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2014年10月15日 (水)

小林・岩木対談注記

 小林豊好作集に付けた対談について、分かりにくいところがあるかと思いますので、注記します。以下は、湯村光造氏の「『将棋月報』で辿る戦前の詰棋界」「詰棋めいと」第23~30号(1997年10月~2002年5月)に負うところ大です。

将棋月報…1924年10月創刊、1944年2月廃刊。当初は指将棋が大部分だったが、大正から昭和に変わるあたりから詰将棋関連の記事が増えていったそうです。

風雲天地新報…月2回の新聞。1920年9月創刊(らしい)。これに棋界通信を載せ始めたのは1922年3月ということのようです。

岩木錦太郎…1907年生まれ、1967年没。本名は金太郎。

「詰将棋大全集」…刊行予告は下記の通りです。

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「詰棋めいと」第26号(1999年7月)より

ヘタの横槍の三桂先生…前田三桂。「ヘタの横槍」とは三桂が月報で担当していたコーナーで1928年6月に始まった「失禮御免へたの横槍」。プロ棋士の対局における即詰逃しをやり玉に挙げたもの。途中、中断・再開あり。

詰将棋一部集…月報では1926年6月から第一部として中長篇、第二部として短中篇(いずれも当初三題、1927年1月から四題)を出題していました。1929年4月から第三部(好形の短篇)を新設。1941年12月から第四部、1943年2月から第五部(読者が新設した)ができました。
ここでいう一部集は1937年1月号の百局集のことで、田代武雄の作品集ではなく、編集を担当したものです。中長篇のみで短篇はありません。

山本庫次郎…この名前での作品発表は無いようです。

丸山明歩…1898年生まれ、1967年没。月報1926年2月号より「イロハ字詰」を掲載。初形とあぶり出しの両方を完成させたそうです。本名、正為(まさため)。

山村兎月…月報初期の解答王で、1927年より月報詰棋欄選者。1940年没。64歳とのことなので、1876年あたりの生まれでしょうか。

上野の図書館…現在の国会図書館の前身

明治時代の棋書蒐集家の某氏…岡田乾州のこと

詰将棋の三つの大原則…ここに書いてあるもののうち、②攻方最短手順は不要な規則で現在は攻方着手自由と置き換えられています。

図研会…1942年、発足当時20歳前後の若手作家集団。当初6名。土屋健がリーダー格。佐賀聖一、村山隆治、藤井朗、土屋春雄、松本守正。有馬康晴が実質的な会長役だったそうです。

岡田秋葭…1923年生まれ、1943年没。裸玉二号局の作者。秋葭は本名。

有馬康晴…1907年生まれ、1946年没。二歩禁回避の香先香歩第一号局の作者。本名、頼春。

佐藤三兄弟…佐藤千文1942年没、24歳。佐藤千明、佐藤千万喜は生年等不明。長兄千明、次兄千文、末弟千万喜。従来、千文が長兄と言われてきましたが、どうやら千明長兄説の方が有力です。

佐賀聖一…1926年生まれ。発表作は1943年12月の月報が最後。

大橋虚士…1949年時点で43歳。本名、清。1995年没(10月20日追記。hiro さんよりご教示いただきました)。1985年9月の「京都民報」(盤八十一名義)が最後の発表作かも知れません。15手詰。

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里見義周…1917年生まれ、1998年没。1939年、月報の選者に。「詰将棋に於ける捨駒の目的」等の論考あり。作品集『将棋朗作選』(1939年)、『闘魚』(1951年)。どちらも現物は見たことがありません。

杉本兼秋…月報1936年4月に「詰将棋作家協会」の設立を提唱、1944年1月に「日本詰将棋作家協会設立要項」が掲載され、会長・有馬康晴、理事長・杉本兼秋で発足することとなりましたが、翌月、月報廃刊で日の目を見ることはありませんでした。

北村研一…1921年生まれ、1951年没。月報初登場は、1943年5月。「槍襖」で第一回看寿賞。本名、兼一。

詰将棋の内規問題…ここで語られているのは、駒余り変化長手数作(玉方が最長手順を選ぶと作意より長くなるが持駒が残る)の問題のようです。これとともに、当時問題となっていたのは駒の余らない変化別詰(手順に分岐があるとき、最善をつくせば本手順より短く詰むかあるいは同手数駒余りになるが、変化手順に妙手が隠れている場合などでこれを発見できないと本手順と同手数あるいはより長い順を作意と勘違いする場合がある)解答の場合の○×の判定です。現在は駒余り変長は作品として減点事項(短中篇はほとんどアウト、人によっても差あり)、変別解答×に落ち着いているようです。


 気になるのは、
小「三十年ぐらい前の作者で印象に残っているのは」
岩「三桂先生が非常に賞めていた、ほれ、あの人さ。何といったかな」
小「ふう。何といったか、私も思い出せない。だが、あの人はいい物を作るが作図数が少
 ない」
岩「たしか八局位しか作らなかったがその何れもが名局でした」
小「そうありたいものですね。数はわずかでも珠玉ばかり……うらやましい次第です」
 という部分で、1930年代前後に8局ほど(えらく具体的)珠玉の作品を発表したという作家です。いったい誰なのでしょうか。どうにも見当たらないのですが。

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コメント

この頃から変別論議があったんですね。
僕は詰方最短手順は玉方最長のために必要なルールと思います。
要するに詰方最短手順を前提に玉方は最長に逃げるとする。と言う事ですね。
これなら変別だろうがなかろうが最短手順が短い逃げ方は不正解で何の論議も必要じゃないと思います。

だけど解答募集で正誤判定が重要でないところなら、変別を正解にしても構わないと思います。

それから僕は作家としては変別は容認してません。
味の良い変化なら変別はなくすべき。
どちらも作意では詰んでいるのに、ただ最短手順を検索する作業は作品の本質には関係ない無駄な作業を求めるもの。
と考え僕の作品は変別排除を重要としています。
極論すると僕は推敲は配置の美しさは二の次で、変化のクリアさを最重視しています。

三輪さま

コメントありがとうございます。

作品をつくる立場と解く立場は分けて考えないと、ややこしくなると思っています。着手自由は解答用者用で、詰めば早詰でも長手数でも何でもOKということです。
1963年頃の詰パラで山田修司氏と森田銀杏氏が対談形式で変別論争を整理したのがありまして、非常に複雑な例がいろいろ挙げられていました。
つくる側としては、変長はそうならないようにすればいいだけですが、変別は狙って入れるわけではないので、難しいところです。
基本、細かいことをいわず、解答者には甘くすればいいと思っています。

玉方は最長手順に逃げるのは解答募集をするなら不可欠なルール。
なければ3手詰の方に逃げても正解です(笑)。
変別だろうが最長手順にならないように逃げては不正解。
これは決められたルールと言えるでしょう。
変別解は詰ませてはいる、作意も分かっていると推測出来る。この解答を正解として救出しようと言う考え方は僕は大賛成です。
正誤判定をしっかりしなければならないところでも救出しても良いくらいに思っています。
だけど学校は番付戦であり不正解は不正解にしないとと思います。

変別は成不成の非限定もなんですが、消せないものは消せないのですよね。
これらに関しては作者も解答者も極端に気にしても良い事はないと思います。
これに関しては作者の企業努力があればそれで十分かと思います。
企業努力が全く感じられない場合は問題ですがね。

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