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2015年12月 5日 (土)

絶板

 ここでいう絶板とは、売上げの伸びが見込めない等の理由で新たに印刷することが断念された書籍ではなく、内容等につき処分を受けて出版、販売することができなくなった江戸時代の書籍を指します。板木は没収され板面を削られたり廃棄されます。

 禁書との関係ですが、「江戸時代における『国禁耶蘇書』以外の『絶版書』『売止め書』等の発禁本は、禁書としては登録はされず、かつ私蔵・私習まで禁じられていない」(『日本古典籍書誌学辞典』1999岩波書店)。
 従って、将棋関係の絶板書は、正しくは禁書と呼ぶべきではないと解すべきでしょう。

 江戸時代、本屋とは第一義的には書物の出版及び販売を行う店を指していました。『京阪書籍商史』(蒔田稲城・1928出版タイムス)には「小賣専業の本屋は本屋としての資格を欫いてゐたので本屋と同格に認められず、また『本屋』とも稱せられなかつた」とあります。しかし文化年間に小売専業も本屋仲間への加入が認められることになります。
 本屋は京都、江戸、大坂に集中し、それぞれ仲間(同業組合のようなもの)を結成し、有力な本屋を行事(大坂では行司)として大きな権限を与え重板、類板等内外のトラブルに対応しました。
 重板とは、ソックリ真似して出版する海賊版であり、類板は一部を変えたりするものの既刊書の模倣であるような出版物です。これによって正規の版権(板木の版権は無期限)を持っている本屋の蒙る打撃は深刻なので、いったん事が起これば、行事はその対処に忙殺されたのではないかと思います。
 京都では元禄7(1694)年には仲間行事が存在していたことが確認できる記録が残っています。公認されたのは正徳6(1716)年です。江戸では享保6(1721)年、大坂では享保8(1723)年に公認されました。尾張徳川家の学問奨励政策を背景に、漸く出版が盛んになった尾州で本屋仲間が公認されたのは寛政6(1794)年です。
 それまで特権的な仲間の組織化を認めなかったものが、自主的な組織を認める一方で、幕府の統制機構の末端を担わせることに方針を転換したものです。

 寛文13(1673)年、次のような触書が出されました。
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御公儀之義ハ不及申、諸人迷惑仕候義、其外珍敷事新板仕候ハバ両番所(北・南町奉行所のこと)へ其旨申上、御指図可請…
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 続いて天和2(1682)年には「新作之慥(たし)かナラザル書物、商売スベカラザル事」という高札が諸国に立てられ、出版統制はさらに厳しくなります。
 享保7年11月、出版条目が触れ出され、新規書物出版についての取締り基準が明確にされます。これは江戸のみで通用したものではなく幕府の法令なので、大坂では享保8年3月24日付、京都では4月2日付の触書として記録されています。
 この出版条目は五箇条ですが、『江戸の本屋さん』(今田洋一・2009平凡社)に解説があるので引用します。
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第一条は、幕府にとって都合の悪い内容の本は、いいかげんなことや不穏当なことが書いてある本として処断する。
第二条は、好色本はいけない。
第三条で、人々家筋先祖の事を書いてはいけないとあるのは、大名・旗本の先祖についてのことであろう。「大名の過去は野に伏し山に伏し」という川柳があるように、もとをさぐれば多くは百姓出身、あるいは野武士の成り上がり大名のこと、これをあれこれ書物に書かれては困るのである。
第四条、今後すべての出版物は最後に、作者名・板元名を実名で入れよ、いまでも日本の刊行物は最後に、刊行年月日・著作者名・刊行者名がはいっているが、このスタイルを法律で定めたのが大岡越前守である。
第五条、徳川家・幕府に関することは一切書いてはならない。もしどうしてもということがあれば、町奉行所の許可を受けよ。この後、葵の紋が印刷されていただけで絶版処分にされた例がたくさんある。
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 第四条は重要なので、原文を掲げておきます。

何書物ニよらす此以後新板之物作者并板元之実名奥書ニ為致可申候事
(なんのしょもつによらず これいごしんぱんのもの さくしゃならびにはんもとのじつめい おくがきにいたさせもうすべくそうろうこと)

 出版手続きについて、京都の例を『京阪書籍商史』より引用します。
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先づ書肆が書籍を刊行上梓(之を「開板」と云ふ)せんとする時にはそれに先つて草稿を添へて、仲間行事に開板願を出すのである。行事は御法度禁制に抵触する事なき哉、仲間内の重板若くは類板に非ざるかを檢閲(吟味)し、若しも類板の懸念ある時には、仲間に一應、其の草稿を添えて既刊者の内覧を求め(之を「廻り本」と云ふ)、何等支障なき時に始めて、行事はその願書に奥印証明をなし(中略)町奉行所に開板願を申請するのである。奉行所に於ては更に之を檢閲した上、開板を許可するのであるが、此時にも行事を奉行所に召喚して、行事に其の開板許可の指令を下附し、行事が更に開板人に之を傳達する。茲に書肆は其の草稿によつて「版下」を書かせ、彫刻師(板木屋)に渡して、板を刻ませる。かくて彫成した板木の校合をした上で、板摺に取掛るのであるが(中略)此の後更に發賣許可の手續を履まねばならない。
即ち、曩(さき)に開板を許可された時の原稿と其の印刷製本せられた書籍とを行事に差出すのである。行事は更に之を奉行所に納本(之を「上ケ本」と云ふ)した上で、行事は開板人に「添章」を下附するのである。(中略)此の「添章」と云ふのは發賣認可書であつて、其の都度行事が發行した。之がなければ絶對に販賣することが出來ないのである。但しこの添章は京都のみに賣弘めんとする場合に限られたもので、これを大阪又は江戸に賣捌く場合には、更に別に其の旨を行事に願出で、京都書林行事から大阪若くは江戸の本屋仲間行事の添章を受けた上で、其の土地の行事の添章を以て該地域内の本屋仲間に始めて販賣るのである。これは三都共に此の手續を履むことに申合せられてゐた。
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 すべて原文通りです。同書には「草稿が脱稿せられてから刷り上がるまでには、五年とか八年を要することも珍しくなかつた。行事の吟味の期間さえも往々一年も要した事もあつたとの事である」という一文もあります。


 江戸時代に、絶板となったことが確実な将棋関係の書籍は次の通りです。
 『象戯勇士鑑』 『象戯手段草』 『將棊考鑑』 『將獨稽古』

  磯田征一氏の論考があります。

 
 このうち、前2件は京都本屋仲間が加入者に配付したと思われる冊子「禁書目録」(1771年)に記載されています。また『象戯勇士鑑』については江戸本屋仲間の「割印帳」にもその旨が記載されています。「割印帳」は出版を願い出た江戸本屋仲間の本屋の書籍に対して開板販売許可が出たこと(添章と帳簿に割印した)を記した記録簿です。帳簿が何という名称であったかは江戸本屋仲間の行事引継帳や諸記録が失われているため分かりません。

 『將棊考鑑』は大坂本屋仲間の「差定帳」に、『將碁獨稽古』は同仲間の「裁配帳」に記録されています。三都(京都・江戸・大坂)では、奉行所から示された国禁書はともかく、個別の書籍についての申し合わせはなかったと思われます。
 『享保以後大阪出版書籍目録』(1936・大阪図書出版業組合)には「絶板書目」として『將棊考鑑』と『將獨稽古』が記載されています。この「絶板書目」は京都の「禁書目録」と違って配付されたものではなく、書籍目録の編集者がまとめたものですが、『將碁獨稽古』は『京阪書籍商史』には掲げられていません。

 京都で開板した将棋書は多いのですが、絶板に至ったものはなさそうです。
 ただし、京都本屋仲間の重板・類板等の事件記録の目録である「済帳標目」(大坂の「差定帳」や「裁配帳」に似た性格のもの。江戸の記録はほとんど滅失、散逸していて、同様のものは残っていません)に宝暦4(1754)年戌九月から亥正月までのできごととして、「一 将棊経 写本 永田調兵衛方より出申候、板行無用之事」という記事がありました。この『将棊経』がどんな本だったのか、出版に至らなかったので不明です。「無用之事」はしてはならないという意味で、町奉行所に開板願を出す前に、仲間行事の吟味により門前払いを受けたのです。重板、類板等の問題があったのでしょうか。
 なお、ここで写本といっているのは、開板願を出す際に提出する稿本のことで『京阪書籍商史』で草稿と呼んでいるものです。いったん許可が下りれば、その内容を板木に彫る段階で勝手に変えることはできません。「板木改」といって、最終的に稿本と板木に相違がないか確認するシステムになっていたのです。

 一件ずつ見ていきましょう。『象戯手段草』は最後にします。
1 『象戯勇士鑑』
板元・菊屋七郎兵衛(京都)、賣出し・小川彦九郎(江戸)、割印・享保13(1723)年12月。
(『享保以後江戸出版書目新訂版』朝倉治彦、大和博幸・1993臨川書店)より。影印版は『割印帳 東博本』第一巻・2007ゆまに書房)。

 『象戯勇士鑑』は江戸で開板願を出し、絶板も江戸町奉行所から言い渡されたものです。それを町年寄の奈良屋が申し伝えたというわけです。
 絶板理由「享保十四年六月十四日奈良屋御役所へ行事共被為呼此書將棊所より差構有候間商売致間敷旨被為仰付候」
 差構(さしかまい)有候間とはクレームが付いたためという意味。「候間」は~の間の意ではなく、~のため、~に依り。行事共というからには行事(万屋清兵衛)が呼び出されたことは分かりますが、菊屋、小川両名とも呼び出されたのでしょうか。
 『象戯勇士鑑』に将棋所として看過できないことがあったため、三代宗看が寺社奉行に訴え、それを了解した寺社奉行が町奉行に詮議を依頼した結果、絶板という処分になったという経緯だと思われますが、肝心の理由は書かれていません。また、絶板だけですんだものか、体刑があったかも知れません。

 「將棋月報」1942年1月号に、今田政一が『象戯勇士鑑』について「處がどう云ふ譯か本書は伊野邊看齋の象戯手段草と同様に禁書になつた。それが爲に現今餘り傳はらぬ。筆者の關知する處は塚田八段藏(寫本)と小杉次郎氏藏(版本)丈けである」と書いています。たった50部の限定出版だった『慶長以来書賈集覧』(井上和雄編・1916彙文堂書店)に目を通していた(月報1936年1月号に記事あり)ほどの今田ですから『享保以後大阪出版書籍目録』か『京阪書籍商史』を読んでいたのでしょう。


 囲碁では『新撰碁経大全』(大坂で開板)絶板事件というものがあり、これは享保10(1725)年、かつて本因坊の弟子であった秋山仙朴が出版した碁の本をめぐって、碁所がクレームを付けたものですが、こちらはその経過、クレームの理由、訴状、秋山が受けた罰(絶板と戸締七日の刑)まで詳細に記録が残っていて、この一件は江戸町奉行所の公式記録『撰要類集』や京都の触書にまで出てきます(享保11年11月21日の雜色触、『妙法院日次記』6・1989八木書店)。
 『象戯勇士鑑』に関する将棋所の記録もあったはずなのですが、散逸してしまったのでしょうか。



2 『將棊考鑑』
板元・栄井屋近平、京屋嘉兵衛(いずれも大坂)。
 これは無届出版による絶板で、町奉行所の仕置ではなく本屋仲間内の処分です。その詫状が「差定帳」に残っているので紹介します。
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一札
一 此度、将棊考鑑
※1ト申六冊物、私心得違内証ニて板行致し売買仕候段、不調法誤入候、仍之右板木不残差出し候様ニ被仰渡承知仕、板木不残指出し一言之申分無御座候、然ル上は、以後御格式急度相守可申候、一札如件
宝暦七年丑七月
栄井屋
※2近平印
本屋行司衆中
---
 一方、京屋嘉兵衛は、
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一札
一 此度、将棊考鑑ト申六冊物、私心得違内証ニて板行致シ売買仕候段、不調法誤入候、仍之右板木摺本等不残差出し候様ニ被仰渡承知仕、板木摺本等不残差出し一言之申分無御座候、然ル上は、以後御格式急度相守可申候、一札如件
宝暦七年丑八月
北谷町河内屋半右衛門借家
京屋嘉兵衛印
本屋行司衆中
---
『大坂本屋仲間記録』第八巻(大阪府立中之島図書館編・1981清文堂出版)より。
※1 ここでの表記は同書の翻刻(現行文字)に従う。
※2 『享保以後大阪出版書籍目録』では菊井屋近平。「差定帳」の影印版は出版されておらず、確認できない。

 さて、細かい違いは別にしてどこが違っているでしょうか。住所、氏名、日付? そうですね。まだあります。栄井屋近平は「板木」だけなのに対して、京屋嘉兵衛は「板木摺本等」になっています。
 本屋が共同で出版することを「相合板」といいますが、これは板木を分割して所有しているので単独で勝手に出版することはできません。『享保以後大阪出版書籍目録』の「絶板書目」では栄井屋、京屋の順に並べてありますが、これは「差定帳」の記載順に倣ったのでしょう。
 『將棊考鑑』の板木所有割合は不明ですが、一般に相合板では奥付の最後に記載された者が代表者となります。ここでは京屋が代表者であったのか、摺本回収まで責任を持ったために詫状提出が遅れたのかも知れません。

 これがどういう本なのか分かりませんが、小杉次郎が、「將棋月報」1935年1月号「古棋書に就て(續)」の『象戯圖彙考鑑』の解説の中で
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其奥付に(ママ)廣告によると「大寄象戯考鑑後編全八冊」とし、「跡ヨリ板行」とあるからして後編があるのではないかと思ふ。本書は拙藏のもの外、二三同じものゝ所藏者がある。然し後編に至つては未だ嘗て見た事がない。尚同廣告に「近代象戯考鑑六冊」と云ふのがある。之は「象戯圖彙考鑑」と同じである。尤も本書は二冊であるが、それは六冊を二冊に合本したものである。
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と書いています。『大寄象戯考鑑後編全八冊』と絶板になった『象戯考鑑』とはどのような関係にあるのでしょうか。


3 『將碁獨稽古』
板元・和泉屋平兵衛(大坂)。
 これも無届出版による絶板です。その詫状は「裁配帳」に残っているので紹介します。
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一札
一 万開両面鑑・塵劫記・三味線独稽古・将碁独稽古・浄瑠璃太夫評判・右五品私心得違ニ而板行仕、不調法可申上候様無御座候、依之右五品板木差出候様ニ被仰渡承知仕、則右板木并残本不残差出申分無御座候、然ル上者此以後惣而(そうじて)板行物一切仕間敷(つかまつるまじく)候、乃一札如件
宝暦九卯年九月廿日
和泉屋平兵衛印
本屋行司衆中様
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『大坂本屋仲間記録』第九巻(大阪府立中之島図書館編・1981清文堂出版)より。

 一度に5件の無届板行が発覚したのですね。
 この本は小杉次郎蔵書にあり、「將棋日本」の連載によれば
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寶暦八年八月(寅八月吉日)刊
小本一巻
定跡八番、詰物九番(解説明式)
序文に署名なし
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とあります。



3 『象戯手段草』(正確には象戲)
板元・山村半右衛※3門(京都)、賣出し・小川※4彦九郎(江戸)、割印・享保13(1728)年12月。

※3 確認されている刊本の奥付
※4 刊本は小河

 江戸時代に出版された民間の詰棋書として、同書は文句無しに最高水準です。
 『象戯勇士鑑』と同じ時期の割印です。行事も万屋清兵衛。小川彦九郎と万屋清兵衛は、享保12年(「割印帳」が残っている最古の年)から同21年頃までほとんど二人だけで2箇月交代で行事を務めています。本屋仲間でいかに名士であったかが分かります。
 2件は京都と江戸の組合せですが、小川彦九郎は京都の小川多左衛門の江戸店という説があり、これは水戸家への書籍の納入者が享保の初め頃より小川多左衛門から日本橋の彦九郎に変わることがその証左の一つとなっています。記録が確認できる享保12年から文化12年までの山村半右衛門のすべての出版物(5点)は賣出し・小川(河)彦九郎です。
 「割印帳」では『象戯手段草』の絶板には何も触れていません。ところが、京都本屋仲間の「済帳標目」に記録がありました。

 さて、そこには何と書いてあるか。

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酉ノ七月(享保14年7月のこと)
一 同手段草 写本主信更生より半右衛門へ写本取次候、表紙屋勘兵衛、半右衛門共ニ町え御預被成候
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『未刊史料による日本出版文化』第一巻・彌吉光長・1988ゆまに書房)による翻刻。この影印版は『京都書林仲間記録』5・宗政五十緒、朝倉治彦編・1977ゆまに書房。

 同手段草の同はその前の将棊勇士鑑の「将棊」(翻刻のまま)を受けたものです。
 絶板理由が書いてあるどころか、さらに複雑になりました。主信更生とは誰か、表紙屋勘兵衛とは何者か。書籍作製の最終段階を受け持つ職業としての表紙屋を指すのか、それとも表紙屋勘兵衛と名乗った本屋がいるのか。表紙屋という堂号を用いた本屋はありますが、私の調べた限り表紙屋勘兵衛という人物は見当たりません。主信更生については皆目見当がつきません。この当時、主信で知られるのは狩野主信ですが、120石取りの幕府御用絵師がここに出てくるとは考えられない。そもそも主信更生の主信は姓なのか、名なのかも分かりません。翻刻には編集者が付けた読点がありますが、原文に読点はないので、表紙屋、勘兵衛なのかも知れません。この場合の表紙屋は堂号ではないことになります。

 山村半右衛門が表紙屋勘兵衛? とともに町預けの刑に処せられたことは分かりました。外出禁止処分なのですが、本人だけでなく、おそらく家族や従業員もろともです。
 大坂の触書に、町内へ御預け者があったとき、本人はもちろん、家内妻子下人等に至るまで一切他へ出してはならないのに、みだりに外出させていると聞くが、不届きであり必ずお咎めがあるぞ、という内容のものがあります(元文2(1737)年9月18日口達、『大阪市史』第三巻・1979清文堂出版=1911年初版の復刻版)。町預けは大した刑ではなさそうですが、町中に知れることなので大変な恥なのです。

 せっかくの資料でしたが、内容が理解できないのは残念。主信更生について、表紙屋勘兵衛について情報があれば、よろしくお願い致します。

 最後に、岡田乾州が所持し、子の丈太郎によって国会図書館に寄贈された『土屋土佐守作詰物』(写本)の識語を紹介します。福田稔氏の論考も参照して下さい。
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本書元題簽ナシ十六年九月下谷廣小路町露店ニテ購得スル
所ナリ廿二年二月大橋宗金藏ノ土屋土佐守詰物百番ト対比スルニ順次等全ク
同ジ依テ土屋土佐守作詰物ト題ス■■第五冊三丁目ニ新選圖式トノ考異ヲ記ス
橘仙斎ノ將棋雑俎ニ將棋手段草ハ土屋土佐守作ニテ表向ハ伊野辺
看斎作ノ積リニ相成て右手段草ノ序ハ伊野辺看斎書クト云ヘリ
橘仙斎藏書目録ヲ見ルニ將棋手段草全三冊トアリ板本ト見ヘタリ
又廿三年二月駒込書肆伊野辺看斎百番詰手トモ二冊ヲ示ス序跋
ナシ順次ハ本書ト異ニシテ新選圖式ト同シ
按スルニ伊野辺看斎手段草ト題セシ時ニ順次ヲ改メシナルヘシ而シテ
新選圖式ハ右ヲ遵用セシモノナルヘシ
廿三年五月小尽於春木街寓居消夏堂主人録
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 時代は明治。原文通りに行替えしました。
 消夏堂主人とは岡田乾州です。読めなかった部分が何箇所かあり、磯田征一氏に読んでいただきました。■■の部分は書名のようなのですが、どうにも思い当たらない由。


 資料を提供していただいた磯田氏、hiro氏にお礼申し上げます。

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