆 雲烟過眼』という単行本を山田將棋所から発行しています。印刷は將棋月報社。これは月報等に掲載された文章(前田三桂や松井雪山の文もある)をまとめたもので、酒井桂史が「感想」と題し寄稿しています。

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 「感想」

 大木の新緑湧くが如くなり
先づ、稚拙一句を献じて、本書上梓の御祝を申上げたい。
知友が自著を公にせらるゝといふことは、誠に嬉しいことである。その内容は著者より到來した書簡によつて、大略の輪郭は承つたけれども、詳細な事は承知してゐない。が、固より内容豊富、光彩陸離たるものに違ひない事は冗言を要しない。刮目大いに期待する次第である。
著者と私との交誼は顧みれば随分前のことで、金八段發行の將棋雜誌の編輯を主宰して居られた時に始まる。東京市と兵庫縣と距離が隔たつてゐる關係上、親しく御眼にかゝつた事はないが、單に編輯者と投稿者との關係以上に突込んだものがあつたやうに思つてゐる。それも疎懶の私のことであるから、いつも消極的なのは私で、殊に私が將棋の駒と殆んど縁を絶つてからと云ふものは、猶更さうであつて、此点誠に恐縮に存じてゐる次第である。
此間、最近撮影にかゝる寫眞を前後して二葉送つて下さつた。一つは正面向き、一つは横向きの佳影であつて年來私が想像してゐた著者とは少し違つた点もないではないが、大体に於いて一致してゐた。一言で云へば、春風駘蕩そのものゝ感じである。これは著者のものせらるゝ文章其他から想像を逞しうしてゐたのであるが、それがうまく當つてゐたのである。別に自慢ではないが、私の想像力の正しさを云々するよりも『文は人也』と云つた古人を稱すべきだと思ふ。
子供を養育するのにその苦勞は一通りではない。小さければ小さいで、大きければ大きいで、心配の絶間がないのである。が、將來の苦勞は兎も角として、現在これ迄こんなによく育つたものだと考へ乍ら、過去を振返って見る時、今迄の苦勞は苦勞でなくなつて、其処に一種の甘美な感情が附加して來るを常とする。是と同じ思ひに著者は今、精神上の息子を前にして、耽つて居られるのではないかと考へても、敢て失當でないと思ふ。此の一文にも、彼の一文にも執筆當時の違つた思出(ママ)が次次と浮んで來て定めし感慨無量のものがあるに違ひない。
今宵は初夏のすがすがしい一夜、今しがた置いた筆を再び執上げんとした時、時鳥が山腹の我家の上を啼き過ぎて行つた。おや、珍らしい、この邊りでは毎年極く稀にしか、それも一聲か※二聲しか聞くことの出來ない時鳥が、しかも、五聲まで啼いて行くとは。そこで又一句。
 ほととぎす身に入みて聴く今宵かな

  五月二十四日 酒井桂史
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細かいことですが、「詰棋めいと」第10号の引用文は、が抜けています。

 酒井の「感想」の日付は5月24日なので、1941年でしょう。
 これに先立って、櫻井は1941年9月山田將棋所から「寺の庭を掃きつつ」という本も出版しています。これも印刷は將棋月報社です。酒井の「盤前漫筆」(月報1926年8月号)が収録されていますが原文と一箇所だけ違っています。


 1943年3月号
 「八ツ當り」詰棋狂
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 次に十年前の作者の重(ママ)な人達を書いて見ると酒井先生を(ママ)瀧谷、今田、田代、清水、服部、田邊等々の諸氏が腕を奮って名局を發表してくれた
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 服部は服部安光。

 酒井桂史は1943年6月に亡くなりました。

 1943年9月号
 編輯後記
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◆終りに酒井桂史先生の遺徳は次號に於て詳細に偲びたく準備中であります。氏の御蔭にて今日あるを思ひ感無量御冥福を祈るものであります

酒井桂史氏 本名新十郎
六月二十六日急逝致しました。詰棋の先覺者也、其の他は一切不明の謎の功労者
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 「詰棋めいと」には月報の追悼文がすべて紹介されています。
 これらの寄稿文に「秘密の暴露」は殆どありませんが、一部引用します。

 1943年10月号
 「酒井先生の死を悼む」櫻井蘇月
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八月三十日午前七時、北熊井の凡棋先生より葉書二枚到着、其の一葉は六月二十八日酒井桂史氏逝去の報である。
…想起すれば酒井先生と文通を始めたのは、私が青山の金八段宅に在りて「將棋の友」を編輯して居た時からである。その詰將棋に於ける天賦の方は、常に撓(たゆ)まざる創作熱の努力によつて、古人の傑作の壘を摩する逸品數ふるに遑なきほどにて、詰將棋を談ずる者必らず氏を語らざる者無し。其頃先生創作五十題を製圖したものを一冊寄贈に預かつたが今は多くの書翰と共に遺品となつてしまつたことを悲しむ。
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 凡棋先生は淺川凡棋=阿部主幹です。死亡日は篠原昇氏の研究により、6月26日であることが分かっています。


 1943年10月号
 「噫酒井桂史先生」一記者
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…從來發表したかつた先生の作品殊に王玉篇五十題は至寳とも云ふべき傑作で、故山村兎月氏と共に屢々本誌へ登載或は出版をお勸めしたのでありましたが遂に成らず。
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 同年10月号
 「追悼作品鑑賞」有馬康晴
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…筆者が月報の讀者になつた時は既に酒井氏の作品は紙上に見られなかつたのですから随分古くから登場されて居た故で恐らく天壽を全うされた事と推察して居ります。
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 有馬は酒井を相当な年配だと思っていたようです。この時有馬は36歳。39歳で亡くなりました。


 同年10月号
 「盤側閑談」東京太郎
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 要するに、大駒使用禁止の結果は、以上の如き種々の弱点を生ぜしめ、流動美を缺き固定的なものたらしめて居るが、今回第二十四題として掲げた酒井桂史氏作は、さすが大家創作だけあつて、以上の如き短所を或程度まで拂拭して、大駒ありの作品に遜色なき程の成功を得て居る。
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 これは追悼文と関係なく、8月号と10月号に小駒図式を集めて紹介した中で1931年9月号作について触れた一文です。


 同年11月号
 「噫 酒井桂史先生」杉本兼秋
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酒井桂史先生の作品に始めて接しましたのは私が詰將棋を作りだして間もない頃、即ち今から十年前誌上でありました。
其の當時月報詰將棋各部の選者は山村丸山兩先生が擔當してゐられました。酒井先生は私が未だ月報を知らない以前月報の選者をしてゐられたとの事でありますが私が初めて先生の作物に接し昭和九年頃先生は既に創作より退かれて居りその作品は當時山村先生の御手許にあつたものが發表せられてゐた様に思つて居ります。私の知る限りではそれから二年位の間に僅か數局の作品を拝見したのみでその先生の作品は誌上では再び拝見する事が出來ませんでした。
その當時は作品に對する鑑賞眼も極めて幼稚で先生の作品を拝見しても充分鑑賞する力がありませんでしたがその後宗看圖式或は圖巧等の研究も致し作品の構成とか形と云ふものの概念が幾等か解りかけた二三年後一部集其の他により先生の作品を拝見する期(ママ)會を得先生の作品の持つ偉大さを知つたのでありました。先生の作物中には難解なる作品も多數ありますが唯難解と云ふ點だけでありまし(ママ)なら他にも宗看級の作品を作て(ママ)作家も他に見受けられます。
先生の作品の持つ偉大さは構成の至妙、作の持つ高雅幽玄なる棋(ママ)品は、先生の作品ならでは見られぬ處で、現代詰棋壇の至寶と仰がれるのも一つに其處にありませう。
先生は創作より離れて十數年後の今日迄尚私達後進の作物には常に目を通してゐられた様でありまして數年前私が初めての作品集を出しました時も色々と御教示を頂き其の後も時折御指導を願つて居りました。
私が北滿の任地で勤務して居りました時御無沙汰の御詫びの御手紙(ママ)差上げました處其の後は激励の御手紙や慰問品等を再三頂き時には国民學校三年生だつた御令嬢千?ちゃんや一年生の御令息(御名前はホヅミちゃんだつたと思ひます)の慰問文や圖畫を送つて頂いた事もありました。其の後私は病の爲後方の各病院へ轉送され内地の陸軍病院に轉送される迄數ケ月間心ならずも御無沙汰致して居りました。
昨秋姫路より御手紙を差上げました處しばらくして近江より御返信があり御病氣の爲數ケ月前より轉地療養中との由承りました。
その時の先生の御手紙に殆んど時を同じうして療養生活に入つたのを不思議に思ふと書いてありました。
その後の御手紙ではお元氣な事とのみ想像致して居り僅かの間に急逝され様とは夢想だにして居りませんでした。
先生は永い間創作より離れてゐられたとは云へ何かと折にふれては御指導を願へる事は私達には限りなき力強さであり喜びでありました。
一度雲雀ケ丘なる先生をお訪ね致し親しく御指導を願ひ度ひ(ママ)と思つて居りましたが私の退院と前後して先生は幽冥界を異にせられその望も今は空しくなりました。
先生が現代詰棋壇の至寶と仰がるゝのも先生のその非凡なる天分による事勿論でありますが又その御努力も並々ならぬものがあつたと思はれます。
 人生は短し然れども藝術は永し
殘されたる先生の作品の數々は永久不滅の光を放つ事でありませう。
御遺業の數々を偲び謹みて御冥福を御祈り致す次第であります。
何れ先生については以前より御親交のあつた前田先生が書かれる事と存じますが僅かに拙い(ママ)作品を通じてのみ知る後進の?に示された先生の御生前の御厚情の數々を偲び謹みてこの追悼の一文を草する次第であります。
昭和十八年十月五日 杉本兼秋

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 同年11月号
 「廻覽版」
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詰棋大家酒井さんの死は實に殘念である思ふこと多くして筆進まず拙文ながら早速追悼文を書いた、その遺された詰棋を輯編(ママ)月報社に於て單行本として發行して貰ひたいものである、それには愛詰棋家の酒井さん追悼文をものせて貰ひたい、編輯は有馬さん外詰棋大家を選定して其任に當られる事
(蘇月生)
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 1944年1月号
 「新春棋話」宮本弓彦
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…大正時代から昭和初年のあの生活は今考へると空恐ろしいやうな無茶な自由さだつた。さうだ、震災前に生れたわが「將棋月報」がやがて三十代の壯年に成るのだから、時の流れはまつたく早いものだ。山村さんや酒井さんが死んだ前田さんの下手の横槍も影をひそめた。里見兄弟が詰將棋欄から遠退(とおの)いた。佐賀さんや南出さんといつた多くの少年棋客が擡頭してくる。棋人有馬さんが活躍してゐる。…
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 佐賀は佐賀聖一。図研会の作品発表、解説で活躍していました。戦死したのではないかという説がありますが(『三百人一局集』解説・村山隆治)、旧パラ1951年11月号に土屋健が「現在詰棋界を離れた佐賀聖一君」と書いています。
 南出は南出岩樹。一時第五部の選者を務めていました。『象戯手段草』に関する論考を月報に発表しています。戦後北海道で発行された「将棋時代」に関わっていたという記事をどこかで読んだ記憶がありますが…。


 1944年2月号
 「思ひ出を綴る」丸山明歩
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酒井氏に私は一方ならぬお世話と云ふより教へを受けたものだつた自分が幾分でも詰圖式として創案發表せらるゝやうになつたのも氏の厚情により學ぶ点が尠くなかつた。勿論私のみでなく讀者諸氏の中にも相當私同様の方は在られる事と信じ同時に氏の天才的の偉大さと其の苦心努力に一層の敬慕を捧ぐるものである。拙著イロハ字詰圖式を發刊後も拙圖に對して懇篤な注意を戴き訂正再刊の際にはと今も大切にお手紙を保存して居る實に本誌上否現棋界の詰棋界に高段専門家と雖へ共斷然追慫を許さなかつた酒井氏、アゝ既に此の世の人でなし、自分の手許に殘る互ひの意見や圖式の事などに往復を重ねた手紙も今は全部尊ひ氏の遺稿となつてしまつた殊に圖式を公開せらるゝ事なく逝かれたのは未發表の妙局の數々を知つて居るだけに只々惜しい氣持で一ぱいであり謹んで深い哀悼の意を表する次第である。
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おわり

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