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2015年10月 8日 (木)

『将棋駒競』考 その3

 初代宗看(以後、単に宗看と記述するときは初代宗看を指します)は二代宗古の弟子。三代宗桂の娘(四代大橋宗傳の妹)を娶って、伊藤家を興しました。
 
四代大橋宗傳の妹を娶ったというのは、浅野藩(広島)の藩医で儒学者でもあった黒川道祐(1623~1691)の随筆『遠碧軒記』(写本で伝えられ、1912年に『随筆大観』で活字化)が初出のようです。このため『古事類苑』には見当たらず『廣文庫』(1916~1918)には引用されています。
「宗桂、宗古、宗桂、宗閑、三代目の宗桂夭死。その妹を宗閑に遺し、跡目とす」。正しくは「宗桂、宗古、宗桂、宗閑、宗傳、四代目の宗傳夭死」(『日本将棋大系』第二巻「人とその時代」山本亨介氏による)。宗傳は25歳で亡くなっています。
 道祐と宗看に面識があったかどうかは分かりませんが、儒学の師である林鵞峰と宗看には接点がありました。鵞峰は宗看の中將棊圖式の序文を書き、宗看の求めに応じて五代宗桂の『象戯手鑑』の序文を息子の春常に書かせています。
 寛文9(1669)年2月16日の「國史館日録」に「伊藤宗看來、其子宗桂同至、宗看當時象戯無雙上手也、彼三世以此藝無敵、其所作圖式、先考及余作序、故宗桂所作、乞春常求序、是以屡來者也」とあり、しばしばやって来たというのですから、宗看のことは道祐にも伝えられていたのでしょう。「詰将棋の散歩道」第45回[献上本と林家序文]磯田征一氏参照。
 道祐には『雍州府志』(1686年刊)という本格的な京都案内がありますが、その序文も林春常が書いています(林鵞峰は既に故人)。

 『駒競』には『將棊智惠竸』という異本もあります。これは48番本、解答付きです。
 文化5(1808)年版とその翻刻である明治17年版があるようです。
 配列はまったく変わっています。

献上本
作品番号
將棊智惠竸
作品番号
献上本
作品番号
將棊智惠竸
作品番号
1 24 51
2 48 52
3 25 53
4 47 54
5 21 55
6 43 56
7 22 57
8 32 58
9 59
10 60
11 27 61
12 39 62
13 26 63
14 42 64
15 28 65
16 40 66
17 30 67
18 41 68
19 45 69
20 36 70
21 33 71
22 31 72
23 20 73
24 2 74
25 3 75
26 35 76
27 5 77
28 37 78
29 23 79
30 38 80
31 4 81
32 16 82
33 1 83
34 29 84 7
35 6 85
36 44 86
37 10 87
38 14 88
39 89
40 34 90
41 11 91
42 13 92
43 9 93
44 8 94
45 19 95
46 17 96
47 18 97
48 15 98
49 46 99
50 12 100

(献上本の第1番は智惠竸の第24番)

 前半部分を中心に並べ替えたようですが、この並びの根拠は何でしょうか。

配置図
Photo_2





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