2016年8月29日 (月)

酒井桂史作発見

 「將棋月報」には作者不明の作品がたくさんあります。
 これは、出題時には作者名を伏せ、不完全作であったことが判明した場合、そのまま作者名を明示しなかったためで、今となっては誰の作品か分からなくなっているのです。
 そこで、作者不明作を調べているうちに、これまで初出が明らかでなかった酒井桂史作を二三見つけましたので紹介します。


1931年3月 第一部

1011

88銀、同玉、97飛成、79玉、89金、同金、77龍、78銀成、13馬、69玉、
14馬、79玉、24馬、69玉、25馬、79玉、35馬、69玉、36馬、59玉、
57龍、49玉、58馬、39玉、48龍、29玉、47馬、19玉、39龍、18玉、
29龍、17玉、16と、同玉、18龍、26玉、37銀、35玉、15龍、44玉、
24龍、55玉、64龍、同玉、65金、73玉、74金、82玉、83金、81玉、
91歩成、同玉、93香、81玉、92香成、同飛、同金、72玉、82金、61玉、
25馬、52香、同馬、同玉、51飛、同玉、41歩成、同玉、43香、31玉、
23桂、21玉、11桂成、同玉、22金
まで75手詰

13馬、78玉、23馬、68玉、57龍、79玉、77龍の手順前後あり。
19龍、18歩合、16と以下、一歩があるので82歩と打って同龍、同金、同玉、84飛以下61手詰。

解説 山村兎月
前號五十六番に就て
詰方15とは原稿轉寫の際誤記したものか早詰を生じました。右15とは26との誤りであるかも知れません目下作者へ照會中であります御注意下されし山本三尾清水大手高須の諸氏へ深謝します

 15とを26とにすれば、
の余詰はなくなります。
 山村兎月編『將棋王玉編』(1938年頃)第58番及び清水孝晏編『酒井桂史作品集』(1976年4月・野口益雄)第96番の初出です。




1931年10月 第三部

1107

46と、同桂、同金、同角、68桂、同馬、47銀、57玉、59飛、同馬、
69桂、同馬、49桂
まで13手詰

解説 丸山明歩
本局は右の如き巧妙な手順でありますのに左記早詰を生じていたのは惜しい極みで何れ訂正の上再掲の豫定で居ります
甲 68桂、同馬、48桂、同と、47銀、57玉、48金迄
乙 46と、同桂、同金、同角、同飛、同玉、13角
採点は作意早詰共に致して置きました尤も本文手順を發見されて併記せられたお方は田中實氏のみでありました
鶴田氏曰く 本局は色々苦心して變化等調べて見ましたが非力ではどうしても作意と思はれる順が發見出來ずしかし乍得る處も大分ありました
田中實氏曰く 本局は輕手に富み非常な好局ですが殘念乍早詰がありました初め早詰手順に依り駒餘り不思議に思ひ考慮中本文十三手詰を發見同時に餘りに惜しい感が致します何とか出來ないでせうか


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 この作品は、「詰棋界」第1巻第3号(1951年8月)に「酒井桂史作品集より」として出題され、1952年新年臨時号に結果が掲載されています。
 以下、清水孝晏の解説。

 本局は誤図でした。写し誤りのようです。実はこの作品検討の際種々な詰手順があり、作意が判明しませんので皆さんの協力を頂いた次第です。悪しからずご了承の程を。
 作意らしきもの
46と、同桂、同金、同角、68桂、同馬、47銀、57玉、59飛、同馬、
49桂、同馬、69桂
まで13手詰

 誤図ではなく、月報の図通りでした。この手順は49桂と69桂の順番が入れ替わっていますが、元々非限定ですので。
 さらに清水は「一応修正図を考えて見ました。作意が成立すると存じますが……」として次の図を掲げています。

0084

 初手46との他、68桂も成立します。かなり痛い手順前後と思います。
 前記『將棋王玉編』第97番です。


1934年5月 第一部

1618

33成香、12玉、13歩、21玉、65馬、54歩、12歩成、同玉、56馬、同成香、
17龍、21玉、31金、同龍、
22歩、同龍、同成香、同玉、12飛、21玉、
11飛成、32玉、37龍、42玉、33龍、52玉、22龍右、32歩合、同龍右、61玉、
62歩、71玉、41龍、82玉、81龍、同玉、92香成、71玉、83桂、同金左、
81成香、同玉、31龍、71香合、92銀、82玉、91銀生、81玉、82歩、同金、
同銀成、同玉、93金、81玉、92金
まで55手詰

11龍、同玉、23桂、12玉、13歩、21玉、31桂成、同玉、32飛以下。

解説 山村兎月
評曰 本局は手數の割合に變化の少き局面なれ共32歩の捨合は巧妙なる一手なり殊に終局の寄せは申分無き巧妙なり
附記 本局は遺憾ながら15手目の22歩打の時11龍にて早詰ありたり麁漏(そろう)を謝すと共に採点の上本局は取消とす


 
71香合は作意。
 『將棋王玉編』第8番です。

2016年8月28日 (日)

「詰棋界」 その52

 第4巻第2号(通巻第19号)のつづきです。全体のページ構成はこちら

名作探訪(1)
酒中独歩

 戦后将棋界の復興がめざましく、その中にあって素人作家の詰棋界への進出は全く素晴らしい。数多くの傑出せる作家達が好作を発表、各誌において縦横に活躍した。
 この間、趣向詰の進展が最も輝かしいものであろう。そしてその彩に隠れてヤヤ短篇は精彩を欠き、しばしば類似作の暗い汚名をあびていた。
 その短篇の中からあえて好局を選んで"短篇必ずしも衰えず"の力強い歩みを示したいと思い、筆をとった次第である。
 本作は二対二の簡潔な構図の入玉図である。第一手37龍は絶対のようだが、29玉と逃げられ38銀、39玉で17(ママ)角のききが強くたとえ17角でも28歩で48銀の開き王手も29玉ともぐられて始末に困る。
 ここに来て初めて17角捨てが正解だとわかる。同玉は絶対で29桂、28玉、39銀、18玉、16竜と流れるように詰む。
 初手がわかれば、それまでともいえるが、適当な紛れとリズミックな手順、洗練された詰上りなど文句なしの傑作だと思う。

市川靖雄氏作

Para1491
「正解」
17角、同玉、29桂、28玉、39銀、18玉、16龍、29玉、19龍、同玉、
73角、29玉、28角成
まで13手詰

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 酒中独歩は小西寛の筆名。17角のききが強く、は当然19角のききが強く、です。
 本局は旧パラ1951年5月号の発表作。当時の結果稿(旧パラ1951年7月・小学校)を紹介しておきます。担当は田代達生。

手順の示すように何のわだかまりもなく、詰上げてからも爽快味の残る一局。形も簡潔だし、17角の好手や、37龍のまぎれなど適当な綾を含み、仲々の好小品と云えるでしょう。主な誤解手順としては37龍、29玉、38銀、39玉、47銀以下ですが之は37角成と龍を抜かれるのをうっかりしたもの。又47銀の前に17角、28歩、47銀だと、今度は29玉と逃げられます。
○鈴木茂生「駒捌きよし。之も煙詰の一種か」
○橋本恒二「2対2の図柄が面白い」


ジュニア 第四巻第一号
金田秀信

第五十番 爪手美奈斉氏

0850

16香、24玉、43銀生、25玉、34銀生、24玉、23銀成、同玉、24歩、33玉、
43と
まで11手詰

▼再度の銀不成は打歩詰の常套手段の打開策と異なり、邪魔駒の消去は好局と思う。 -原口芳実氏評

本局は打歩詰回避の手段に新味を出した。が、初手16香が、とりようによっては主眼といえる。17あるいは19香では、三手目43銀不成の時、34桂合で詰まない。この16香うんぬんと感想を寄せたのは岡田敏、渡部正裕の両氏のみだった。なお、前記変化34桂合で角合は、以下同銀成、25玉、35成銀、同玉、36歩、25玉、43角の作意と同手数の駒余りと詰となる。右の手順中、35成銀を24成銀とし、変化長手順ゆえキズとした評も見られた。


第五十二番 田中一男氏

0852

14桂、同歩、23香、12玉、13銀、同桂、21角、23玉、33桂成、同玉、
32角成
まで11手詰

▼よく駒がさばけて詰上がり見事 -高沢甫氏評
▼毎度なれど33桂成は胸がすく -桜井敏夫氏評
▼難解ではないが手順にすきがなく詰上がりの型も良く好感の持てる作品 -桶屋文雄氏評

 今回のトップ作品。手順、棋形ともに洗練された好局で田中氏のものとして私の知る限り一番よいように思った。"変化も又おもしろし"とは渡部氏も云っているが初手14桂に12玉なら以下23銀、同玉、32角、12玉、21角成、同玉、23香、31玉、22香成まで11手駒余り詰となる。

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 4局ありましたが、2局のみ紹介。


Cクラス 第四号(ママ)第一号
野口益雄

2 藤井国夫氏作

0765

13飛成、32玉、43龍、21玉、24香、22歩、同香成、同玉、23と、21玉、
22歩、11玉、12と、同玉、23龍、11玉、13龍、12合、23桂生
まで19手詰

 作者藤井氏は近代将棋の必死鑑賞室の御常連。まだ五、六題の発表だが必死の天分では当代一ではないかとさえ私は思っている。詰将棋の方でもなかなかの腕前でこの作は今月中一番好きだ。24香、22歩、同香、同玉の次ぎに桂馬で行ったのではダメで、と金が入る点も良い。11飛は33飛と置く法もある。33飛は紛れがある。つまり23飛成、11玉、13竜、12角合で詰まない。もっとも33飛では余詰があるから駒をひとつふやさねばならない。とするとやはり11飛の方が良いかな?


5 棋村迷人氏作

0768

46角成、同玉、66飛、同と、73角、36玉、37角成、45玉、35と
まで9手詰

 46角成、同玉、44飛の攻めがある。これは45桂、同飛、36玉で詰みがなくなる。なかなかの妙防だ。棋村氏、詰棋歴は比較的長いが、今まではそれ程のことがなかった。この二三ヵ月、急に巧くなったように思える。脱皮と呼ぶべきか。

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 6局ありましたが、こちらも2局だけの紹介です。
 野口益雄は読ませますね。

2016年8月25日 (木)

「詰棋界」 その51

 第4巻第2号(通巻第19号)のつづきです。全体のページ構成はこちら

將棋萬象(2)
會津正歩

第十三番

370013

11歩成、同玉、13飛成、同銀、12歩、22玉、32桂成、12玉、23銀、11玉、
21成桂、同玉、32銀生、11玉、12歩、同玉、23銀成、11玉、12歩、21玉、
13成銀、25と、11歩成、同玉、12銀
まで25手詰

 絶対手の連続であるが、21成桂から23の銀を成銀にかえて13銀を取る手順がおもしろいと思う。類型中では好作と思う。

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 『將棋萬象』は松本朋雅(知義)の作品集。上は1905年10月刊、30局。中は1906年8月刊、30局。下は1907年5月刊、40局。合わせて100局。この回は第11番から第20番までの紹介です。
 會津正歩は渡部正裕の筆名。


私はこう思う
恒川純吉

 新年号所載の金田氏の意見に対して私は少々異なった見解を持っておりますので述べさせていただきます。
 と申しますのは金田氏の意見は余りに機械的、公式的なものでして、私はもっと詰将棋の分野は広く、開放的なものであっても良いと思うのです。一般的に芸術(詰将棋が芸術かどうかは問題にしませんが)の分野においてそんなに厳しい制限が存在するでしょうか? 例えば形式的な和歌、俳句の如きものでも、三十一字、十七字のワクは無いも同様ではありませんか。華道でも草月流の如き従来の常識を逸脱したものが現れております。詰将棋の分野は広いようでも狭いもので早晩行きづまることを予想せざるを得ません(短篇作ではすでにその徴候を示しています)。この際極端な事を申せば将棋の駒数の制限をなくして飛三枚桂五枚の詰将棋が出ても良いと思えるほどです。詰将棋が指将棋から独立している以上このような事も近い将来問題になると確信します。
 現実の問題に帰って私としては「不完全作は早詰、余詰に限定する」ことを主張します。つまり攻方の手順を変えることによって別の詰め方が存在しなければ良いと云うことです。(手順前後は例外)尾別れとか手順前後とか変化長手順とかであっても結構。小キズではあっても立派な詰将棋と認めたいのです。
 ただそのような作品は鑑賞の際にはハンデキャップをもって評価されるのは当然です。このハンデを打ち消す様な傑作でありさえすれば良いのです。看寿の煙詰の如き手順前後というハンデに係わらず名作の名をほしいままにしているではありませんか。
 詰将棋欄を担当していられる金田氏が懸賞問題などの立場からあのような意見を持たれるのは不明確さを避けるために当然かも知れません。しかし「尾岐れや変化長手順はいずれの解答も正解とする」ことにすれば大して問題にならないと思います。


マド
◆新春号を読んで
 「浪漫派より見たる趣向詰」は浪漫派の意見を示し面白い。「詰将棋便り」"カニ"詰、初手57香とすると合駒余りとなる故、37銀を47とにしては如何? さすれば盤面 詰上り曲詰第三号? となる。"創作規定について"の考え方は少し厳しすぎるように思う。短篇の行詰りを云々される現在もう少しノンビリ考えては如何?
北原義治
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 北原氏の改作案。完全作。

Para54602777_2


創作規定について
門脇芳雄

 詰棋界新春号に金田氏が「創作規定について」と題し「尾岐れ作(変化と本手順が同じ長さのもの)や、合駒によって手数の伸びる(同時に駒が余る)作品は玉方最長の原則に反するから不完全と見なしたい」旨を述べている。
 又、金田氏は以前に近将に「詰将棋に余詰があっても詰方最短の原則にふれないから不完全ではない。且つ自分は『詰方最短、玉方最長』を信念とする」という事を述べ、詰将棋パラダイス誌でも同様の事を主張していたが、小生はこの二つの説を並べてどうも金田氏の「常識」に疑問を抱かざるを得ません。小生の思う所では「余詰は不完全、尾岐れはキズ(準不完全)である」というのが常識だからである。誤った見解を自分一人で信じておるなら差支えないが、天下の詰棋界にこれを発表されたからには小生もこれに反対論を唱えて見たいと思う。
 金田氏の説は「詰方最短、玉方最長の原則」を論拠としており、この説の欠点は詰将棋の規約を只一つの原則で論じようとした事である。
 さて小生の説は、詰将棋の規約は「詰方最短、玉方最長」のみではない。この原則は単なる必要條件で十分條件ではない。むしろこの原則などは規約のごく一部分的なものであって「詰方最短」などというのはほとんど意味を持っていない。この他の規約というのは「手余りの禁」「不詰の禁」「余詰の禁」などで、これらの條件は[詰将棋の創作規定(成立條件)にとって-(この点については後に述べる)]「玉方最長、攻方最短」より重要な絶体的なものである。したがって、これら詰将棋の諸條件、特に「余詰の禁」をさておいて、解答規約たる「玉方最長云々」をもって詰将棋の完全不完全を論じたのは金田氏の誤りであると思う。
 小生は以上の三條件にふれる作品を(程度にもよるが)不完全とし、三條件にはふれないが「玉方最長」の原則(詰方最短はほとんど意味ないから無視する)にひっかかるもの(これにも程度あり)を準完全と信ずるものである。尾岐れ作品を完全とするか不完全とするかはいささか主観的な問題であるが小生はこれを完全と見たい。一の「解答」手順が得られない、又は金田氏の神経にさわるという理由でこれを不完全也とするのは余りに見解が狭い。解答が尾岐れによっていく通りできたって何も差支えないではないか。又、合駒をすれば駒余りになる時、又は長手順の変化に駒の余る時には駒の余らぬ順を選ぶのは今日ほとんど常識になっている。これに対し敢て神経質に「玉方最長」でないとかどうのこうのという必要はないように思う。小さな部分的欠点を取り上げてどうのこうのいうのは詰将棋の末期的症状である。
 そうでなくても行詰りを云々されている詰将棋にわざわざ狭いワクを作るのは小さな家を建てゝ頭をぶっつけるにひとしい。
 次に「玉方最長」について述べてみたい。「攻方最短」の方は色々議論されているし小生もこの原則にギモンを感ずるので無視する。金田氏は「玉方最長」を絶対的なより所として議論を進められているようだが、小生いささか、この原則の絶対性にギモンを感ずる。
 この原則の特徴は(1)歴史的に見てはっきりした起源を持たない事 (2)解答規約である事 (3)成文化されていない事 などである。
 (1)の歴史的な点については古作物は総てその手順は妙手説によっている事からして少なくも江戸時代には「玉方最長」など全然考えもしなかったか、又はごく軽く見られていたと思う。それは詰将棋の目的が妙手の探求であって長手順を追う事が目的でない事、及び当時は創作が「主」で解答を募集する事がなかったので、本手順は創作者が自由に決定したせいであろう。
 昭和の将棋月報すら妙手説を採っていた形跡があるがとにかく「玉方最長」というのは「解答者」なる者が生まれ、これに大体の詰手順決定方針を与えるために大ざっぱに「玉方最長、詰方最短」などといいはじめたのだと思う。
 即ちこれは、(2)の解答規約なのである。しかし、これは別に成文化した法律でも何でもなく、只便宜上解答方針(大ざっぱの……)として「昔からあった……」とか「「常識である」とかいって皆で守っていただけのものである。一方創作者に対しては「余詰の禁」といい、又「手余りの禁」なる規約がある。
 これも別に成文化された法律でも何でもない。しかしこの方は「將棋駒競」以后二、三の例外を除いては不文律として絶対的に守って来たもので「玉方最長」などよりはるかに大きな意味がある。しかるに最近の一般詰将棋指導書でなぜ「玉方最長」を取り上げ「余詰」を取り上げぬかといえば、理由は簡単で前者は「解答規約」であり後者は「創作規約」であるからだ。故に初心者の詰棋指導書に書いてないという理由で「余詰の禁」を無視する理由はどこにもない。要するに創作は解答と連結しているから創作に当る者は創作規約を守ると同時に解答規約を満足する作品を作らねばならない。しかし詰将棋を論ずるに当り創作規約をさておいて解答規約をもってこれを云々する(特に余詰について)のは大きな誤りである。
 以上が小生の結論であります。高木には風当り強し。
 金田氏の御寛容をお願いする次第。
(一九五四.一.八 記)

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 すべて原文のまま。

2016年7月12日 (火)

今田政一研究 補遺

 1929年2月の記事を見落としていました。

「將棋教」今田政一
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020006

   原書の詰手順

▲86銀、同玉、85金、同玉、87龍、86歩、77桂、74玉、65馬、84玉、86龍
▲又86銀、84玉、85銀、83玉、74銀、同香、87龍、84歩、73金
▲又86銀、同玉、85金、96玉、87龍、同玉、77馬、96玉、86馬

將棋経の奥附は京六角柳馬場東入竹原□□(文字不明)板とあつて刊行年月が附記されてゐないのである因て何時頃の本か分らぬのは前に記した併し開板した竹原氏の住所が柳馬場東入と記されてゐる處より見れば天正以後の本であることはすぐに知れる柳の馬場とは何處かと云へば古書に萬里小路二條押小路南北三丁の地點を指すとあるが太閤が天下掌握した頃其處の道の左右に並木の柳生が續いてゐたから俗に柳の馬場といはれていたのである。處で開板した竹原氏と云ふ人は何人であるか知るを得ないを遺憾としてゐる
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 原文は▲八六銀同玉八五金……です。
 「前に記した」とありますが、28年8月号の「名人詰將棋百番」を指しているのでしょうか。しかしその記事では、出版時期について何も触れていませんが…。
 一貫して「將棋教」とあるので、誤植ではなく、また「将棋経」や「将棋経鈔」とも別物なのでしょう。28年3月号にも「一見者」という筆者が「秘傳將棋教」という記事を書いています。
 竹原は竹原(屋)好兵衞でしょうか。□が二文字分しかないのが気になりますが。竹原は『
慶長以来書賈集覽』に天保-明治の出版がみとめられる書肆として名前が出ており、『改訂増補近世書林板元總覽』には「豪華な京絵図で知られる」とあります。
 1670年の『書籍目録
作者付大意』にも1685年の『廣益書籍目録』(本朝彫刻書籍目録大全作者付大意)にも『將棋教』宗古作り物という本が記されていますので、竹原は江戸後期の竹原好兵衞とは別の書肆なのかも知れません。
 六角柳馬場と書賈集覽にある竹原好兵衛の三条麩屋町西北角は近い距離ですが、三条の一本南が六角、柳馬場の二本東の通りが麩屋町で、300メートルくらいあります。

 肝心の図ですが、これは『将棋智実』第6番です。駒が余ります。

2016年7月 6日 (水)

今田政一研究 その22(最終回)

 今田政一は1969年9月、詰パラ大学院に登場します。
 作品は既に「『将棋龍光』全作品」に掲載していますが、もう一度。

Para66704060

94と、同玉、93と、同玉、95香、94歩、92と、同玉、94香、93歩、
91と、同玉、93香生、92歩、81歩成、同玉、92香成、71玉、82成香、61玉、
62歩、51玉、53香生、41玉、52香成、31玉、42飛成、21玉、13桂、11玉、
31龍、12玉、21龍、13玉、14歩、同玉、15歩、同玉、25龍、同成銀、
同と、16玉、26と、17玉、28銀打、同と、同銀、18玉、19銀、同玉、
18金、29玉、28飛、39玉、49馬、同玉、48飛、59玉、49金、69玉、
68飛、79玉、78金、89玉、98角、99玉、69飛、98玉、99歩、97玉、
67飛、96玉、88桂、95玉、97飛
まで75手詰


68飛、64歩合、62歩以下作意と同じ。迂回手順。玉方64歩を配置すれば良い。玉方44とは不要駒。

 完全周辺めぐり。
 41年1月20日投稿、住所は川西市とあります。解答者43名中37名正解。詰パラ初入選作です。

担当 歓 棋天
此の作者、あまりにも有名な方と同じ名なので、珍しい新人かなと思っていたが、驚く勿れ矢張り御本尊であった。即ち月報時代の覇者であり、将棋龍光の著者である大ベテラン。嗚呼、龍は老いず。深淵の眠り覚めて今蒼海を割って躍り出ず。

青木文夫-純周辺巡りだが、平易な手順とは云っても初登場とは驚き、作者は何才?

泉はる子-新人が野心に燃え周辺巡りに挑戦美事なし遂げた。私は今田さんに対し拍手を贈ります。

中出慶一-今田氏は龍光の著者でしょうか?そうであれば相当のベテラン?

 このときの大学院のもう一作も初入選(詰パラ登場は2回目)。森田拓也氏の煙詰「醸泉」でした。




 ところで、今田政一と山田修司氏と山本民雄が一堂に会したことがあるのを知っていますか?

 そんなことが…と思うでしょうが、事実なのです。

 その証拠がこれです。

Photo_4    

 何だ、会っていないじゃないかと言うなかれ。誌上であれ、一堂に会していることには違いない。正に歴史的邂逅!
 これは「近代将棋」1970年5月号です。
 清水孝晏が「知られざる詰将棋」(1970年1月~6月)の第3回で酒井桂史の創作メモにあった未発表作3局を紹介した際に解答を募集したのですが、当選者10名の中にこの3人が名を連ねていたのです。
 この事実を最終回とすべく、それらしく研究を書き始めたのです。つまりここまでの「今田政一研究」は序奏で、言いたかったのはこれだけです。(笑)

 それではあんまりなので、酒井桂史の創作メモにあったという未発表作を紹介して終わりにしますか。

第一問

70850058_2

清水孝晏
 殘念だが不詰であった。実は私もさんざん追ってみたのであるが、どうしても詰まないので、どこかに盲点があるのではないかと思っていたので、あえて人のわるい出題としたのだが、やはり不詰であった。

77馬、同香生、76角、同桂、68歩、同桂成、56銀、66玉、67歩、同成桂、
55銀左、同桂、同銀、65玉、77桂、同成桂、66歩、同桂、54銀、64玉、
65香、73玉(A図

A図
70850058_3

 ここまでは成桂ずらしの趣向でスラスラと来るが、ここで①63銀成、②63香成、③82銀不成の三手段に岐れる。
 しかし、この三手段ともわずかに詰まないのである。

第二問

70850059

13銀成、11玉、12成銀、同玉、14香、22玉、13角成、33玉、34歩、44玉、
35馬、55玉、45金、66玉、57馬、77玉、67金、78玉、68馬、88玉、
79馬、99玉、98金、同玉、89銀、87玉、88馬、86玉、77馬、75玉、
76金、64玉、55馬、53玉、54金(B図

B図
70850059_2

 ここまでは馬と金ずらしの趣向だが、ほぼ一本道。B図以下

52玉、51桂成、同玉、53香、52桂、
61桂成、同飛、同銀成、同玉、52香成、同玉、53飛、61玉、69飛、66桂打、
同飛、同桂、73桂、同金、51飛成、同玉、73馬、62角、63桂、52玉、
53金打、同角、51馬まで。

 右が作意のようだが、どうも収束がはっきりしない。これも未完成品であろう。

第三問

70850060

85飛、同玉、74角、95玉、84銀、同龍、同角、86玉、95角、97玉、
86角、98玉、65角、76歩、同角、89玉、67角、98玉、99歩、同玉、
77角、88歩、89飛、98玉、99歩、97玉、88角、86玉、77角、75玉、
86角、84玉、95角、93玉、84角、82玉(C図

C図
70850060_2

72歩成、同銀、73角成、93玉、
84馬、82玉、72香成、同玉、79飛、61玉、71飛成、52玉、51馬、43玉、
53金、同玉、62龍、44玉、53銀、43玉、52龍まで。

 右の手順が最も長いが、詰上り一歩余るのでこれまた未完成作品だ。


おわり

2016年7月 5日 (火)

今田政一研究 その21

42年1月号
「象戯勇士鑑考」今田生
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本書即ち象戯勇士鑑は大矢數作者宥鏡の著はした百番である。奥附に享保十四巳酉歳正月吉日菊屋七郎兵衛板と記載されてゐる。處がどう云ふ譯か本書は伊野邊看齋の象戯手段草と同様に禁書になつた。それが爲に現今餘り傳はらぬ。筆者の關知する處は塚田八段藏(寫本)と小杉次郎氏藏(版本)丈けである。
拙藏本は下巻一冊にて充分ではないが、赤池賢齋著將棋圖解にない圖を紹介しておかう。
第七十八番には「綱目第四別所素庵作云盗製也元來古作補直可見」と首書がしてある。
因に赤池氏作將棋圖解は主として本書の圖式を改案したものであることて(ママ)附言しく(ママ)おく。

第七十八番

220078

61角、同玉、62成桂、同銀、51馬、72玉、62馬、83玉、61馬、74玉、
75銀、同玉、25飛成、64玉、65金、53玉、55龍、42玉、51馬、32玉、
52龍、21玉、25香、23香合、12歩成、同龍、同龍、同歩、23香生、同桂、
41飛、31歩、32金、同玉、42飛成、21玉、22香、11玉、31龍
まで39手詰


第百番

220100

83歩、71玉、72金、同金、同銀成、同玉、82歩成、同玉、84飛、83桂合、
73角、同桂、同歩成、同玉、74金、62玉、54桂、71玉、72歩、61玉、
73桂、51玉、52歩、同金、61桂成、同玉、52と、同玉、63金、同玉、
83飛成、73角合、同龍、同玉、62角、74玉、84金、63玉、73角成、52玉、
64桂、41玉、63馬、31玉、32香、同龍、同銀成、同玉、52飛、33玉、
42飛成
まで51手詰
---

 月報には詰手順の記載はありませんが。
 この今田の一文についてはここで触れています。『象戯勇士鑑』と『象戯手段草』が絶板になったことを詰棋界に紹介した最初の例ではないでしょうか。


 1月号には松井雪山の「三代宗看圖式補正完成章(二)」が掲載されていて、今田が『将棋無双』第6番(不詰局)について、従来の玉方65歩追加では余詰が生じることを指摘したとあります。
 この年は雪山の『将棋無双』に関する研究がほとんど毎月掲載されています。前田三桂の名もときには出てきますが、検討、補正の主力は今田で、頼りにしていたようです。


42年2月
「諸文庫御所藏詰將棋解題(一)」
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高木利太文庫藏
一 象戯馬法 元祖宗桂
本書の詰圖を見ると二代宗古作物であつた
又本書の題號が右の如くであるかどうか疑問である。
元祖宗桂の詰將棋書名は最初に何と記されてゐるか知りたいと思つてゐる、寛文年間には「將棋宗桂作物」とあり、元禄年間には「元祖宗桂象戯圖式」として上梓された
宮本君が發表された「元祖宗桂作物詰書」の一番の詰様は「象戯秘傳抄(ママ)」と相違してゐる。

自作改訂について
先に自作を収録して本誌に掲記の上若干増補し單行本として世に問うたところ誤謬が意外に多いのには一驚を喫した。
茲に於て、諸家の注意を酌んで更に推敲に努力し漸く完璧たらしめました。中巻は此の失敗に鑑み詰圖を本誌に出題し諸兄の檢討をお願ひしやうかと思つてゐます。

昭和十七年一月新作
戦勝を祝して

194202

73銀成、同歩、75歩、同玉、86金、65玉、67香、54玉、43銀生、45玉、
23角成、同と、37桂、55玉、47桂
まで15手詰
(今田生)
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 いろいろと興味深い内容です。高木利太は和本(特に古活字本)コレクター。
 「將棋宗桂作物」、「元祖宗桂象戯圖式」はいずれも正確な書名ではないと思うのですが。
 また『將棋龍光』の中巻の予定があったことが知られますが、41年11月号にも「中巻二十番を編輯することにしました」とありました。中巻があるなら下巻もありそうなので、いずれは百番にする意図があったのでしょう。
 新作は曲詰ですが、凡庸です。
不完全作。データベースにはありません。
 (一)となっていますが、(二)以降は無し。


42年3月
將棋手鑑下巻 勝渡瀬氏譜の疑問」今田政一
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 それにしても、三代宗看圖式といひ手鑑といひ斯道の二大寶典が松井雪山氏(「古今將棋諸書評論37頁よりの手鑑考参照)及び自分等素人の手に依つて能く完全な姿となし得たといふ事は、何人も意想外とするところなるべく、専門家は汲々技を賣るに忙が(ママ)しくして古典の校勘などは殆んど念頭になく、素人の研究は寧ろ無視して耻ぢず、其間に在つて別稿三代宗看完成章にも見る如く、実に長年月営々の結晶とはいへ續々斯かる好績を擧ぐるに至つたのは古人の冥助とも感ぜられ、全く不思議の因縁とする外はない。亦渡瀬自身の旅日記が傳へて以て我が手に歸したのも奇蹟とこそいへやう。
---

 前段は安政4(1857)年4月の天野宗歩(左香落)と渡瀬荘次郎の対局譜について述べたもので、省きます。
 いつになく高揚した文章ですが、松井雪山に引きずられている感があります。


42年3月
「十代將軍詰手考」今田生
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十代將軍家治公は元文二年誕生幼名竹千代寶歴(ママ)十年宣下天明六年薨去治世二十七年公甚だ將棋を好み棋級六段に進み自作詰將棋十二番がある、之は寫本として傳はり高濱作藏氏藏本には見出しの如き表題が附されてゐる。然るに故大崎八段の藏書には「浚明院攻法」と記載されてゐるとのことである。
私は山村兎月氏寫本を見る機を得た處、第七番に次の如き詰手順が記されてゐた。

十代將軍徳川家治公
御自作 第七番

004

23歩不成、31玉、32歩打、同玉、24桂、31玉、22歩、同玉、42飛、13玉、
12龍、24玉、14龍、35玉、15龍、46玉、47歩、36玉、37金迄。
しかし之は早計であつて15龍の時25歩合にて詰まぬ。本局は不化(ならず)詰であつて本文九手目から42飛不成13玉12飛不成24玉22飛不成35玉25飛不成と指すのが作意であらう。又第五番は持駒を書落してゐる。それで詰手が分らないのである。拙案では二十三手詰となる。
本書の出處たる前田三桂氏御所藏の原本には解答が無かつたのではあるまいかと思ふ。
---

 「本文」というのは今田だけの用語ではなく、有馬康晴や岩木錦太郎も使っています。作意手順という意味でしょう。なお第七番は原本では第四番です。第五番は不詰のようですが、原本の何番に当たるのか、今田は「拙案」を示していないので分かりません。


42年3月「銀ずらし問答」有馬
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前號發表の自作に對し内藤、富川
兩氏より御高評を頂いたので次に掲載しました。

自作
「銀千鳥」修正圖

3524

15銀打、25玉、26銀打、16玉、17銀打、27玉、28銀、16玉、17銀引、25玉、
26銀引、14玉、15銀引、23玉、24銀、14玉、15銀上、25玉、26銀上、16玉、
17銀上、27玉、29飛、同成桂、28歩、同成桂、同銀、16玉、17銀上、27玉、
39桂、同飛生、28銀、16玉、17銀引、25玉、26銀引、14玉、15銀引、23玉、
24歩、32玉、42歩成、同香、54角、43歩合、23歩成、同玉、24銀、14玉、
15銀上、25玉、26銀上、16玉、17銀上
まで55手詰

内藤氏曰く「有馬氏は最近健康勝れずその中を僅かに詰將棋の創作に没頭されて精神の慰安を求められて居りお氣の毒に耐へない、本局は酒井、今田氏に次ぐ名作にして氏としては近來の大作でした。趣向面白く今田氏の「銀鎖」と並んで之は又「銀千鳥」と呼び度い様です…」
作者曰く「過分の御高評にて氣が引けます今田氏の手筋を真似たのでなければ名作となるのでせうが……」
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富川=富川甚七郎(宮本弓彦)

余詰順、動く将棋盤はここにあります。


 42年5月、宮本弓彦の「棋史校勘記」より。
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 象戯勇士鑑に就いて、その一
 註(上杉敏夫君は第一、第二、第三、第四を
今田政一君は第五の各巻を所藏される而して有馬康晴君は第五巻の寫本を所藏される。…)
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せきやど図書館の『象戯勇士鑑』第五巻には宮本弓彦と思われる書き込みで「上杉氏ヨリ譲ラレタ」とあります。上杉は全巻所持していたのでしょうか。上杉→宮本→有馬→(塚田)→清水孝晏という経路が見える本で、興味深いです。


 同じく5月号、富川甚七郎の「一話一言」より。
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今田君は三月號誌上で「渡瀬氏自身の旅日記が我が手に歸した」と書いておられるやうですが、アレは村尾榮といふ人から買つたのではないですか。もしさうならちよつと心当たりがあります。
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 今田からの返事はありませんでした。


 42年7月 「餘瀝(一)」松井雪山
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「精觀中巻」に始めて、當時の衆智を蒐めて未だ補正に於ては遺憾の点ありしとはいへ疑局通觀其全貌を明示して信倚し得るものと研究史上一紀を劃し(第丗七番全解決)次の「精觀中巻補遺篇」
には幸に、今田、前田両氏の助力を得て寔に成果見るべきものあり(第八番、第丗一、四十、五十七、七十三、八十八、八十九番以上各全解決)、最後に今次の「補正完成章」に至つて終に克く今田氏の協力に依り奮迅完璧の域に達し得たのであつた(第六、廿六、六十二、七十四、七十六番の残悉くを全解決)…
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『將棋精觀中巻補遺』は1938年12月、棋研會発行。『將棋精觀下巻』も予定されていたようですが(月報1944年2月の「餘瀝補遺」による)、『古今 詰将棋書総目録』にはありません。

 『詰むや詰まざるや』(門脇芳雄編1975年・東洋文庫)では、『将棋無双』第8、40、57番に今田の補正案が紹介されています。古図鑑版(京都府立図書館所蔵の松井雪山寄贈本)ではさらに第73、74番にも今田の補正案が掲載されています(73番は補正者の名前の部分を消して「今田政一」と雪山が上から書き直している)が、2局とも不具合があります。

Photo_2
古図鑑版『将棋無双』

 雪山の『将棋無双』に関する文章中には今田の名前がたくさん出てくるのですが、変化の記載が主なので、他は省略します。


 42年8月、田邊重信「月報主幹の顯彰を提唱す」より
---
 實際、一箇の月報誌が存在致しましたが爲に果して如何なる貢献が具体化されたでありませうか、先年前田三桂先生に依り連月誌上に説破されましたる棋士の後段制の提案にして、遂に將棋大成會の採擇する處となりましたる如き、今田政一氏を、いだして「將棋龍光」をのこし、丸山正爲氏を助けて「イロハ字詰」の梓を起しましたるが如き、…
---


 さらに11月号、岩木錦太郎の「詰將棋ひと昔」より。
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 十年一昔と云ふが、(中略)扨て次は詰將棋方面だが、名人酒井先生は其の頃盛んに名作を寄せられ、我等をして三昧境に遊ばしたものだ。又その頃の我等を惱ましたものに、宗看圖の恩人今田氏あり、…

 丁度十年前の頃である。今滿洲に居られる杉本君が、詰將棋作家協會を作れと提唱された事がある。確か再三再四叫ばれたやうに記憶するが大した反響もなかつた。そして其れから十年も過ぎて了つた。昭和十七年──今こそ協會の實現する時ではなからうか。御名前を掲げて申譯ないが、理事長に有馬氏、理事に佐賀君、土屋君等氣鋭の士に座つて貰ふ。名譽會長に阿部主幹、顧問に前田、酒井、櫻井、松井、今田、里見、宮本、田代、杉本並び(ママ)先輩諸氏。
---

 44年1月号に「日本詰將棋作家協會設立要項」が発表されますが、そこでは名譽會長 阿部主幹、會長 有馬康晴、理事長 杉本兼秋、理事 岩木錦太郎、大橋虚士、吉田一歩、内藤武雄、小林豊、佐賀聖一、澤田和佐、顧問として前田三桂、松井雪山、櫻井蘇月、宮本弓彦になっています。
既に酒井桂史は亡くなっていますが、今田は固辞したのかも知れません。
 岩木、吉田、小林、佐賀、澤田は当時の詰将棋欄(第一部~第五部)の担当者です。


43年3月
有馬康晴「疑問の詰棋書」
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 以前今田政一氏の原稿にて手段草と勇士鑑の二書が禁書となつて居る爲極少數しか傳はつて居ないことを拝見したから、福泉藤吉は右の本を將棋新選圖式と解題して發行し、山村兎月先生は新選をもぢつて神戰と改題し、著者を看齋と判定して發賣されたものと思ひます。
---

 『象戯手段草』は興味が尽きない詰棋書ですが、ここは今田に関する言説を採り上げるのが目的なので深入りしません。


 同じく3月号、蒐集生「古圖式解説に就て」
---
幸な事には將棋月報が創刊當時より種々な圖式の解説研究にあたり現在迄に左の數種が完成せられて居る。
力草、智實、駒競、無双、圖巧、衆妙、舞玉、極妙、等々故加藤文卓故山村兎月、横田幸歩、前田三桂、松井雪山、今田政一、等々諸先生の明徹犀利、而も正確無比なる名解説に依り一箇の駒の道程まで研究完成せられた事は我々詰棋黨の大なる収穫であり月報の偉大な功績であります…
---

 これは『将棋妙案』解説を始めるにあたっての序文のようなものの一部です。これに先立って蒐集生は36年から38年にかけて舞玉(当時この名称はなく、九代大橋宗桂図式などと呼んでいました)の解説も書いています。


43年4月
有馬康晴「疑問の詰棋書」
---
圖式に於て玉の位置を對照的に置くと云ふ事は圖式編纂上の一つの形式であらうが之は理想で實際は中々困難らしく自分の知る範圍では第一に三代宗看圖式及び圖巧(舊將棋世界誌上に發表)八代宗桂及び五代宗桂(上杉氏より本誌上に發表)二代宗印、九代宗桂、三代宗與の各圖式及び新しい所では故山村兎月先生の圖式將棋三光と五十局ではあるが今田政一氏の將棋龍光がある
以上の中で全八十一格に對照的なものは僅かに三代宗看及び看壽の圖式の二つが有る所からみても、この二人の圖式が如何に優れて居るかが分る。
---


 43年8月の東京太郎「盤側閑談」は小駒図式がテーマで、「調査圖式集目録」に『將棋龍光』があります。最も新しい図式集として有馬康晴の『詰將棋吹き寄せ』(42年12月・月報社刊)まで掲出されています。
 なお今田政一の発表作に小駒図式はありません。


 
44年2月の月報廃刊記念号にも松井雪山の「餘瀝補遺」という『将棋無双』第65番に関する記事があり、今田の名前がありますが、今田自身は42年6月号の「將棋龍光完成篇」を最後に沈黙します。
 復活したのは1969年9月の詰パラ大学院です。



つづく

2016年7月 4日 (月)

今田政一研究 その20

 『將棋龍光』の最終図で完全作は15局、不完全作は35局でした。第27番はかなり非限定ですが完全作扱いにしました。


41年11月
「八代宗桂圖式に就て」今田生
---
本圖の詰方65香は原本に「25」に有るもそれは誤刻ならんか
即ち43桂同金66角55角合にて詰がない、但43桂同玉45香打同と76角打44玉45歩55玉45飛打也
此の手順は早詰で勿論作者の意ではない詰圖に詰方65香とあれば前記55角合の時45香同と同歩54玉64飛打同角同とにて詰む。又43桂同玉の手順に76角打がないから早詰が消滅する

八代宗桂圖式
第三十三番

32

さて作者の期待する手順は次の如くであらうと九九生氏
※1は述べられてゐる。

43桂成、同玉、45香、同と、53飛、44玉、35角、同飛、45歩、同飛、
同香、同玉、56飛成、34玉、44飛、同玉、45歩、34玉、54龍、35玉、
36歩、46玉、56龍
まで23手詰

詰方25香があるなれば44飛の處35歩打の餘詰があり又香を二枚重ねておく理由はないやうである。故に拙案が原作者の意ではないかと考へられる。
參考のため大橋家秘書
の解を示す。
ふ桂 同玉 え香 同と み飛 こ玉 む角 同と寄 え歩
同と 同香 む玉 う歩 え玉 も飛 こ玉 え歩迄
※2
勿論之は外詰に過ぎない。
---


※1
 九九生=加藤文卓。

※2 「いろは式」。書き直すと
43桂 同玉 45香 同と 53飛 44玉 35角 同と寄 45歩
同と 同香 35玉 36歩 45玉 56飛 44玉 45歩迄
※3

 まず、この図は三十三番とありますが、原本(献上本)は三十二番です。これは今田の誤りというより、参照した九九生編の『八世大橋宗桂圖式』(1925年・月報社刊)の作品順序が誤っていたのです。
 今田は当時京都図書館にあった(現在は京都府立総合資料館所蔵)松浦大六寄贈本もおそらく見ています。というのは、
※3この後に43玉、53龍と続かなければおかしいのですが、松浦寄贈本(大橋宗金から「授受」)も「え歩」で終わっているからです。つまり「大橋家秘書」は松浦寄贈本です。ちなみにこの本では第32番は84番になっていますので、松浦本では33番になっているという『木葉 附将棋大綱』の記載は誤りです。

 次に、今田案は25香を65香ではないかとして置き直していますが、25香配置が作者の意図するところです。ただし、25香だと43桂成、同金、66角に55角合で詰まないという指摘は正しい。即ち、原図は不詰なのですが、いろは式の手順は外詰ではなく、作意でした。
 この図については以前補正案を考えてみましたが、加藤文卓案もあるとのことで、以下に紹介します。

32_2

 加藤案では
35角、同飛以下の変長駒余りになります。


41年11月

3401

87角、44玉、45銀打、55玉、56銀打、66玉、67銀打、77玉、78銀、66玉、
67銀右、55玉、56銀右、44玉、45銀右、33玉、34銀、44玉、45銀左、55玉、
56銀左、66玉、67銀左、77玉、79飛、同成桂、78歩、同成桂、同銀、66玉、
67銀右、55玉、56銀右、44玉、45銀右、33玉、
25桂、同香、34銀、44玉、
45銀左、55玉、56銀左、66玉、67銀左、77玉、71龍、同金、78銀、66玉、
67銀右、55玉、56銀右、44玉、45銀右、33玉、34歩、22玉、32角成、同玉、
33歩成、同玉、34銀、44玉、45銀左、55玉、56銀左、66玉、67銀左、77玉、
78香
まで71手詰

55銀、同玉、67桂、66玉、75角まで。

41年12月

3434

手順同じ

41年12月
有馬康晴「前號甲組の課題は夫々早詰有り、作者より再出題の御希望がありましたから本號が幸ひ新題休載と知り、急遽訂正再掲載した次第です。兩題共先輩大家
の特(ママ)作品ですから振つて御回答あらん事を切望致します」

出題時には作者名は伏せてありました。

42年1月
内藤武雄
---
本局にも早詰あり未だ不完全でした作者今田氏も非常に熱心に努力されてゐますが本局は一朝一夕に修正は成難く思ひます實力ある今田氏の事なれば再修正して發表せられん事を切望する次第です
……
こゝまで書いた時今田氏より通信あり玉方62金は不要に付除去したなれば如何にとの事なれ共小生考へるに之にても早詰ある様に思ひますが何分、充分の研究出來ず殘念ですが25桂打を止めて直ちに32角成同玉21龍以下詰あるやの如く思考します故に右の修正は作者に對し失禮ですがこゝには前號の圖式を發表する事にします
---

 正解者は7名。早詰順が5名、作意順が2名。嵯峨俊一(=大橋虚士)、廣瀬善一、柴田龍彦の名前が見えます。
 余談ながら柴田は彦左衛門が本名?らしく、旧パラ中学校の選者を務めていたこともあります。古棋書の蒐集も相当なもので、「江戸時代の和本150点、250冊、明治・大正・昭和戦前の棋書雑誌約2000冊」を所持していたとのことです。(郵政省機関誌「郵政」1969年11月)


42年1月
有馬康晴
---
第二回「有馬賞」課題は作者も出題者も非常な意氣込で出したのですが美事黒星を頂戴してがつかりして疲れたので今度の選を作者に押し付けて仕舞ひました。この我儘な申し出を快くお引き受け下さつた内藤氏に御礼を申し升。
……
今田氏に就いては、今更私から申上げる迄もなく我々にとつては先輩であると同時に現役の大家です。著書「將棋龍光」は棋界の寳典です。あのやうな大作ばかりでなくともよろしいから一日も早く百局として發行されん事を切望する次第です。
本作は龍光發行後初の發表作で十五年七月支那事變記念に作られたものであります。御覧の通り極めて特異な取(ママ)材にて我々初心者にも妙味を味ふ事が出來る誠に美事な出來榮えです。本手筋をエスカレーターとひそかに稱して居たら大手氏は「銀鎖り(ママ)」と呼ばれし由誠に藝術的で適切な名称だと思ひます。
---

 上記のとおり12月号は修正図ですが、
11月号の図では問題がなかった32角成、同玉、21龍、同玉、11歩成、31玉、33香、32歩合、23桂、22玉、12香成、33玉、34銀、44玉、45香、54玉、43銀生までの余詰が生じています。


42年6月

Geppo34342

 再修正図。『將棋龍光』の最終修正文の末尾に「尚本誌正月號掲載の拙作は玉方62香と玉方99金と改む」とあり、あやうく見逃すところでした。
 完全作です。
 今田の不完全作は10局近く補正したと思いますが、これは直せなかったので、目からウロコでした。



 41年12月号に松井雪山が「三代宗看圖式補正完成章(一)」と題して、無双第2番は不詰であるという杉本兼秋の主張が正しいかどうか、今田政一の手を煩わせて検討してもらったことが書かれています。変化が延々と書いてある無味乾燥な文なので引用しませんが、結果はもちろん詰みあり。
 この図に木見八段の補正案があって、有用な補正と評価されていたことを初めて知りました。

『将棋無双』第2番

090002

16歩、14玉、15歩、13玉、14歩、24玉、35銀、同玉、85飛成、34玉、
26桂、同歩、44馬、23玉、25龍、24桂、34龍、同歩、33馬、同玉、
25桂、22玉、13歩成、同歩、23歩、同銀、13香成、11玉、12歩、同銀、
同成香、同玉、13歩、11玉、12銀、22玉、23銀成、同玉、41角成、32桂、
同馬、同玉、33金、31玉、43桂、41玉、51と
まで47手詰


 これは原図ですが、補正案は玉方61金を置くというもの。
 そうすると61桂成、41玉、51成桂迄となり「茲にて玉方61金の補正なくば單に51とにて詰上り含蓄に乏しき嫌あり」(雪山)ということなのですが、正に蛇足。

 雪山は次号予告として「來正月號續稿には同三代宗看圖式第六番が從來玉方65歩を追補して完全なりとの定説を覆す新説(今田政一氏發見)並に延いてこれに伴ふ新補論(雪山案)の大論文を發表いたします」と書いています。
 どうも大言壮語が好きな人ですね。


つづく

2016年7月 3日 (日)

今田政一研究 その19

作品
番号
指摘者・指摘図 今田対処図 今田対処図
41 41年5月初出
41年7月新入生
余詰
041_2
41年9月今田
最終図


041
余詰
42 41年5月初出
41年9月佐賀
余詰

042
41年10月今田


042_3
完全
42年6月今田
最終図


042_2
完全、72歩は不要
43 指摘なし
41年5月初出

043
余詰
41年11月今田
最終図

043_2
余詰
44 指摘なし
41年5月初出=最終図

044
余詰
45 39年10月初出
誌上『龍光』には掲載無し
41年7月藤井
「圖面玉方15馬が脱落してゐる」

045
余詰
正図





045_2
余詰
46 指摘なし
41年5月初出

046
余詰
41年11月

046_2
余詰
42年6月
最終図

046_3
余詰
47 指摘なし
41年5月初出

047
余詰
41年11月今田

047_2
余詰
42年6月今田
最終図

047_3
余詰
48 41年5月初出
41年9月佐賀
余詰

048
      
41年10月今田
最終図


048_2
余詰
49 41年5月初出
41年7月新入生
余詰
049

41年9月今田
最終図
42年6月の訂正は重複

049_2
余詰
50 指摘なし
41年5月最終図

26年3月201手詰の改変050
余詰

 41年1月の『龍光』掲載時点で、それまでに月報誌上に発表されていたのは21局でした。
 このうち『龍光』に漏れたのは(第50番は別として)第45番(初出39年10月)だけです。ただし、刊本では収録されています。つまり一局も捨てていないのです。

 刊本が左右対称になっているのは以前書きましたが、『龍光』30局も左右対称です。第45番は83玉、その対になるのは23玉の第44番(市松)です。既に発表していた第45番を入れるには第44番も入れなければならない。外す方も2局セットなので、取捨選択の結果なのでしょう。
 

つづく

 

2016年7月 2日 (土)

今田政一研究 その18

 31番以降は、第45番(39年10月初出)と第50番(26年3月の大改変)以外は41年5月の刊本初出です。

作品
番号
指摘者・指摘図 今田対処図 今田対処図
31 指摘なし
刊本=最終図
031
完全
32 指摘なし
刊本=最終図
032
完全
33 指摘なし
刊本=最終図
033
完全
34 41年9月佐賀
刊本=最終図
余詰
(今田対処なし)034
35 41年7月新入生
「53香は52香の誤りであらう」
41年9月佐賀
余詰035
41年11月今田



035_2
余詰
42年6月今田
最終図


035_3
余詰
36 指摘なし
刊本=最終図

036
余詰
37 指摘なし
刊本=最終図

037
完全
38 41年9月佐賀
手順誤りの指摘

038
余詰
41年10月今田
最終図
038_2
余詰
39 41年7月新入生
余詰
39

41年11月今田
 

39_2
余詰
42年6月今田
最終図
39_3
余詰
40 41年7月新入生
余詰

40
41年11月今田
最終図

040
余詰

つづく

2016年7月 1日 (金)

今田政一研究 その17

作品
番号
指摘者・指摘図 今田対処図
21 指摘なし
41年1月
3222
完全
41年5月
刊本=最終図
3222_2
不詰、歩2枚あれば余詰
訂正記事はないため、誤植か
22 指摘なし
41年1月
最終図

3223
余詰
23 指摘なし
41年1月
3224
余詰
41年5月
刊本=最終図

3224_2
余詰
24 指摘なし
初出36年4月
刊本同じ、最終図
3225
完全
25 指摘なし
41年1月初出
刊本同じ

3226
余詰
41年2月今田訂正は手順のみ
41年10月今田
最終図

3241
余詰
26 指摘なし
41年1月
刊本同じ、最終図
3227
余詰
27 指摘なし
41年1月
初出=最終図

3228
完全
28 指摘なし
41年1月
初出=最終図
3229
余詰
29 指摘なし
41年1月初出

3230_3
余詰
41年2月今田
刊本と同じ、最終図

3230_2
余詰
30 指摘なし
32年10月初出=最終図

3231
完全


つづく

 

«今田政一研究 その16

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